里見氏が館山に城下町をつくった時代は、戦国時代が終わりを告げようとしていた時です。豊臣秀吉・徳川家康が天下人として強大な権力をもち、新たな制度がつくりあげられ、戦国大名が近世大名としてその臣下に組み込まれていく時代でした。
里見家では天正13年(1585)にはすでに里見義頼が秀吉政権に服属する意思を示していました。秀吉が出した惣無事令(そうぶじれい)により武力での紛争解決が禁止されたことで、秀吉によって里見氏と北条氏の境目も確定され、東京湾の安全は里見氏と北条氏の協定に委ねられるものではなくなりました。そして天正18年の小田原北条氏の討滅後は、秀吉の臣下として伏見に滞在することが多くなり、伏見に屋敷をもつようになります。秀吉から羽柴の姓を与えられ、従四位下、侍従(じじゅう)、そして安房守に叙任(じょにん)されました。文禄1年(1592)には朝鮮出兵への従軍を求められて、150人を引き連れて九州名護屋へ向かっています。続いて慶長2年(1597)に太閤検地が実施され、秀吉の奉行人である増田(ました)長盛が指揮をとって、里見氏の安房領国は9万石と算出されました。
一方、小田原合戦後に江戸へ入り関東に君臨することになった徳川家康へも近づき、天下の動静を見極めていきます。秀吉没後は家康に従い関ヶ原合戦で3万石が加増されると、秋田へ移封された常陸の佐竹氏に代わり、12万石という関東最大の外様大名になりました。叔父の里見忠重も上野国板鼻(安中市)で1万石を与えられて大名に列し、さらに、将軍秀忠を補佐する幕閣の大久保忠隣(ただちか)や家康の長女亀姫につながる人々と姻戚関係を結んで、徳川家との関係を深めていきます。とくに大久保忠隣は孫娘を里見忠義の室とし里見家の後ろ盾になりました。しかし、それは江戸幕府内部の権力闘争に里見家が巻き込まれていくことにつながっていったのです。