(2)安房の支配体制

 秀吉・家康の時代の里見家の安房支配は、役人として実務にあたる能力に長けた者に支えられていくことになりました。戦時は軍団を編成する家臣団も、平時は奉行衆・役人として財政や民政を担当する能力が求められます。商人を管理し城下町をつくりあげるだけでなく、戦(いくさ)に備えた職人の管理、家臣や寺社の管理、村の管理、田畑・山林などの資産の管理をするための体制を整えていくことになりました。

 しかし慶長8年(1603)に義康が31歳で没し、嫡男忠義が10歳で家督を継ぐことになると、これを支える体制が必要になりました。忠義の叔父で30歳になろうかという年齢の正木時茂が一門衆の頭(かしら)として、忠義の名代(みょうだい)となり里見家の差配をすることになったようです。そして家臣団の合議を代表する奉行として実務を担ったのが、大家老の堀江能登守頼忠・地方(じかた)奉行の板倉牛洗斎昌察(まさあき)・足軽大頭の里見左京亮の三人でした。さらに、それらを総括する立場に御隠居様と呼ばれた忠義の祖母龍雲院がいました。

 慶長15年に祖母龍雲院が死去し、後ろ盾だった大久保忠隣(ただちか)が慶長19年(1614)1月に幕府内の権力争いで失脚するなか、成人していく忠義の周辺には、家臣団の合議を主張するグループと忠義の専制を主張する近臣の台頭があったとの見方があります。里見家内部は揺らいでいったとみられています。

61.里見安房守忠義公家中帳(網代文書)
当館蔵