九重地区

 シリーズ4回目として九重地区を取り上げました。市域の東部に位置し、古代には既に大規模な土地開発が行われていた地域です。九重の命名は明治22年に九重村ができたときのものですが、当時の9か村が合併してできた村であることを意味しています。

 肥沃な沖積平野に農業を営む純農村地域で、市全域の8.8%にあたる9.70k㎡の面積に、人口が1,899人で市全体の3.4%の人が生活しています。

 平野部をつつみ込むように丘陵部があり、大井角田や竹原滝ノ谷をはじめ山の中腹には横穴古墳が数多く散在しています。さらに江田や竹原の平野部には律令時代の条里遺構が確認されており、開発の古さを物語ります。また安東を中心に水岡・宝貝などには南北朝時代前後のヤグラや石仏・石塔・仏像などが残され、中世にも有力な豪族が活動していたことがわかります。

 戦国時代から江戸時代の初めまでは里見氏が支配し、江戸時代には宝貝・南片岡・北片岡・清水・安東・二子・薗・水玉・大井・竹原・江田の11か村があって、清水村は江戸時代を通じて本織の延命寺領で他は北条藩屋代氏や水野氏などが支配していました。1711年には屋代氏の領内で万石騒動がおきています。明治8年に南片岡・北片岡・清水の3か村が合併して水岡となり、明治22年に他の8か村と合併して九重村が成立し、役場は現在の九重小学校北側に設置されました。館山市と合併したのは昭和29年のことです。

戸数のうつりかわり

旧町村名 天保 明治24年 世帯数
昭和40年 昭和63年
宝貝 33 28 31 31
南片岡 水岡 16 60 56 51
北片岡 21
清水 14
安東 44 40 50 69
二子 25 23 54 74
48 50 53 71
水玉 16 13 15 25
大井 58 58 53 61
竹原 116 154 122 126
江田 26 24 33 29
合計 417 450 467 537