田中藩では、寛政9年(1797)に新八条流馬術の名手仙田政芳、享和2年(1802)に直心影流剣術の小野成誠を師範として招いたのを契機に、各種武術が奨励され、12代藩主正訥の頃には藩校日知館が水戸の弘道館とともに「天下の二関」と称されるようにまでなった。仰岳は正訥が幼い折からの学問教授役の一人であり、そのため正訥の信頼もことさら厚かったとされる。
仰岳の文芸面では、藤枝宿の旧家、大塚家との交流が挙げられる。寛文年間から醸造業を営む大塚家は、化政期以降の大塚亀石、荷渓、翠崖と3代にわたって詩や絵画をたしなんだことから中央文人が多く出入りし、地域における一種の文化サークル的役割を果たしていた。交流のあった文人には画家の池大雅、司馬江漢、高久隆古、詩家の菊池五山、大窪詩仏らが知られている。大塚荷渓、翠崖にあてた仰岳の書簡が残されていることから、大塚家を通じて、仰岳も中央の文人との交遊があったことであろう。
51.三段太刀口伝書
48.吉田栗堂作漢詩「奉送仰岳恩先生之東都」
(以上、個人蔵)