2.雲洋を取り巻く人びと

 雲洋の交友関係を物語る資料として、書画小集案内状(写真3.)がある。雲洋が会主として六軒町角屋にて開催したもので、それには会幹として凌雲、南華(春木)、老雲(高梨)、竹堂(宮沢)、西郭、文志、補助として南齋、●齋、芳齋(高木教)、松齋、抑齋(高木貞)、縉峯など当時の当地域における文化人の名が並んでいる。

 奥州白河の漢詩人で天保年間から10数年安房に滞在した宮沢竹堂が著した『房州雑詠』に、雲洋は「鏡ヶ浦」の挿絵(写真4.)を描いている。

 また、春木南華画讃「山水図」に、雲洋が所有していたことを示す押印があることや、雲洋作品の伝来する家には、南華をはじめ、南湖、南溟ら春木一家の作品を所蔵されるケースが多く見られ、花鳥画を得意とする雲洋の作風を考えるうえで、春木との交渉が注目される。

 資料「挽琴嶺」は、琴嶺、つまり長須賀村名主の池田金七を追悼するためのもので、詩文を文芸仲間であった高井の医者・高木抑齋や、山本の医者・高木芳齋、長須賀の医者・上野三英・中條九皋らが撰じて、雲洋がこのサークルの様子を描いたものである。

 なお、残念ながらこの資料は現在所在を確認できず、写真のみが伝来している。

 雲洋は酒をこよなく愛したというが、名主の家や旧家に出入りし、酒を振る舞われては、お礼に画を描いたという。

 安房四郡の初代郡長であった重城保とも交友があったらしく、『重城保日記』には雲洋が訪ねてきて三更(深夜0時頃)まで画を描いていたとの記述がある。

 雲洋とほぼ同時期に活躍した郷土の絵師に川名楽山がいるが、その生家には雲洋の資料多数が伝来してる。

 その中で特に興味深いのは、雲洋が落款にしばしば用いた「筆華墨雨」の文字を刻んだ印章が保存されていることである。

 楽山と雲洋の関係については定かではないが、館山市見物の東伝寺本堂内陣の杉板戸絵は向かって右側を雲洋が「松図」を描き、左側を楽山が「豊干寒山拾得図」を描いている(当館図録『川名楽山』所載)。

 ただし、楽山がこれを描いたのは雲洋が没して2年後のことである。

 同じような例として、鋸南町の妙本寺客殿外陣の天井絵がある。飛天が3点描かれているが、外に向かって中央に位置する大きな作品は無款、左側の作品には「雲洋〔雲洋釣者〕」の落款、右側の作品には〔川名敬信〕〔坦齋楽山〕の落款がある。

 無款の中央の作品の作風を見ると、左に配する飛天は雲洋の描いたものといえるが、右に配される方は、顔立ち等は雲洋であるが、体躯の動きや、条帛の処理に違和感が見られるので、あるいは雲洋の未完成の作品を楽山の補筆完成させた可能性も指摘できよう。

 このように、晩年の雲洋と楽山とは、深い関わりががあったものと思われる。

3.書画小集案内状
書画小集案内状
4.宮沢竹堂著『房州雑詠』挿絵「鏡ヶ浦図」
宮沢竹堂著『房州雑詠』挿絵「鏡ヶ浦図」
  嘉永元年(1848)