大正7年に東京と館山を結ぶ鉄道北条線(現内房線)が開通するまでは、館山での輸送手段は海上交通でした。館山湾北岸に位置する船形村をはじめ、南岸の新井浦・柏崎浦を中心に東京へ生魚を輸送する押送船(おしょくりぶね)が浜に並び、南岸の高之島東海域には、東京湾内を行き来する廻船でトーケー(渡海)船と呼ばれた五下船(ごしたぶね)や五大力船(ごだいりきせん)が浮かんでいました。
江戸時代から高之島の東海域は高之島湊と呼ばれ、その南岸に位置する柏崎にはじまり、館山・長須賀・新宿・北条へと至る町場が4㎞に及んで続いていました。内海(東京湾)と外海(太平洋)の境目という立地から、館山湾(鏡ヶ浦)には日和(ひより)待ちの廻船の入港や、しばしば破船した廻船の入港もあり、盛岡藩や仙台藩は荷と船の管理のために館山湾南岸に穀宿(こくやど)や廻船役所を置いていました。また、柏崎浦は幕府御城米の船掛り場でもありました。館山と北条には江戸時代は支配陣屋が置かれ、明治になると北条に郡役所が置かれるなど、両地域は安房の中心地として機能していました。
高之島湊は真倉(さなぐら)村の管轄下にあり、新井浦がその支配をしていました。元禄地震以前には船が掛る土手が海に突き出していたと伝えられ、文政年間から天保年間にかけてその再建が試みられたこともあります。館山湾内でも江戸を行き来する船として享保8年(1723)に届けられたのが、柏崎浦で五下船3艘、押送船18艘、館山三町四浦で五下船5艘、押送船13艘あったと記録されています。江戸後期になると600石を越える廻船を複数所有して諸藩の御用を勤める商人も現れてきました。