恩田仰岳関連年譜


年代
年齢
事項

藩内外の出来事
仰岳 城山
文化6年
(1809)
1  3月4日 駿河国田中に生まれる。幼名は爲。父は田中藩士恩田新五右衛門利久。母は成瀬氏だが、幼少時に没したため継母中島氏により育てられる。
文化12年
(1815)
7  田中藩儒学者石井縄斎に就いて学ぶ。
文政元年
(1818)
10  12月1日 藩主本多正意に謁見する。
文政7年
(1824)
 石井縄斉、江戸の昌平坂学問所へ留学。(~文政10年)
文政8年
(1825)
17  元服して恭太郎と改名。
文政9年
(1826)
18  1月11日 中小姓御広間番に任じられる。三人扶持を給与される。この間に剣道と馬術を学ぶ。  遠州榛原郡沖に外国船出没。
文政10年
(1827)
19  6月5日 江戸での3年間の留学が認可される。長沼流兵学の市川梅巓のもとに入門し、二人扶持を給与される。また兵学習得の傍ら、昌平坂学問所で儒学を学ぶ。
文政12年
(1829)
 本多正寛、第11代田中藩主に就任。
天保元年(1830) 22  4月9日 三人扶持となる。8月11日更に3年の留学延長が許可される。
天保2年
(1831)
 田中藩の藩政改革始まる。
天保3年
(1832)
24  9月 長沼流兵学の印可を受ける。
天保4年
(1833)
25  4月5日 田中へ帰る。同28日 給人格御広間番、兵学師範を命じられる。五人扶持の給付。
天保5年
(1834)
26  10月21日 父利久の隠居に伴い、家督を相続。この頃、田中つねと結婚する。
天保6年
(1835)
27  1月11日 御使番格となる。4月16日豹太と改名。
天保8年
(1837)
29  1月11日 25俵高となる。この頃縄斎の助手として魯堂公子(後の第12代藩主正訥)に教授する。5月に20日間の蟄居を命じられ、その間に『握奇集解析義』2巻を著す。日知館の兵学師範となる。 藩校日知館が創立される。
天保9年
(1838)
30  2月30日 伊豆七島巡視の命を受けた、幕府代官羽倉外記(蘭堂)に序を作る(『仰岳樓文鈔』)。
1  7月2日 嫡子駒之助(城山)誕生。
天保13年
(1842)
34  7月 伊豆修善寺へ旅行。紀行文『遊豆日記』を記す。
天保14年
(1843)
35  1月15日 御長柄奉行、50石高(勤役中)となる。増田貢に代わり、魯堂公子に書を奉る。
弘化元年
(1844)
36  9月9日 御者頭、50石高(勤役中60石)となる。
弘化3年
(1846)
38  10月23日 寺社奉行を兼務する。
弘化4年
(1844)
 芳野金陵、田中藩に儒官として仕える。
嘉永元年
(1848)
40  1月11日 御持頭となり、寺社奉行を兼務する。
嘉永3年
(1850)
13  嫡子駒之助、正訥から諱と字を与えられる。  芳野金陵、田中城を訪問する(10月)。
嘉永4年
(1851)
43  1月11日 郡奉行と勘定奉行の兼務を命じられる。このとき速成的に算術を学ぶ(『聿脩遺談』)。
嘉永6年
(1853)
45  藩主正寛に召し寄せられ、海防の任に当たるため、江戸へ向かう。11月 藩士13名に西洋流砲術の伝授を始める。 米国軍艦、浦賀に現れる(6月)。
安政元年
(1854)
46 17  1月18日 大目付格、60石高(勤役中70石)となる。同日嫡子駒之助、駿太郎と改名。6月6日 藩主から、御替紋付御陣羽織を賜る。11月10日 父利久、没する。
安政2年
(1855)
18  1月11日 城山、中小姓御広間番、三人扶持となる。
安政3年
(1856)
19  11月21日 城山江戸へ留学する(~安政6年)。市川梅巓に長沼流兵学を学び、芳野金陵から儒学を学ぶ。
安政4年
(1857)
49  10月27日 近習頭役格及び江戸田中両方の御勝手頭を命じられ80石高(勤役中100石)となる。
万延元年
(1860)
23  城山、藩の兵学師範、漢籍助教、西洋流砲術教授となる。  正訥12代藩主となる。江戸日知館が設立。
文久元年
(1861)
53  1月11日 番頭になり、100石を給される。この頃から実際の兵制改革を行い、洋式訓練を実施する。
文久2年
(1862)
25  2月19日 城山、御近習となる。
元治元年
(1864)
56  8月 駿府城の調査の命を受け、概要を報告する。  正訥、駿府城代を命じられる。
慶応元年
(1865)
57  10月 『西洋砲術一斑抄』を著す。
慶応3年
(1867)
 大政奉還(10月)。王政復古(12月)。
明治元年
(1868)
60 算学者古谷道生とともに安房に渡り、城地の選定にあたる。  鳥羽・伏見の戦(1月)。江戸城開城(4月)。徳川氏、静岡藩主となる(5月)。
田中藩、安房長尾へ転封(7月)。
白浜村長尾に、陣屋の建設が始まる。
明治2年
(1869)
32  城山、兵部省三番大隊屯所で、フランス銃隊の兵法を伝習する。  正訥、藩籍を奉還して長尾藩知事となる(6月20日)。大風のため、長尾陣屋が倒壊する(7~8月頃)。
明治3年
(1870)
62 33  9月 権少参事に任じられる。10月 隠居し、家督を城山に譲る。豹隱と称する。白浜の自宅にて私塾を開き、漢学の教授を行う。城山、長尾藩権大属、軍務掛一等教授(碑文)に任じられる。
明治4年
(1871)
34  城山、軍務掛少尉兼教長(碑文)に任じられる。この年、城山白浜へ帰る。 廃藩置県、長尾県となる(7月4日)。
明治5年
(1872)
学制発布(8月3日)。
明治6年
(1873)
36  城山、白浜小学校の教員となる。 白浜小学校設立。
明治14年
(1881)
73  稲荷神社(白浜町小戸)の幟に揮毫する。
明治15年
(1882)
74  若宮八幡神社(白浜町原)の幟に揮毫する。
明治22年
(1889)
81  養老恩賜金を拝受する。眼病のため、失明。
明治24年
(1891)
83  1月28日 自宅にて没。妻つねも同日に死去。
明治28年
(1895)
58   2月 城山、白浜小学校を退職。10月 城山、旧長尾藩士市野義雄が創設した。私塾日知学舎に招かれて、門生の教授にあたる。
大正4年
(1915)
78  12月 城山、白浜へ帰る。
大正8年
(1919)
82  1月6日 城山、没。
昭和8年
(1933)
 7月2日 恩田家墓地のある杖珠院門前に、仰岳と城山の記念碑が建てられる。
昭和10年
(1935)
 10月 仰岳、安房先賢偉人の一人として顕彰され、鶴谷八幡宮境内に安房先賢偉人顕彰之碑が建てられる。同時に、北条小学校講堂において、安房先賢偉人遺墨遺品展覧会が開催される。