房州と江戸・東京を結ぶ文化財(湾岸北部)

このシリーズでは、かつて安房地方や館山市が江戸・東京と海路で結ばれていたことを物語る文化財を紹介しています。水産物を中心に房州の産物が取引されていたことを背景にした神仏への奉納物や、江戸・東京へ出て成功した房州の人々やその交流を背景にした江戸職人の製作物など、痕跡は数多くみられます。それらの文化財ついて館山市内を3エリアに分けて紹介しました。市内湾岸北部エリア・館山平野部エリア市内南部エリアを合わせてご覧ください。

(1)船形学園(船形)の大磨崖碑

 この碑は渋沢栄一が明治42年(1909)に、東京市養育院安房分院を開設したことを記念して、大正6年(1917)に建設された。碑は、16mの崖を削ったもので、高さ10m、幅6mあり、1文字の大きさは30cm四方もある。碑文には、養育院の元手が旧白河藩主で老中だった松平定信が行った寛政の改革による貯蓄を充てて創立されたことや、社会福祉にも取り組んだ実業家の渋沢栄一が初代院長となり、身体の弱い自動を船形町に移して療養させたことが記されている。

 船形に分院を開設したのは、結核治療法を研究していた富浦出身の川名博夫が、温暖な海辺での転地療養を取り入れた館山病院を開業したことにあった。博夫の妻とりは館山出身で資生堂を設立した福原有信の長女で、四女の美枝は栄一の二男渋沢武之助の妻であった。博夫の三女露子は二代院長穂坂与明の妻なる。穂坂は渋沢栄一が渡米した際に侍医として随行しており、船形への誘致には地元出身者のネットワークがいかされていたのである。

<大磨崖碑の見学希望の方は、必ず事前に学園事務所へご相談ください。>

(2)諏訪神社(船形)の石灯籠

歴史探訪マップ船形西部参照

 参道入り口の灯籠は、主に内房地域内の魚問屋と取引をしていた江戸の魚問屋が、文政10年(1827)に奉納したもの。世話人は地元の小買(こかい)商人(魚の仲買人)で、船形は江戸へ生魚を送り出す汚職利船の基地であった。竿の部分には神仏習合を反映して大福寺の住職の名がある。石工は保田の武田石翁の長男金蔵で、ふっくらとした感じの獅子などが彫られている。基壇部分に「江戸 内安房 魚問屋」と「世話人 当■ 小買中」、さらに「石工 元名 金蔵」とあり、竿の部分に「文政十年九月」と「當山現住宥應」とが刻まれている。

(3)崖観音(船形)の石段

崖観音文化財マップ参照

 明治39年(1906)、東京魚河岸の魚問屋の融資と地元の船形魚商組合とが資金を出し合い、石段を寄進した際の記念碑がある。当時、この地域は漁業が盛んであったことに加えて、多数の櫓と帆を装備した押送船(おしょくりぶね)といわれる船を仕立て、、獲った魚を「鮮魚」として江戸・東京へ送っていたこともあって、双方の絆が深く、海上の安全と豊漁を祈願し、東京の魚問屋が奉納したものと思われる。なお、平成28年(2017)の観音堂改修までこの碑の隣に石灯籠が置かれていた。それはこの碑と同時に奉納されたもので、竿の表に「常夜燈」、裏面に「明治三十九年」、基壇には複数の魚問屋の名が刻まれていた。

(4)崖観音(船形)の手すり

崖観音文化財マップ参照

 明治時代に造られた参道の石段が劣化し、昭和33年(1958)に改修工事を行った際、檀家の青木兼吉が発起人となり、東京に暮らす船形出身者に声を掛け、有志20名が手摺り(支柱は鋳物製)を寄進した。彼らはその数十年前に東京の合羽橋・入谷・千束・竜泉寺などに移り住み、様々な商売を覚え店主になった人たちなどで、柱には寄進した者の名が鋳出されている。かつて有志20名の名を記した額が観音堂にかかっていたが、観音堂改修工事の際に外され、今は本堂に保管されている。

(5)那古寺(那古)の力石

那古寺文化財マップ参照

 江戸の人々により奉納された力石。右は上総小浜(木更津市)の幸助・深川木場の庄之助の奉納で重さ65貫(約244kg)。中央は霊岸島東湊町の亀治と八丁堀の玉川銀治で58貫余(約218kg)。左は地元那古の森田治兵衛と湯島天神町の成田金蔵・佐助で75貫余(約282kg)。江戸の人々の那古観音信仰の深さや、那古住人と江戸住人の交流もみられる。

(6)那古寺(那古)の観音堂扁額

那古寺文化財マップ参照

 観音堂を意味する「円通閣」の扁額は、文化14年(1817)に白河藩主松平定信が揮毫(きごう)したもの。翌文政元年(1818)に江戸築地南飯田町の日高屋与兵衛と伊三郎が願主となり、築地・霊岸島・深川などの江戸各地の商人が奉納した。那古寺が行った本尊の江戸出開帳がきっかけになっているが、坂東観音巡礼の納札所である那古寺の信仰の広がりがわかる。

(7)那古寺(那古)の納札塚

那古寺文化財マップ参照

 大正4年(1915)に観音霊場を巡拝納札する東京納札会によって納められたもの。浅草・神田・両国などの巡拝者名が刻まれている。

(8)那古寺(那古)の手水舎の玉垣

 宥応と宥賢という住職の名から、天保年間と幕末の二期に分けての奉納と分かる。那古の谷口武兵衛が願主となり、江戸の萬屋市右衛門や相洲浦賀・武州岩付などの商人も寄進に加わっている。

(9)那古寺(那古)の蘇鉄石垣

那古寺文化財マップ参照

 那古寺は元禄大地震で倒壊したが、安房全域におよぶ万人講(まんにんこう)勧進や江戸出開帳などが行われ、多くの人達によって再建された。坂東三十三番観音巡礼札所の結願寺として知られ、江戸の人たちの信仰が厚い。本坊前には蘇鉄が左右にあり、それぞれ石垣に囲まれている。左の囲石には、一力長五郎が嘉永7年(1854)閏7月に奉納した際の銘がある。この年江戸大相撲の幕内力士一力長五郎が境内で勧進相撲を行って石垣を奉納したといわれる。右の蘇鉄は昭和45年に館山市の天然記念物に指定された。幹は根本近くで12本に枝分かれし、樹高は6mに達している。雌株で市内一の大樹である。

(10)厳島神社(那古)の手水石

歴史探訪マップ那古川崎参照

 この辺りは、江戸時代の元禄16年(1703)の地震で隆起してできた土地で、それ以前は波打際であった。境内にある文政7年(1824)の手水石は、江戸問屋中が願主として奉納したもの。世話人は地元と思われる惣治良と権吉である。弁天様は漁業神・水の神として親しまれていたが、那古村でも漁業が行われており、おそらく那古の地引網漁師や運送業者と取引していた江戸の魚問屋の奉納であったと思われる。

(11)諏訪神社(正木)の石灯籠

正木諏訪神社文化財マップ参照

 文化7年(1810)に、正木村の下組・鈴木甚左衛門、向井組・篠瀬丈助、上組・庄司長兵衛の領主が違う三組の名主が、共通の鎮守に一対で奉納した灯籠。江戸の石工が製作したもので、左灯籠の基礎裏面に「江戸芝切通富山町 石工與七」の銘がある。当時石材は江戸に集められ全国に発送できるシステムが確立しており、多くの石工が江戸で開業していた。そのため各地からの注文が江戸に集中していたが、やがて各地に石工が誕生していったという。

(12)八雲神社(正木)の狛犬

歴史探訪マップ那古川崎参照

 正木村の浜集落である川崎の鎮守にある狛犬で、弘化4年(1847)に地元講中が奉納した。石工は江戸石工十三組に所属する八丁堀材木町組の石工で、「江戸京橋太刀売」と称する石工藤兵衛と、弟子で同所居住の包吉(かねきち)によるもの。包吉の花押も刻まれている。包吉は浦賀東叶神社の狛犬も制作している。

(13)子安神社(湊)の手水石

歴史探訪マップ湊八幡参照

 浦賀の経済的中心であった相洲西裏賀(横須賀市)の鈴木弥吉が奉納したもの。西浦賀の浦賀奉行所では105軒の廻船問屋が安房から江戸への流通品も検査していた。廻船問屋か水揚商人であった鈴木弥吉が、取引のあった湊村の鎮守に奉納したものだろうか。


作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
川崎一・鈴木正・中屋義勝・山杉博子 2019.2.9作
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡:0470-23-5212