寺崎武男の祖父は助一郎といい、儒学者で江戸表から長い間、長崎奉公所に駐在、渡邊崋山と厚い親交のもと、外国と密書を以って深く関わっていた。父・遜(とおる)はそのせいか外国語に堪能だったらしく、ペルリやハリスが来航した時は、通辞役をつとめ、後、彰義隊で上野の山を逃れた後は、内務省に入り山縣有朋卿の秘書官となり、たびたび英国やヨーロッパを歴訪、新橋・横浜間の電信をひくなどし、官房長官を務める傍ら、「鹿鳴館」の舞踏会で指導的役割を果たしていた由。
そんな家系からか、1883年(明治16年)3月30日、東京の赤坂で三男の末子として生まれた武男は、少年時代より絵を好み、1902年(明治35年)、独協中学に入学(同級生に帝大医学部の呉健(くれけん)、西洋史学者の大類伸(おおるいしん)がいる)。家では医者になることをすすめたが、画家になる決心をし、上野の東京美術学校に入学、西洋画科本科に学び、1907年(明治40年)、卒業すると直ちにイタリアのヴェニスへルネサンス芸術、特にフレスコ壁画の研究のため留学した。ヴェニスに着いてのカルチャーショックは如何ばかりであったろう。300年前に描かれた壁画が昨日描いたようにフレッシュで力強い迫力で迫ってくる。絵画というものは萬代までのものであり、そのためにどんな画材と画質で、しかもルネサンスは、ギリシャ芸術の復興(ルネサンス)といわれているが、その源を更に遡れば、アジャンダ・シリア、更には隋、唐時代の長安、洛陽の佛教壁画となり、日本の法隆寺金堂の壁画に行きつく。いわば東洋芸術の復興(ルネサンス)であることを、武男は喝破し、ルネサンスのフレスコ壁画を研究すると同時に、帰国する度に金堂壁画の研究に没頭していく。
だが、この前に何としても画家としての基礎勉強を…と、ヴェニス国立高等美術院(アカデミー)にて、人体、彫刻、建築、版画の4科と、併せて同市高等装飾工業学校を卒業。ついでフィレンツェ、シンニアにてテラコッタを学び、更にドイツに渡り、ベルリンにて帝室美術大学へ壁画科と併せてベルリン大学、宗教哲学及び歴史学科を卒業并び終了し、再びヴェニスへ戻る。それが1912年(明治45年・大正元年)頃で、第一次大戦の予兆もあり、イタリアでは「美術品保護」という問題が起こり、寺崎の画材画質の研究に一層拍車をかけることになる。と同時に、その頃、油絵というものが嫌われる傾向にあり、「絵画を萬代まで…」にするには、油絵以前のテンペラやフレスコの研究が盛んになり、武男はそれに熱中した。「テンペラ」とは油絵と水彩画の中間にあり、油絵や水彩が生まれる以前からの画法で、「復興期(ルネサンス)テンペラ-古テンペラ」とは、油絵のように光澤のあるものだ。また「フレスコ」とは壁の生乾きのとき画き、壁が乾くと共に固着する古代の壁画法をいう。フレスコにはドライ・フレスコというのもあり、フレスコに用いる顔料は使うが、乾いた下地に画く画法だ。武男はドライ・フレスコではなく、専ら一番難しい濡れた壁に画くフレスコを専門とした。
その間に武男は、絵画の本質を追求し、「萬代迄の絵画」を目指した。それには西欧の絵画の伝統を深く身につけると同時に東洋の、日本の持つ美術の伝統をしっかり識った上で、東西絵画の融合をはかり、日本人ならではの絵画を描くことを、己れのライフワークとしたのだ。
その結実が、1930年(昭和5年)、ヴェニス市ビエンナーレ国際展でテンペラの大作「幻想=KUWANNON」の入賞だ。これは日本人初の栄冠で、今もヴェニス現代美術館(MUSEO DÁRTE MODERNA)の壁画を飾っている。
また、その年はローマのパラッツォ・デルラ・エスポジチォーネで、ムッソリーニ主催による横山大観・下村観山・鏑木清方・前田青邨等、日本を代表する33人の日本画家による現代日本画展が、大倉喜七郎男爵がスポンサーとなってイタリアで初めて開催され、一大反響を巻き起こしたが、その時のすべてのコーディネートをしたのが武男であった。武男がその頃、イタリアでは画家としてそれだけの地位を築いていた証しでもあり、そのめざましい活躍と日伊親善と文化交流の功により、コメンダトオレ・デルラ・コロンナ・デイタリア最高勲章、カバリェレ・ディ・サンティ・マウルチョ・エ・デイタリア勲功章など数々の勲章をイタリア王国、並びに政府より授与された。