恩田氏は、上野国沼田を本貫とする土豪で、その名字は沼田庄恩田(群馬県沼田市)に由来する。この沼田という土地は、戦国時代において、越後上杉氏にとっての関東計略上の重要な拠点であり、上野国を狙う小田原北条氏や甲斐武田氏とのせめぎ合いがしばしば行われていた。そのため沼田周辺の土豪たちは、上杉・北条・武田・さらには武田氏滅亡後に独立勢力となった真田氏など、頻繁に入れ代わる支配者にその都度従ったようである。
『関東幕注文』には、沼田衆として恩田孫五郎・同与右兵衛尉の名がみえ、永禄3年(1560)の上杉氏関東出兵以後は上杉氏の配下であったことがわかる。しかしその後、着々と上野国に領国を拡げていた北条氏が天正7年(1579)に沼田を手に入れ、さらに翌8年には武田氏が攻め落として真田昌幸を沼田へ置くなど、この頃から沼田の情勢は一気に緊迫してくる。
真田氏は武田氏滅亡後も沼田の支配を続け、この頃恩田越前守・同伊賀守がこの真田氏の配下にあった。しかし天正17年(1589)、豊臣秀吉の裁定によって沼田領は真田氏と北条氏に分割され、恩田越前守は北条氏より本領の安堵をうける。さらに翌年、北条氏が滅亡すると、今度は上杉景勝に従い出羽国庄内の大宝寺城在番を命じられた。恩田越前守のその後の動向は不明であるが、子の左京とともに慶長19年(1614)の大阪冬の陣で戦死したと伝えられる。一方、越前守の子と思われる恩田左門はそのまま真田氏に仕え、次代の左門は真田信利の代に300石で年寄役を務めた。その子庄兵衛も同じく真田信利に仕えたが、信利が天和元年(1681)に改易されたため、その後は浪人となった。
真田家改易後の沼田に本多氏が入封してくるのは、元禄16年(1703)のことである。浪人中であった庄兵衛の子利忠は、享保14年(1729)に本多正矩に仕官して中小姓格御広間番として出仕し、これが恩田氏と本多家がかかわる最初となった。この利忠は仰岳の曾祖父にあたる人で、享保15年(1730)本多家が駿河国田中へ移封されると、それについて父祖の地を離れていったのである。以降の恩田家は、仰岳の祖父利皓が御代官、新八条流馬術を修めた父利久が町奉行を務め、次第に出世を遂げるようになっていった。
18.恩田左門知行目録 個人蔵
明暦3年(1657)、信吉の子信利が沼田藩主を継いだ。その年代替わりによる知行地の安堵が家臣に対して行われ、その際恩田左門に与えられた所領の目録である。左門の知行高は300石で、所領は本貫の地恩田村(沼田市)をはじめ、岡谷村・戸鹿野村(ともに沼田市)、上津村(利根郡月夜野町)にあった。
23.真田信利知行安堵状 個人蔵
寛文8年(1668)、父左門の隠居により家督を継いだ庄助(のち庄兵衛)に対し、藩主信利は新たに所領の宛行いをおこなった。所領は蟻川村(吾妻郡中之条町)と植栗村(吾妻郡吾妻町)で301石余であったことがわかる。