【1】仰岳の事積
 1.師範へのあゆみ

 恩田仰岳は、文化6年(1809)田中藩士恩田新五右衛門利久の長子として、駿河国田中(静岡県藤枝市)に生まれた。諱は利器、字は大用といい、仰岳は号である。幼名は爲で、元服後は通称恭太郎、家督相続後は豹太と改め、明治3年(1870)に隠居してからは豹隠をなのった。

 田中藩では、仰岳が生まれた文化・文政の頃からとりわけ文武が盛んになり、仰岳にとっては幼ない頃から教育を受ける上で恵まれた環境にあった。7歳から19歳までの13年間にわたって、隣に住んでいた儒学者石井縄斉のもとで学び、またその間に剣術、馬術等の武術も修めた。仰岳の恩師、石井縄斉は、文化11年(1814)第10代藩主本多正意によって江戸から招かれ、後に藩校日知館の設立にあたって中心的な役割を果たした人物である。その縄斉が、英知にもまた悪戯にも秀でていた仰岳の利発さに感嘆し、「この子に兵学を学ばせたなら、必ず大用をなすであろう」といって、諱と字を与えたという。

 わが国の兵学は古くから中国の兵法理念の影響を受け、西洋の戦争学のように戦争の技術を説くのではなく、仁義の観念や政略と戦略の一致を大切にしていた。江戸時代には、戦国時代の名称の実戦歴が回顧されて、「軍学」の名のもとに60あまりもの流派を生むほど隆盛を極めている。田中藩では、天保2年(1831)から本格的な藩政改革への取組みがはじめられ、藩士教育を積極的に押し進めようという動きが高まっていった。こうしたなかで、優れた兵学者を擁すことが、藩にとって重要な課題であったのであろう。文政10年(1827)19歳の仰岳は、縄斉の勧めで兵学習得の命を負い、江戸へ出る。

 江戸の数ある流派から、仰岳は長沼流兵学を選び、儒学者でもあった市川梅巓のもとに入門した。江戸留学は当初3年の予定だったが、仰岳はさらに3年の延長を願い出て、その間に兵学のみならず、幕府の教育施設の昌平坂学問所で儒学も修めるという向学ぶりであった。藩からの僅かな手当てで苦学を余儀なくされながらも、通算6年の留学を経て長沼流兵学の印可を手にし、天保4年(1833年)4月田中に帰る。帰着早々に仰岳は藩から兵学師範を命じられ、さらに4年後の天保8年(1837)に藩校日知館が開設されると、ここの師範役の座についた。設立当初の日知館の師範は、文学が3名、武術が9名であり、田中藩が特に武術の奨励に力を注いでいたことがわかる。仰岳はこの武術師範の一人として、長沼流兵学を教えることとなった。

 師範役の一方で、仰岳は藩政に関わる役人としても様々な役職を歴任している。兼職を含めて以下に列挙すると、御長柄奉行、御者頭、寺社奉行、御持頭、郡奉行、御勝手頭、番頭、権少参事等である。また一時期、勘定奉行を兼務したこともある。兵学と漢学の学者である仰岳にとっては専門外の大役であったが、当時すでに40歳を越えていたにもかかわらず、藩中の者から毎晩数学の手ほどきを受け、2~3ヵ月で熟達してしまったという、生来の旺盛な向学心をうかがわせる逸話である。

52.長沼流兵学目録 個人蔵