演出家/(財)日本オペレッタ教会・会長 寺崎裕則
画家寺崎武男(1883~1967)は、こよなく房州の海を山を愛し、その自然に育まれ、畢生の大作を次々と描いていった。武男が居を構えたのは、1923年(大正12年)、関東大震災の後、師でもあった明治彫刻界の巨匠長沼守敬先生を慕ってのこともあったが、水の都ヴェニスに十有余年住み、海が大好きで白砂青松の鏡が浦が一望に見渡せる西の濱の砂丘の上に別荘を作り、望楼を建て、千変万化する海を眺め、思索に耽っては絵に没頭できたからであろう。大東亜戦争が始まるまでは避寒避暑の時だけだったが、それ以降1954年(昭和29年)迄、定住した。その30年間で多くの房州っ子と知己になると同時に、壁画家であり、ベルリン大学の歴史学科も出ている武男は、房州に伝わる神話を芸術家の直感で紐解きながら、黒潮民族の大移動に始まる生い立ちから歴史を辿っていった。その結晶が、安房神社6枚、布良崎神社2枚、相浜神社2枚となり、集大成は白浜の下立松原神社壁画殿の齋部建国史10枚(1934年=昭和9年)のフレスコ壁画であった。
1949年(昭和24年)には、千葉県立安房第一高等学校の名物校長兵藤益男氏の招聘を受け美術講師となり、情熱あふれる講義で生徒に慕われ、校庭に生徒と共に裸体の自由の女神像をテラコッタで表玄関前に建立、先生、生徒の度肝を抜き硬派の安房高に一大旋風を巻き起こした。武男の愛弟子に伊東博子、井上忠藏、松苗禮子等がいて、画家として房州で大活躍をしている。井上画伯は、武男の雅号、太洋から太洋美術会を1970年に創立、33年にわたり、毎年春秋二度太洋展を開き1回に300人は応募があり、年々房州に“絵大好き人間”が増加の一途を辿り、武男の蒔いた種は、花の房州にふさわしく美しい花を咲かせている。
武男が日本近代絵画の先駆者といわれる所以は、1907年(明治40年)、渡伊して以来、フレスコ画法、テンペラ、それもルネサンス・テンペラ画法、エッチングとリトグラフ画法を日本に本格的に伝えたことと、西欧絵画の画材と画質を模写を通して徹底研究し、日本の風土の中でいかにしたら「萬代に生きる絵画になるか」を明治神宮聖徳絵画館の調査員に任命された1920年(大正9年)から3年間と、渡伊後の10年を併せれば13年間、精力的に研究した成果を『明治神宮奉賛会通信』に「調査報告」した。と同時に、「ルネサンス諸大家の傑作20枚」を同じ画質と画材と描法で模写し、イタリアから東京へ送ったものの関東大震災で総て消失してしまった。歴史に「もし」はないが、もし、西欧との往来が少ないあの時代に模写美術館が誕生していたら日本の近代絵画に大きな影響を与えたに違いない。ただ調査報告は現存するので、近頃、明治美術学会が注目し始めた。その研究が一層盛んになればと願う。