仰岳の功労の一つとして、藩の軍務に西洋流砲術を導入したことが挙げられる。ここでいう西洋流とは、具体的に高島流砲術のことをさす。高島流砲術は、江戸時代後期の砲術家、高島秋帆(1798~1866)によって唱えられた洋式兵学で、和流砲術の主眼が個人の技量を磨くことにあるのと異なり、共同作戦を前提とした、機能的な軍隊の編成を目的としている。
田中藩では藩主正訥の代になった文久年間の頃から本格的な兵制改革が行われ、洋式訓練が実施されたという。しかし嘉永6年(1853)には、すでに藩士への西洋流砲術の訓練が始められ、安政年間には大砲も作られたが、この大砲鍛造を命じられた仰岳は、まださほど普及していなかった洋式兵学の知識を得るために苦心し、翻訳本を探して次々と読みあさったという。
恩田家に残された「西洋流砲術入門誓紙」には、藩の要人を含めた総勢49名の名が血判とともに記されている。移りゆく社会情勢のなかで、時代に即した新たな軍務のあり方を模索していた藩の事情が察せられる。