大井(おおい) 

大溝(オオミゾ) 小田辺(コタベ) 岩井作(イワイサク) 角田(ツノダ) 簑ノ輪(ミノワ) 大谷(オオヤツ) 赤立(アカダチ) 竹ノ下(タケノシタ) 矢附(ヤヅキ) 五反田(ゴタンダ) 山崎(ヤマザキ) 増山(マスヤマ) 雑倉(ゾウクラ) 御狩谷(オカリヤツ) 大峯(オオネ) 吉田(ヨシダ) 船田(フナダ) 大井根(オイネ) 鳥井松(トリイマツ) 小山(コヤマ) 西作(ニシザク) 太田(ダイダ) 川細工(カワザイク) 梨ノ木(ナシノキ) 根古屋(ネゴヤ) 梶櫓(カジロ)

 平安時代の地名としてある安房国安房郡大井郷は当地周辺と考えられています。字角田には約30個の横穴古墳群がみられ、南部の丘陵頂上には灯籠塚古墳があります。国道に面して中世大井氏の居城と伝える大井城跡もあり、古代から豪族の拠点であったと考えられます。江戸時代初期の里見氏治政下では、町奉行の黒川権右衛門、大目付の正木蔵人、廿人衆細野修理が知行し、村高は453石余。明治元年には519石余。神社は旧郷社の手力雄神社、寺院は薬師堂と阿弥陀堂があります。手力雄神社は里見氏から社領として43石余をうけ、江戸幕府からもそれを朱印地として与えられていました。また同社の神官石井昌道は幕末に家塾を開いて多くの門弟を教育し、慶応4年には勤王隊を組織して、房陽神風隊と称して近隣の治安維持にあたっています。

水玉(みずたま)

道原(ドウハラ) 末森(スエモリ) 御坪(オンツボ) 東門(ヒガシモン) 源台(ゲンダイ) 水玉台(ミズタマダイ) 下原(シモハラ)

 滝川上流の平野部にある小さな集落で丘陵部をもちません。江戸時代初期の里見氏治政下では、里見家の直接の支配地で村高は130石余。明治元年では105石余。寺院はなく、神社は伊豆箱根両所神社があります。当社には明治初期頃の歌舞伎連の額が奉納されており、宮下村(丸山町宮下)の勧進元が願主です。明治頃までは水玉で歌舞伎芝居の興業がうたれ、近隣から多くの人々が集まってきていたそうです。

薗(その)

梶路(カジロ) 内田(ウチダ) 府内(フナイ) 平池(ヒライケ) 銭田(ゼニタ) 石畑(イシバタ) 五反田(ゴタンダ) 三島(ミシマ) 新関(シンゼキ) 沢田(サワダ) 下タ田(シモタダ) 二又(フタマタ) 北沢田(キタサワダ) 川坂(サワザカ) 子ノ神(ネノカミ) 田辺(タベ)

 江戸時代初期の里見氏治政下では、百人衆之頭の忍足兵蔵と廿人衆の本間八郎が知行し、村高は418石余。明治元年は318石余。正徳元年に北条藩領でおきた百姓一揆(万石騒動)のとき、当村名主五左衛門が処刑され、のちに三義民のひとりとして祀られています。神社は三島神社、寺院は医王寺があります。

二子(ふたご)

堀ノ内(ホリノウチ) 寺谷(テラヤツ) 関田(セキダ) 堂面(ドウメン) 亀井(カメイ) 北ヶ谷(キタガヤツ) 大堀(オオボリ) 榎坪(エノキツボ) 真野治郎(マノジロウ) 中井(ナカイ) 谷(ヤツ) 関谷(セキヤツ) 上ノ台(ウエノダイ) 東(ヒガシ) 白幡(シラハタ) 権現堂(ゴンゲンドウ) 丹右衛門前(タンエモンマエ) 沢(サワ) 三島寄(ミシマヨリ) 新関(シンゼキ)

 地名は丘陵北部に突き出ている二子塚状の小山にちなんだものといわれます。またその山頂にはふたつの塚がみられ、これは里見家の高田姫が生んだ双児を祀ったとの伝説もあり、リョウシャ様と呼ばれています。江戸時代初期の里見氏治政下では奏者の梅田与九郎が知行し、村高174石余。明治元年には222石余。神社は白幡神社、寺院は安養寺が小山の周囲にあり、他に妙長寺があります。明治6年に二子学校が開校、大正10年には九重駅が開設されます。昔から館山方面から千倉・丸山への分岐点にあたり、元文2年の道標が残されています(現在は安養寺境内にある)。

安東(あんどう)

尾白(オジロ) 長町(ナガマチ) 岩川(イワカワ) 下ノ坪(シモノツボ) 渡戸(ワタド) 洞田(ボラダ) 北鴻ヶ巣(キタコウガス) 南鴻ヶ巣(ミナミコウガス) 壱町田(イッチョウダ) 小網(コアミ) 高田(タカダ)

 安東の地名は安房国安房郡の東部に位置することに由来するといわれ、南北朝時代から安東郷の地名が確認できます。文和2年の足利尊氏下文には安東郷鴻栖村が得行四郎入道から佐々木長網の所領に変わったことがみられます。鴻栖村は現在の字北鴻ヶ巣・南鴻ヶ巣の集落部と考えられますが、近くの千手院には南北朝期のヤグラや宝篋印塔、文和2年の石仏などがあり、当地周辺は中世の豪族安東氏の本拠地ではないかと考えられています。天正19年には安東の一部が大井の手力雄神社に与えられています。江戸時代初期の里見氏治政下では、里見氏の直接の支配地で村高は371石余。明治元年には449石余になっています。神社は熊野神社、寺院は高田寺、千手院と室町時代の木造薬師如来坐像を本尊とする薬師堂があります。高田寺は里見家の高田姫の開基とされ、背後の山腹には蛇骨やぐらと呼ばれるヤグラ群がみられます。明治14年には九重小学校の前身安東学校が開校しています。

水岡(みずおか)

鎮守(チンジュ) 谷際(ヤツギワ) 御門前(ミカドマエ) 小谷(コヤツ) 堀ノ内(ホリノウチ) 島廻(シマメグリ) 人之谷(ヒトノヤツ) 小林(コバヤシ) 楠(クスノキ) 申田(サルダ) 中田(ナカダ) 池田(イケダ) 大谷(オオヤツ) 新道(シンミチ) 杵久(キネク) 平久里谷(ヘグリヤツ) 轟(トドロキ) 大橋(オオハシ) 腰廻(コシメグリ) 北方(キタカタ) 笹山(ササヤマ) 大ヶ谷(オオガヤツ) 永作(ナガサク) 大竹(オオタケ) 山鳥(ヤマドリ) 海道前(カイドウマエ) 下タ田(シモタダ) 内田(ウチダ) 雲井(クモイ) 恵久保(エクボ) 神典田(シンデンダ) 筒根(ツツネ) モチノ木(モチノキ) 初岡(ハツオカ)

 江戸時代には南片岡村・北片岡村・清水村の3か村に分かれており、明治8年の合併のとき各村名の一字をとって水岡の地名ができました。奈良の平城宮跡から出土した木簡には「上総国阿波郡片岡里」と書かれたものがあります。横穴古墳群や五輪塔を陽刻したヤグラ群もみられ、古くから豪族の拠点になっていた地域と考えられます。江戸時代初期の里見氏治政下では、南片岡村は村高164石余で廿人衆中村十郎右衛門の知行、北片岡村は176石余で足軽小頭の請西善右衛門、百人衆諏訪又三郎などが知行し、清水村は125石余で江戸時代を通して本織の延命寺領でした。明治元年にはそれぞれ171石余、215石余、125石余。神社は日森神社、片岡神社、天満神社、寺院は地蔵堂、紫雲寺、蓮蔵寺と薬師堂があります。地蔵堂には鎌倉時代、蓮蔵寺には南北朝時代の仏像が伝えられています。また江戸時代後期には清水村から清水豊明・高見桂蔵などの算学者が出て、近隣の多くの門人を育てました。

宝貝(ほうがい)

髭作(ヒゲサク) 西ヶ谷(ニシガヤツ) 仲田(ナカダ) 保田井作(ホタイサク) 北ノ谷(キタノヤツ) 宝ヶ谷(ホウガヤツ) 轟(トドロキ) 深田(フカダ) 駒場(コマバ) 松山(マツヤマ) 吉ヶ谷(ヨシガヤツ) 荒巻(アラマキ) 大ノ田(オオノタ) 甘沼(アマヌマ) 絹笠(キヌガサ) 大日(ダイニチ) 遠目塚(トウメヅカ) 島坪(シマツボ) 狭作(セマサク) 道遠田(ドウエンダ) 黒岩(クロイワ) 林ヶ作(ハヤシガサク) 清水山(シミズヤマ) 不動谷(フドウヤツ) 穴田(アナダ) 永作(ナガサク)

 応永30年の鎌倉公方足利持氏御教書に、安東又三郎の旧領地として安房国安東郷内朴谷村がみられます。朴谷は宝貝の小字としてある宝ヶ谷にあたると考えられ、宝貝の最奥部の集落です。山をはさんで反対側の西斜面にある字永作には横穴古墳群もみることができ、古い集落であることがわかります。江戸時代初期の里見氏治政下では、廿人衆頭の波多野庄左衛門が知行し、村高は184石余。里見氏のあとは北条藩屋代氏が支配しますが、江戸中期以降は領主が度々交替しています。明治元年の村高は205石余。神社は熊野神社、寺院は覚性院があり、覚性院には中世の石造阿弥陀像と宝篋印塔の残欠がみられます。また江戸時代は熊野神社の階段下が高札場で、南側には郷蔵がありました。

九重地区

 シリーズ4回目として九重地区を取り上げました。市域の東部に位置し、古代には既に大規模な土地開発が行われていた地域です。九重の命名は明治22年に九重村ができたときのものですが、当時の9か村が合併してできた村であることを意味しています。

 肥沃な沖積平野に農業を営む純農村地域で、市全域の8.8%にあたる9.70k㎡の面積に、人口が1,899人で市全体の3.4%の人が生活しています。

 平野部をつつみ込むように丘陵部があり、大井角田や竹原滝ノ谷をはじめ山の中腹には横穴古墳が数多く散在しています。さらに江田や竹原の平野部には律令時代の条里遺構が確認されており、開発の古さを物語ります。また安東を中心に水岡・宝貝などには南北朝時代前後のヤグラや石仏・石塔・仏像などが残され、中世にも有力な豪族が活動していたことがわかります。

 戦国時代から江戸時代の初めまでは里見氏が支配し、江戸時代には宝貝・南片岡・北片岡・清水・安東・二子・薗・水玉・大井・竹原・江田の11か村があって、清水村は江戸時代を通じて本織の延命寺領で他は北条藩屋代氏や水野氏などが支配していました。1711年には屋代氏の領内で万石騒動がおきています。明治8年に南片岡・北片岡・清水の3か村が合併して水岡となり、明治22年に他の8か村と合併して九重村が成立し、役場は現在の九重小学校北側に設置されました。館山市と合併したのは昭和29年のことです。

戸数のうつりかわり

旧町村名 天保 明治24年 世帯数
昭和40年 昭和63年
宝貝 33 28 31 31
南片岡 水岡 16 60 56 51
北片岡 21
清水 14
安東 44 40 50 69
二子 25 23 54 74
48 50 53 71
水玉 16 13 15 25
大井 58 58 53 61
竹原 116 154 122 126
江田 26 24 33 29
合計 417 450 467 537