風早不動尊

風早(かざはや)不動尊の概要

 ここは館山市岡田(豊房地区)の谷の最奥で字滝ノ沢といい、白浜へ向かう県道から2 キロ入ったところにある。

 里見氏の時代、豊臣秀吉による小田原城包囲の約2か月前にあたる、天正18年(1590) 2月28日に建立されたと伝えられる不動尊である。不動明王は病や災いを取り除く加持祈 祷を行なうときの本尊とされる。とくに信仰を集めた時期は、行者を通じて民間での信仰 がさかんになった、江戸時代後期から明治にかけてのことであり、堂内にある多数の絵馬 をはじめ境内外の奉納物の数々が、当時の信仰の強さを物語っている。

 大正時代までは2階建ての行屋があり、修行の場となる5mほどの不動ノ滝が流れ落ち ていた。関東大震災で地下水の流れが変わり水が枯れてしまったといい、現在流れている 滝は近年に復興されたものである。

 1月28日と5月28日・9月28日が縁日で、地区の人々によって毎年御開帳が続けられ ている。御詠歌は「ほのぼのとおかだ涼しき風早の 滝の響きに入りあいの鐘」

(1)石鳥居

 風早不動尊境内への入口には、明治23年(1890)正月奉納の石鳥居がある。石工は山口勝三。鳥居は本来、神社の入口を表すものなので、大日如来の使者である不動尊の入口に建てられているのは、一見不自然に見える。しかし明治元年(1868)に行なわれた神仏分離政策以前には、神社に僧侶がいたり仏像が祀られるなど、仏教と神道は混ざり合っていたため、このような神仏習合の様式は自然な姿であった。

(2)石灯籠(一対)

 「紫桂楼」と書かれた一対の石灯籠は、文政7年(1824)4月に竹原村(九重地区)の内科医師・篠塚周伯が奉納したものである。「紫桂楼」は「ともしび」を意味する。願主の渡辺儀右衛門ほか岡田村の5名、出野尾村の1名が協力した。石工は新宿町の伊助である。

(3)石灯籠(右奥)

 「奉納」と彫られている石灯籠のうち、お堂に向かって右側のもの。明治25年(1892)5月に奉納された。願主は安房郡長尾村元根本(南房総市白浜町根本)の林七三郎とある。

(4)石灯籠(左奥)

 左側は明治42年(1909)2月に奉納されたものである。地元岡田の山口庄助が願主となり、大戸(豊房地区)の石工・飯田松五郎の手により作られた。

(5)手水石(ちょうずいし)

 参拝者が手や口を清めるための水をたたえておく石製の水盤。布良村(富崎地区)の願主・豊崎清五郎、小谷紋三を中心に、「嘉永7甲寅年(1854)11月吉日」、19人が協力して奉納した。石工は儀兵衛とある。

(6)倶利伽羅(くりから)竜王

 本堂に向かって左手を流れる小さな滝の近くに、不動明王の利剣にからみつき飲み込もうとするクリカラ竜王の石塔がある。この形は不動明王を象徴的に表しているものである。

(7)出羽三山碑

 出羽三山(山形県)の参拝記念として、弘化4年(1847)12月に建立された石塔。倶利伽羅竜王の隣にある。中央には右から、月山・湯殿山・羽黒山という出羽三山の名が彫られ、その上に湯殿山を表す大日如来像が刻まれている。願主として岡田村の平左衛門と、周辺の村(出野尾、西長田、作名、古茂口、南条)の14名が名を連ねている。

(8)賽銭箱

 正面に「奉納」の文字のほか、密教宝具の八峰輪宝{はっぽうりんぽう}が彫られている。これは煩悩という仏敵を倒すための道具で、仏陀を象徴するものでもある。昭和13年(1938)旧正月28日、白土採掘業の丸本株式会社によって奉納された。

(9)鰐口(わにぐち)

 鰐口は、金鼓(きんこ)ともいい、神社仏閣の軒先につるし、礼拝の時に布で編んだ綱で打ちならす仏教用具である。風早不動尊の鰐口は銅製で、「天保9戊戌年(1838)2月吉日」「願主鈴木氏」「当所(岡田村)西光寺」と記されている。

(10)向拝(ごはい)の龍彫刻

 本堂向拝の上部にある龍彫刻は、千倉の彫刻師・後藤義光78才のときの作と記されている。これは明治25年(1892)にあたる。地元の社寺惣代人の渡辺平助・山口茂平・鈴木久左衛門、世話人の渡辺平左衛門と、獅子を寄付した岡田・大賀・真倉の3名で奉納した。浮き出すように彫られた龍のレリーフが力強く美しい。また、左右の木鼻は獅子が飛び出している様に彫られており、生き生きとした様子が印象的である。

(11)尊名額

 「不動尊」と彫られた石製の額。文政4年(1821)6月に36歳の行者が奉納した。長須賀村の石工・鈴木伊三郎の作である。伊三郎は海南刀切神社(西岬地区)の灯篭や、正面に浮き彫りされた2匹の獅子が見事な小塚大師(神戸地区)の手水石{ちょうずいし}など、いくつかの有名な作品を残していることで知られる石工である。

(12)前不動

 不動尊背後の丘陵にあった旧街道<館山へ下りる坂を日坂(にっさか)という>から、風早不動尊へ下りる道の入口に安置されていた石造の不動明王像。前不動は不動尊への入口を示すものである。旧街道が使われなくなり、また下り道の付け替えによって現在の位置に移動した。かつて、風早不動尊裏の丘陵には、館山から神余・白浜方面と、館山から神戸地区の佐野・安房神社方面へと続く街道があり、そこから多くの参拝者が訪れていた。安房最大の祭礼「八幡の祭」の時、安房神社からの神輿が出祭する際にはこの街道を通るので、安房神社往還ともよばれていた。なお、旧街道は現在通行不能となっている。

(13)馬頭観音像

 前不動の隣に安置された馬頭観音像。文化3年(1806)に建立された。馬頭観音とは、観音菩薩の化身のひとつであり、衆生の無知・煩悩を排除し諸悪を破壊する菩薩で、観音像の中で唯一目尻を吊り上げ、牙をむき出した憤怒相で表現される。近世以降は、馬が急死した路傍などに建てられ、その菩提を弔った。

(14)地蔵菩薩像

 馬頭観音の隣に安置された地蔵菩薩像。文化5年(1808)8月、街道の往来安全を祈願し、多数の人々の喜捨を受けて、万人講中により建てられた。

(15)行者義山の墓(旧西光寺墓地)

 不動堂にいた義山という行者の墓が、階段を上がってすぐ左側の墓地入口にある。岩手県気仙村(陸前高田市)出身の熊谷熊吉といい、明治42(1909)年の没、享年56歳。


<作成:平成18年度実習生>
監修 館山市立博物館

小網寺

小網寺(こあみじ)の概要

 館山市出野尾字小網坂にある真言宗のお寺で、和銅3年(710)の創建と伝えられています。山号は金剛山、不動明王が本尊です。かつては密教道場として隆盛しましたがその後荒廃し、文明5年(1477)に宗秀上人が中興開山として再興しました。里見氏からは15石、江戸時代は幕府から25石の寺領を与えられ、西岬・神戸地区を中心に33か寺の末寺をかかえていました。境内には安房国札三十四観音の第32番札所にあたる観音堂があり、本尊の木造聖観音立像は平安時代後期の作。また鐘楼には国の重要文化財に指定されている鎌倉時代の梵鐘があり、銘文にある「金剛山大荘厳寺」は小網寺の古称だといわれています。大檀那として矢作助定・大田末延の名があり、製作者は物部国光という当時一流の鋳物師(いもじ)です。また寺宝として県指定の密教法具21点があります。鎌倉時代のもので、横浜の金沢称名寺の開山審海上人ゆかりの品です。寺の北、通称法華谷(ほっけやつ)には2基のヤグラがあり、弘法大師の修行跡と伝えられています。

(1)寺号碑

 総高3mの石柱正面に「新義真言宗智山派金剛山小網寺 智山派管長大僧正栄豊謹書」、裏面に「大正13年5月20日 当山古称大荘厳寺」、右側面に「小網寺西光寺合併記念」とある。岡田地区にあった西光寺が大正9年に火災で焼失し、小網寺も大正12年(1923)の関東大震災で一部倒壊し被害を蒙った。そこで、震災の翌年に西光寺を小網寺と合併して再建した記念に建てられたもの。智山派本山智積院の第52世青木栄豊は、南房総市千倉町瀬戸に生まれて宝珠院談林所で学び、宝珠院住職から昭和2年頃に智山派管長になった。その頃に建てられたことになる。

(2)地蔵菩薩半跏(はんか)像

 仁王門手前にある。念仏講の男女によって宝暦3年(1753)3月24日に奉納されたものである。

(3)馬頭観音像

 地蔵尊の左にあるもので、馬の守護神とされる。大正3年(1914)に、元名主家の山口太右衛門の寄進による。農耕や運送に活躍した馬の供養として建てられたもの。

(4)梵鐘(ぼんしょう)

 瓦葺きの鐘楼にかかる梵鐘は、鎌倉時代の弘安9年(1286)に鎌倉の鋳物師物部(もののべの)国光が製作したもので、総高107.5cm、口径62.1cm、昭和36年(1961)に国の重要文化財に指定されている。鐘の周囲に刻まれている銘文から大願主金剛仏子隆尊が極楽往生の世界を願って金剛山大荘厳寺に寄進したものであることがわかる。

(5)本堂前の手水石(ちょうずいし)

 文政11年(1828)、時の住職第35世栄運のときに七五郎・新助の両名が願主となって林蔵他8人で寄進した。手水舎の寄贈は平成2年、東京山口秀男とある。

(6)本堂

 現在の本堂は明治23年(1890)4月に、第41世栄 和尚により建設され、向拝(ごはい)彫刻は千倉の後藤義光が彫り、同25年5月に完成した。彫り物はすべてに寄付した人の名が刻まれており、出野尾・大戸・西長田・東長田・神余・笠名・高井・相浜・洲宮の人々の寄付であることがわかる。大正12年の大震災で倒壊するも、翌年に第50世小峰隆明により再建された。向拝に享保15年(1730)の観音巡礼の御詠歌額が掛かる。

(7)石灯篭

 観音堂前にある一対の灯篭は、江戸時代の天保12年(1841)8月吉日、地元の太右衛門ほか5人を世話人に、氏子たちによって寄進されたと書かれている。正面に永夜灯とある。

(8)観音堂前の手水石

 天保12年(1841)9月、出野尾村の太右衛門ほか2名が願主となって、女性を含め出野尾村ほか近隣の村人7名が寄進している。正面に三巴紋と奉献の文字がある。

(9)銅造地蔵菩薩像

 銅造の地蔵菩薩像で、安永2年(1773)9月の作。総高270cm、像高188cm。左手に宝珠、右手に錫杖(欠失)をもつ。明和7年(1772)に本堂・仁王門等の再建にあわせ、神余村出身の僧宗真が庶民を迷いから救済し引導することを祈念して寄進を思い立ったもの。台座に当寺住職26世隆澄が、発起人宗真の尽力を讃えるとともに、小網寺再建の経緯を記している。作者は江戸神田の鋳物師多川薩摩とある。

(10)宝篋印塔(ほうきょういんとう)

 塔身の四面に文字が刻まれているが、磨耗して読み取りにくい。檀家など多くの人々の協力で出来上がった円通閣(観音堂)の落成記念の宝篋印塔である。落成したのは延享2年(1745)9月18日とある。18日は観音様の縁日にあたる。願主は僧の某。この宝篋印塔の中にはたくさんのお経を納めてあるので、一心にお参りすれば、重い罪を犯した人もたくさんの災いをもっている人も、観音様やお不動様の慈悲・加護を受けることが出来る、というようなことが書かれている。この銘文は事業を引き継いだ住職敞隆によるもの。元禄16年(1703)の大地震からの再興であろう。

(11)観音堂

 仁王門をくぐり急勾配の苔むした石段46段を上り詰めると、三間四方の観音堂がある。明治初期の建築で、大正12年(1923)の大震災を免れた古い建物。安房国札第32番の札所で、木造聖観世音菩薩立像(像高110cm)が厨子(ずし)に安置されている。檜材で、左手に蓮華を持ち、右手は蓮弁に添え、腰はやや左にひねったお姿である。平安時代後期の作で市の指定文化財。堂内には「はるばるとのぼりてみれば小あみさん かねのひびきにあくる松かぜ」の観音札所御詠歌額と、「御手にもつはちすのいとの小あみ寺 いかなるつみもここにあらめや」の和讃の額が掛けられている。

(12)住職墓地

 観音堂の左手と裏手の墓地は歴代住職のもの。裏手は三列で17基、左手には10基の墓がある。裏には29世・31・32・33・36・37・39・42・44~47・50~55世の墓と、若くして亡くなったお弟子さんの墓が3基ある。左手には20・30・34・35・38・41・43・48・49世の墓と中興開山塔ほか3基の墓と、倒壊して世代不明の墓がある。

(13)法華谷(ほっけやつ)やぐら

 墓地を抜けて坂を下りたところを通称法華谷といい二つのヤグラがある。左のヤグラは高さ1.2mで、奥壁に2基の五輪塔が浮き彫りにされ、右のヤグラは2基の五輪塔が据え置かれ、中央には右手に五鈷杵、左手に数珠を持った石造の弘法大師坐像が安置されている。文政11年(1828)に出野尾村と岡田村の人々が寄進したもの。ここは弘法谷ともよばれ、弘法大師修行の場として伝えられている。


<作成:ふるさと講座受講生
石井道子・岡田喜代太郎・加藤七午三・金久ひろみ・鈴木以久枝・鈴木巽・山口昌幸>
監修 館山市立博物館

南条八幡神社

八幡神社の概要

 館山市南条字東山にあり、祭神は譽田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)です。伝承によると古代南条村は海辺の漁村で、あるとき疫病(えきびょう)が流行したため、その病難を免れるための神を祀(まつ)ったのがはじまりとされています。治承4年(1180)源頼朝が伊豆石橋山の戦いで敗れ、安房国から兵を挙げる時、村人が京都石清水(いわしみず)八幡宮の御霊(ごりょう)を勧請(かんじょう)し、南条郷東山の地を選定してはじめて社殿を建立したそうです。戦国時代の天文2年(1533)、南条城主鳥山(とりやま)弾正左衛門大夫時貞(ときさだ)は、居城の東方に当る東山に社殿を造営し守護神として崇敬しました。その後寛永15年(1638)、時の南条村領主であった旗本本多美作守(みまさかのかみ)から別当(べっとう)の応神山神宮寺(じんぐうじ)が境内の敷地(5畝15歩)の年貢を免除 (除地(よけち)されたことが、八幡神社所蔵の古文書に確認できます。さらに文化14年(1817)にも新領主の松平越中守が除地(よけち)にしたことが棟札に記されていたそうです。社殿は大正4年の御大典記念で改築されましたが、大正12年の関東大震災で被害を受け、現在の社殿は昭和8年に当地区の素封家小原金治の寄進によって建替えられました。神社の背後にある山腹には、社殿改築のため何基か潰されているものの古墳時代の横穴墓38基があり、東山横穴群と呼ばれています。神宮寺は中段の社務所があった場所に建てられていたものと思われ、当時は庭園があった様です。なお天保8年(1837年)の古文書によると、その頃は毎年8月15日(旧暦)に祭礼が行われたとあります。現在の祭礼は10月第二日曜日です。

(1)社名碑

 「八幡神社」の文字を書いた賀茂百樹(かものももき)(石碑にある”縣主(あがたぬし)”とは賀茂氏を尊称した古代からの呼名)は、明治42年から昭和13年まで靖国神社の宮司を務めた人。和学者でもあり『日本語源』10巻を刊行している。

 寄進したのは豊房村の素封家小原金治。裏面に「金千円と田1反2畝24歩を奉納する。1000円は向う95年間利殖し、満期(平成40年)になったらその総額を八幡神社の基本財産と定め、その後の収益は神社費に充てること。田からの収益は永久に祈年祭の費用に供すること」と書かれている。石工は大戸の飯田良平。社殿が建て替えられた昭和8年に建立された。

(2)常明燈(じょうみょうとう)

 石灯籠である。8人の願主と37人の寄進者の名が彫られている。石工は山萩の安西久三郎で、明治26年(1893)8月建立。左右の基壇に彫られている”牡丹と獅子 “は、千倉の木彫師後藤義光80歳のときの作。義光が石に彫刻した数少ない作品。

(3)石段

 鳥居前の階段を登ると、左側の親柱に昭和12年(1937)3月、右側に寄付者小原あきとある。石段工事の記録である。

(4)手水石(ちょうずいし)

 文化10年(1813)8月に寄進された。施主として石渡忠五郎・川名重左衛門の名が彫られている。

(5)鳥居

 花崗岩で造られた八幡鳥居。石造の額束(がくつか)が掲げられている。表に「八幡宮」とあり、裏には何を意味するか不明だが、下に波、上に首の長い鳥が彫られている(八幡神の神使(しんし)である鳩ではなさそう)。明治26年(1893)8月に建てられた。願主として小原金治・小原国太郎の名がある。

(6)沼珊瑚層(ぬまさんごそう)

 県指定の天然記念物「沼珊瑚層」に連なるサンゴの地層。池の中の島にサンゴの化石がみられる。ここは昭和40年4月21日に館山市天然記念物に指定された。海抜約18mにある。

(7)狛犬

 明治26年(1893)8月に地元願主4名によって奉納された。白浜の石工(いしく)宇山慶治と祖父宇山治兵衛によって製作され、精密な部分は千倉の彫刻師後藤義光の手になることが刻まれている。義光80歳の作。願主の名が左右の台座に同一人4名が刻まれているが、順序は異なっている。ア形の狛犬台座には「石渡忠兵衛・鈴木喜助・平嶋安蔵・小原桂助」とある。

(8)石橋

 かつて別当(べっとう)寺の応神山神宮寺があった跡地の鳥居を過ぎ、手水舎(ちょうずや)との中間に池を造り石橋を渡してある。最初の階段から次の階段までの間に石畳が敷かれている。(10)の手水舎や周りの植木等々の状況から、当時は立派な庭園があったと思われる。

 石橋の左側面に、「明治24年(1891)孟春 願主小原国太郎祖父小原藤助 小原金治祖父小原紋重郎」とある。孟春とは「春の初め、初春、陰暦正月の異称」である。

(9)日露戦役紀念碑

 豊房村の南条から日露戦役に出征した7名と、日清戦役のときに出征した2名の氏名が裏に彫られている。揮毫(きごう)は陸軍大将乃木希典(のぎまれすけ)である。明治39年(1906)、南条区によって建立された。

(10)手水石と手水舎(ちょうずや)

 明治20年代(年代は判読不能)に奉納された手水石で、正面に篆書(てんしょ)で「奉献」と浮彫りされ、裏面に願主の連名と長須賀の石工吉田亀吉の名が刻まれている。見所は、力士形の邪鬼(じゃき)が足を踏ん張り、手や肩で手水石の四方を支えている様子である。手水舎の正面桁鼻(けたはな)には、精密な木彫りの獅子と右妻側虹梁(こうりょう)の真中に立つ大瓶束(たいへいつか)の下部にある鬼面の木彫り「しかみ」は見事であるが作者は不明。手水舎の改修のときに、建築当初の木彫だけを取り付けた形跡がある。

(11)石段

 急な階段を登りつめると、左親柱に「石工□□勝蔵 □田七蔵 助合(すけごう)村」、右親柱に「願主 川名弥右衛門 小原紋十郎 文久三年(1863)亥年八月吉日」とある。明治になる5年前のこと。江戸時代は南条村・大戸村・作名村をあわせて一村とし、南条村と呼んでいた。助合村はその意味だろうか。

(12)石燈籠

 文化14年(1817)、大田和政右衛門、川名重左衛門、石渡忠兵衛が願主となって奉納した。後年破損したようで、火袋(ひぶくろ)と中台(ちゅうだい)の石は取り替えられている。明治になる51年前のもの。

(13)天水桶

 拝殿の雨水を貯める桶で、防火用水の役割を持つ。石造りの本体に願主が刻まれ、左の桶に「石渡みつ」、右の桶に「鈴木さだ・鈴木いせ」とある。年代・作者は不明。

【参考】

 昔の子守唄です。昭和の初め頃までは歌われていたそうで南条がむかし海村だったことを伝えているといいます。

ネンネガ、オモリハ、ドウコヘタ、ナンデウ、ナガタエ、トトカヒニ、ソノトトカフテ、ナニスルダ、ネンネニアゲヨトカフテキタ、ネンネコシナサエ、ネコナサエ

『安房志』より


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
川崎一・君塚滋堂・鈴木惠弘・中屋勝義>
監修 館山市立博物館

福生寺

福生寺(ふくしょうじ)の概要

 館山市古茂口字戸賀にあり、山号を飯富山といいます。曹洞宗の寺で延命寺の末寺。本尊は聖観世音菩薩です。寺伝によると、南北朝時代の西国の大大名として知られる大内義弘の子孫という無々遠公和尚が、薩摩国から来て開山になったということです。永正15年(1518)頃のことであろうといわれています。その後、延命寺の萬截是朔(まんせつぜさく)の弟子北州門渚(ほくしゅうもんしょ)が中興開山となりました。開基は里見義豊の妻である福生寺殿一溪妙周大姉とされ、この寺の歴代住職の供養塔に並んで一溪妙周の供養塔と伝えられる五輪塔が建立されています。「天文の内乱(1533~1534)」で夫の里見義豊が討ち死にしたことを知ったこの女性は、17歳で自害してしまったそうです。遺体は南条城跡の北側山麓に葬られ、福生寺の前身とされる一溪寺が建てられたといわれます。そこは寺屋敷と呼ばれ、いまは姫塚が残されているだけです。慶長11年・15年の里見家分限帳では、寺屋敷がある南条の地において高2石の土地を与えられていました。また徳川家からも同様の安堵がありました。

(1)山門

 四脚門の木鼻の獅子や欄間の竹梅に鷹、松竹に鶴の彫り物は、安房地方の彫刻師として有名な後藤義光が、明治28年(1895)81歳のときに制作した作品である。義光は文化12年に南房総市千倉町北朝夷に生まれ、明治35年(1902)旧3月15日(新4月22日)に88歳で没した。墓は同所寺庭の西養寺にある。23歳のときに江戸日本橋の後藤流彫物師後藤恒俊の門人になり、年季を終えると京都・鎌倉で修行を重ねて帰郷し、安房地方で活躍した。竜が得意で、市内の鶴谷八幡宮・鋸南の妙本寺・千倉の日枝神社・出野尾の小網寺などにある作品は力作である。

(2)六地蔵

 本堂前の六地蔵は天明2年(1782)から寛政3年(1791)に亡くなった方の供養がなされたもので、そのなかの1体に「施主大内■」とある。これは寺伝にある大内義弘の子孫という無々遠公和尚と関係のある家で建立したということだろうか。江戸時代に名主を務めた大内家があった。六地蔵は比丘形で流れのある裳裾が珍しく、それぞれ持ち物が異なる。昭和末頃に婦人部有志の浄財で現状に整備されたが、年中行事として8月24日には法会を行い篤い地蔵信仰が守られている。また葬列の先頭を「ロクドウ(六道)」と称して6本のロウソクを立て、先端を守るという意味の風習がある。

(3)大日如来像供養塔

 安西家の墓地の中には智拳印(ちけんいん)を結んだ大日如来の石像を乗せた供養塔がある。大日如来は普(あまね)く照らすという意味の慈悲の仏とされている。台座の銘文から、村内の安西清左衛門が両親の供養のために、般若心経一万巻を読誦し、西国・坂東・秩父の各三十三観音の功徳を願って建立した供養塔だろうと思われる。父は慶応元年(1865)、母は文久2年(1862)に亡くなっている。

(4)石井弥五右衛門盛次夫妻の墓

 江戸時代前期の様式をもつ2基の宝篋印塔は、水戸光圀の大日本史編纂事業に加わり安房先賢偉人のひとりに挙げられる石井三朶花(さんだか)の祖父母の墓である。盛次は元亀2年(1571)生まれとされ、里見義堯のひ孫にあたる里見家の家臣。慶長19年(1614)の里見家没落の際、幕府代官から手代頭に採用され、里見氏転封後の安房国の民政処理にあたった。その尽力によって房州の寺社98か所の領地が没落前とほぼ同様に保障されたという。右側の墓石が盛次で、法名の脇に万治3年(1660)10月3日とある。左側が夫人である。

(5)一溪妙周大姉の五輪塔

 本堂左側から墓地を登ると、左手の最高所に歴代住職の墓が一列に並んでいる。右端の開山と二世と思われる卵塔に挟まれて、高さ約1.6m、最下部の地輪が54cm角もある、風化が進んでいるが大きな房州石の五輪塔がある。この石塔は福生寺の開基とされる里見義豊の妻の墓と伝えられている。この五輪塔は安房地域でも規模の大きいものである。なお上からふたつ目には宝篋印塔の笠石が加えられている。

(6)南条城跡

 寺から西へ1km離れた館山市南条の字由義(ゆうぎ)にある標高50mの山を城山(じょうやま)という。これが南条城で、鳥山(とりやま)城とも呼ばれる。南麓には八幡神社がある。本丸の南側は急斜面で、北と西・東には曲輪が取り巻いている。東へ続く尾根には大きな堀切が現存し、本丸の西下には「首洗い井戸」と伝えられる城井戸がある。里見一族で、前期里見氏に仕えた鳥山時明・時正・時貞三代の居城だったが、里見義豊が天文の内乱で討ち死にしたとき、時貞も一緒に戦死したという。その後廃城になっていたが、正木大膳亮時堯(義頼の次男弥九郎で二代目時茂として正木大膳家を継いだ人物のこと)が鳥山城を修復して、城主になったと伝えられている。 <なお、鳥山(とりやま)城は従来烏山(うやま)城とされていたが、明治時代に誤記されたことが判明したので、今回鳥山城として紹介した。城主の名前についても同様である。>

(7)姫塚

 福生寺の裏山の丘陵から連なって、さらに西方へ延びた丘陵の端に、かつて鳥山氏の南条城があったと伝えられる。その北側の山すそ(館山市南条字東山居)にある溜池の奥に「姫塚」はひっそりとある。この塚は里見義豊の家臣であった南条城主、鳥山左衛門大夫時貞の娘で、里見義豊の妻であった女性の墓だという。夫の義豊が天文3年4月6日に戦死したことを知るとその日に自害、その霊を弔うために乳母が尼僧となり、姫塚のある谷に一溪寺を建てたという。その後寺は福生寺として移転したということらしい。残されている塚は石積みの台座のみだが、福生寺の五輪塔の最下部の大きさとこの台座の寸法を見ると、バランスのとれた組み合わせであり、五輪塔はここから福生寺に移されたのではないだろうか。


<作成:ふるさと講座受講生
井原茂幸・君塚滋堂・鈴木惠弘・御子神康夫・吉野貞子・吉村威紀>
監修 館山市立博物館

山荻神社・福楽寺

山荻神社(やまおぎじんじゃ)と福楽寺(ふくらくじ)の概要

 館山市山荻字中郷にあります。毎年の稔りを守護することから江戸時代までは歳宮(としのみや)明神と呼ばれていました。明治3年(1870)に神主の石井豊継から役所に出された取調帳によると、景行天皇の御代(みよ)(12代天皇で日本武尊(やまとたけるのみこと)の父と伝えられている)、この地に祭場を定め、正倉(しょうそう)を造り、稚産霊神(わくむすびのかみ)・猿田毘古神(さるたひこのかみ)を祀ったのが始まりとされ、和銅年間(708~715)に新たに社殿を造立して、別に大穴牟遅命(おおなむちのみこと)、少毘古名命(すくなひこなのみこと)を加え四座を祀ったと記されています。古代には2町四方の神領を持ち、明応元年(1492)に里見義成が神領8石を与えたと伝えられ、徳川将軍家にも朱印地として引き継がれています。現在の社殿は大正7年に火災で焼失、大正12年関東大震災で倒潰したあと、昭和2年(1927)に再建されたものです。本殿・幣殿・神供所からなる構造で、本殿には棟持柱(むねもちばしら)、板校倉造(いたあぜくらづく)りなどに古代神明造りの特徴が残っています。右隣りにある多聞山福楽寺は根来寺(ねごろじ)(和歌山県)の流れをくむ新義真言宗の寺院で、伝承によると元和4年(1618)に滝の口(白浜)から現在地に移り、堂宇を建て本地仏である弥勒菩薩(みろくぼさつ)を祀ったのが始まりとされています。境内に縁起を記した光明真言宝塔1基があったといわれていますが失われ、その後現在も残る光明真言六億遍供養塔が建てられました。古代この辺りは岸の谷(や)といい、船着場であったと言われています。開拓が進められる中、野獣の害を除く御猟(みかり)神事や邪気をはらう大烽焚(おおびた)き神事、土地を耕し五穀を植えその吉凶を占う筒粥神事が人々の生活や信仰から生まれてきました。受け継がれて来た筒粥神事は今も2月26日の祈念祭・宅神祭の際に行なわれ、平成5年に市の無形民俗文化財に指定されています。9月14、15日の鶴谷八幡宮の国司祭には神輿が出御します。例大祭は10月17日、神嘗(かんなめ)祭は11月26日に行なわれます。

(1)社名碑

 参道入口右手にある。神社名を記した石碑は、明治23年(1890)に氏子達によって建てられたもので、題字は明治13年(1880)に結集され、同15年に代表的な神道の一派として独立した神習教の管長・芳村正秉(まさもち)の筆によるものである。

(2)石燈籠

 入口左手にある1基の石燈籠は、明治9年(1876)、山荻村の安西氏の寄進によるもの。

(3)狛犬

 小型の狛犬であるが、万延元年(1860)の銘がある。願主は村の氏子達で、川下(白浜町滝口)の石工山口金蔵重信の手によるものである。

(4)鳥居と石燈籠

 階段を登った中段にある鳥居と石燈籠は、ともに文政5年(1822)の建立で、氏子達の寄進によるもの、燈籠の台座には発起人の武内伊勢(鶴谷八幡宮の命婦(みょうぶ)家)、山荻村名主の佐野八右衛門、神主石井常陸亮の名が刻まれている。

(5)石燈籠

 階段を登り切った両側に建つこの石燈籠は、天明7年(1787)、山荻村の栗原清太郎寄進のものである。

(6)手水石

 四匹の邪鬼(じゃき)の上に水盤が乗った型の手水石で大変珍しい。安政3年(1856)、山荻村の内藤八十右衛門が願主になって氏子達が寄進したもの。邪鬼の背に石工の名が刻まれ、川下(白浜町滝口)の山口金蔵重信、南条村の清左衛門の作とわかる。水盤は地元山荻の和助の作である。

(7)山三講浅間祠

 拝殿左手にある。石祠には正面に富士大神と彫られており、台座には山三講の名が刻まれている。山三講はこの地域の人達が参加していた富士講の講名である。江戸末期から明治期にかけて盛んであった。祠は明治11年(1878)、山荻の黒川安平らを願主に建立されたものである。

(8)石棒石祠

 本殿裏手にある。男根を形どった石棒が石祠に祀られている。子孫繁栄、五穀豊穣を祈願したものであろう。

(9)大炊所(おおいどころ)と筒粥神事(つつがゆしんじ)

 筒粥神事は古来五穀の吉凶を占う伝統神事として各地で行なわれてきた。山荻神社では今でも行なわれ、空洞のヨシ(植物)を13cm程に切り、作物別に番号を付した19本のヨシ筒を粥と一緒に煮込み、拝殿に運ばれて儀式を行ったあと、ヨシを割いて中に入っている米粒の量でその年の作物の吉凶を占う神事である。その筒粥を釜で煮る建物が大炊所で、社務所の左手にある。市指定無形民俗文化財。

(10)旧神職石井家跡

 参道入口の左手に神主石井家の屋敷があったが今は集会所になっている。石井家は磐鹿六雁命(いわかむつなりのみこと)の子孫で代々神主を務めた家柄。伝承によると景行天皇が東征の折、その磐鹿六雁が蛤の料理を天皇に差し上げたところ大変喜ばれ、朝廷の大膳職(だいぜんしき)に取り立てられたといわれている。和銅年間にその子孫の豊彦という人が山荻神社創建の際、社務を命ぜられて代々の神主になったと伝えられている。屋号を宮元といい、石井家代々の墓は奥手の高台にある。

(11)日清戦役戦没者墓碑

 正面に「故近衛歩兵一等卒渡邊丑蔵君墓誌」と刻まれている。明治6年9月に山荻村に生まれ、同26年に近衛歩兵第3連隊に入隊、日清戦争後の明治28年(1895)7月に台湾へ転戦、同月13日、三角湧胡角において21歳で戦死した。その追悼碑である。豊房村長で農事の奨励・発展に尽くした鈴木周太郎の書。

(12)宝塔

 正面に「光明真言六億遍供養塔」と刻まれ、左側面には願主6名、裏面には石工、右側面には当寺13世・14世の住持2名の名がある。この古寺にはかつて光明真言の宝塔1基があったが失われ、住持の宥證と信者が再建を決めて、寛政10年(1798)から享和3年(1803)まで6年をかけて光明真言6億回を唱え、志を継いだ住持源惠のとき建立された。この宝塔を彫造した石工は元名村(鋸南町)の周治とある。25歳の時のもので、40歳頃からは武田石翁(せきおう)と号した。武志伊八・後藤義光とともに安房の3名工のひとりに数えられている。『安房先賢偉人伝』でも紹介され、江戸時代後期に活躍した石彫りの達人。安永8年(1779)に本織村(南房総市三芳地区)に生まれた。円熟の技を探究し、黒蝋石による数々の彫刻作品を残し、80歳で歿した。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」 井原茂幸・中屋勝義・吉村威紀>
監修 館山市立博物館

猿鹿山瑞龍院

瑞龍院(ずいりゅういん)の概要

 館山市畑にあり猿鹿山(えんろくさん)瑞龍院という。曹洞宗。開創は天正(てんしょう)5年(1577)で、開基は房総の太守(たいしゅ)里見義弘。江戸初期の角岩麟藝(かくがんりんげい)和尚が中興開山。それ以前にも三代あったという。本尊は虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)で、義弘の守り本尊が寄付されたと由緒書にある。里見家と徳川家からは6石2斗の地を与えられた。かつては現在地より裏山を更に登った高台(現在畑になっている)に堂宇があったが、元禄16年(1703)の大地震による山津波で崩壊し、現在地に移ったと伝えられている。里見義弘の院号を寺名にしているとおり、(1)義弘の位碑や(2)義弘像の頭部と伝えられる木像が安置されている。また寛政9年(1797年)の(3)本堂再建棟札が残され、東西7間・南北7間半の本堂が再建されている。欄間には(5)波の伊八(初代武志伊八郎)の龍が守っている。本堂の再建・伊八の龍・義弘公の木像、そして今は廊下に保管されている文政8年(1825)の(4)喚鐘(かんしょう)等々は、みな中興8世の慧東(けいとう)和尚による再建事業で残されたものである。

(1)里見義弘夫婦の位碑

 義弘の法名「瑞龍院殿在天高存大居士」に並んで、室は「智光院殿高嶽梵長大姉」とあり、小弓公方{おゆみくぼう}足利義明の娘。延命寺本里見系図では里見義頼の母と伝えられる女性である。鎌倉太平寺の住職を務めた青岳尼であるとされる。

(2)里見義弘木像

 文化12年(1815)10月に当院8世住職慧東(けいとう)により、開基像として新造された。当時のものは頭部のみが残されている。

(3)本堂再建棟札

 本堂は寛政9年(1797)に8世慧東が再建したもの。棟札には、棟梁(とうりょう)大工は平群本織(もとおり)村の伊丹喜内(いたみきない)とあり、延命寺大工と呼ばれ曹洞宗寺院の専属名匠として知られていた。木挽(こびき)棟梁は長尾川を下った白浜村曲田(まがった)の権四郎。関東大震災で倒壊した。

(4)喚鐘(かんしょう)

 法会等で用いられるというこの鐘は、文政8年(1825)に8世慧東が、江戸神田の鋳物師(いもじ)西村和泉守藤原政平に依頼してつくらせたもの。里見義弘が開基した瑞龍院の衰退を憂い、慧東が東奔西走して寺の再建をしたことが記されている。この鐘にこれからの寺の繁栄を託したのだろうか。

(5)伊八の竜

 文化5年(1808)11月、長狭の武志(たけし)伊八郎伸由(のぶよし)(初代伊八 58歳)とその弟子森久八により彫られた。8世慧東(けいとう)の時。

(6)石井平雄句碑

 「精舎にのほりて秋声をきく 澄(すむ)かきりすむや河鹿(かじか)のゆふ流(ながれ)」

 明治33年(1900)に俳人石井平雄(ひらお)の孫が建てた句碑。平雄は平館(へだて)村(南房総市千倉町)の人で、久保村の井上杉長(さんちょう)の門人。元治2年(1864)没。本名は石井宇門といい医師。俳諧のほか画・彫刻にも長じていた。台石は平館から九重・館野・豊房を回って運んだという。

(7)出羽三山碑

 天保13年(1842)8月に建立。出羽三山(山形県)の登山記念碑で、地元の10名と白浜の3名の名前が読める。

(8)大日如来坐像

 上半身が欠けた像だが、立地から考えると出羽三山に関係した石仏だろう。蓮華座が確認出来るので大日如来の可能性がある。三面に十数名の名前が確認できるが十分読み取れない。宝暦年間のものか。

(9)延命地蔵菩薩坐像

 向台(むかいだい)地区の女性達10名が願主となり、夫や息子の無事を願って文政11年(1828)11月に建立したもの。

(10)馬頭観音

 岩肌をくりぬき三体の馬頭観音がある。年代が特定できるのは左側のみ。大正8年7月とある。中央右側面に畑地区では珍しい酉井(とりい)市右衛門という名前が読める。

(11)歴代住職の墓

 裏山の向山墓地に無縫塔(むほうとう)が8基並んでいる。享保年代と法名を読める墓碑も1基あるが他は不明。他に、寺から墓地へ行く山道の途中、山肌を削り整備した墓地に中興8世から13世の墓が安置されている。

(12)伝 里見義弘夫妻供養塔

 向山墓地の住職墓碑の左端に宝篋印塔が2基あり、里見義弘夫妻の供養塔、分骨墓とも語り継がれ、地元では「髪塚」「さんとうば」と呼ばれている。一方には「道■妙阿禅尼 天文25年(1556)」の銘文があるが、年代が早いことから、別人の供養塔か逆修塔との説もあり、謎のまま安置されている。

報恩碑<平家の落ち武者伝説>

 瑞龍院から川を挟んで向いの中腹に、畑地区の始まりを語ると言える碑がある(石井家墓地に個人が明治29年に建てたもので、見学する場合は了解を得る必要があります。)

 碑には、今を去る千余年前、新悟・萬吾・平作・野庄の四人の落武者が畑へ逃げ延びてきたことが記され、野庄が石井家の祖であるとしている。他の三人は畑四姓のうち残る山川・加藤・早川。建立した石井金治は安房国造大伴直’くにのみやつこおおとものあたい(大瀧から四十余世続いた子孫であるという。撰文は元長尾藩士で漢学者の恩田城山(じょうざん)、石工は東京美術学校で高村光雲に学んだ館山の俵光石(たわらこうせき)。明治29年(1896)建立。

長尾三神社 合祀記念碑

 瑞龍院の南西側、畑地区の中心部にかつて畑小学校があったが、昭和47年(1972)、児童数の減少により豊房小学校に統合し廃校となった、その裏山に長尾三神社がある。古書によれば畑にはもともと長尾神社・八幡神社・八雲神社の三社があった。長尾神社は長尾川流域にあった長尾庄の総鎮守と伝えられ、養老2年(718)に班田使が安房へ下向したときに創建されたという。しかし、「時を経て戸数も僅かなこの地では維持が難しくなった。合議すること3年、大正9年に合祀(ごうし)が決まり、信心深い氏子たちによる数千余円の拠出金で大正10年に新社殿が造営されることになった。この地は山高く谷深く、松聳(そび)え老杉鬱蒼(ろうさんうっそう)として、民家が点在し、四方を眺(なが)めれば絶景である。山では禽(とり)が常に囀(さえず)り水が絶え間なく流れ、東南に開ける社殿は雄大で明るく輝いている。合祀のために尽力された氏子総代、有力者、また補佐された方々の徳を称(たた)えこの記念碑を建立するに到る。」と記されている。撰文(せんぶん)は豊房村長鈴木周太郎、裏面には60名近くの寄付者の名前と金額が彫られている。石工は田中安治郎。村内に散在していた三社は長尾神社の位置に合祀された。


<作成:ミュージアム・サポーター 鈴木以久枝・鈴木惠弘・中屋勝義>
監修 館山市立博物館

布良崎神社

布良崎(めらさき)神社の概要

 布良崎神社は館山市布良(めら)字西本郷にあります。祭神は天富命(あめのとみのみこと)で、安房神社の祭神天太玉命(あめのふとだまのみこと)の孫にあたります。天富命は、神武天皇即位の始めに四国阿波(あわ)の地から、麻(あさ)と穀(かじ)(梶)の栽培に適した東国の肥沃な土地を求めて、天日鷲命(あめのひわしのみこと)の孫を伴って、阿波の忌部(いんべ)一族を率いて布良の地に上陸したとされる人です。安房地方を開拓して麻・穀(かじ)を植えながら、上総の国・下総の国へと開拓を進めていく一方、この地に残った忌部の人々と村人達は、天富命の徳を慕い、祭神として布良の集落に社(やしろ)を建てたのが布良崎神社であると伝えられています。元禄の大地震(1703)のあとも、明治9年(1876)の大火・明治10年の台風等の度重なる被害を受けたことから、村人達は日掛け3厘の積立てを行い、明治13年から8年間の貯金を基金にして境内を整地し、明治41年(1908)に現在の社殿を造営しました。昭和54年には屋根の葺き替えが行われています。明治17年には郷社に列せられた古社で、例祭は7月20日前後です。

(1)旧鳥居柱

 境内入口の左側に、文政9年(1826)2月吉日の年号が彫られた2.7mの白御影石の柱があり、貫(ぬき)穴が上部に残っている。これは現在の一の鳥居が昭和天皇在位60年を記念して立て替えられたときに残された、旧鳥居の一方の柱である。

(2)石灯籠(一の鳥居横)

 石灯籠は本来、仏堂の前で献灯するための石造物で、正面に1基だけ置かれた。やがて神社にも立てられるようになり、桃山時代からは2基1対となった。この鳥居は、大正天皇即位の大礼を記念して、地元の黒川佐吉が大正4年(1915)に奉納した。石材に改修した跡があり左右の火袋の意匠も違っている。

(3)狛犬(こまいぬ)

 石段を挟むように左右一対の狛犬がある。台座には左に「奉」、右に「納」の文字が篆書で彫られている。昭和7年(1932)7月に地元の豊崎藤四郎が奉納したものである。

(4)玉垣と石垣

 大正天皇の即位を記念して大正4年(1915)に築かれた。拝殿に向い左右の親柱に「御即位記念」、右側には「大正四年七月完成、玉垣建設計画者、神田吉右衛門、青木仲右衛門、満井武平、木高三郎、黒川三郎右衛門、小谷治助、小谷安五郎」と記され、左側には、「社司・藤森齋、氏子総代・神田辰太郎、神田真吉、黒川保三、吉田徳平」とある。石垣の玉石は漁師が出漁の際に、伊豆から少しずつ漁船に積んで運んできたのだという。石垣は三州屋が積んだものである。

(5)石灯籠(二の鳥居横)

 元治2年(1865)2月吉祥日に当社の「御宝前」に奉納された。笠の軒裏には隅木(すみき)と垂木(たるき)が細かく彫られ重厚である。2段目基壇の右側には地元の帆屋三兵衛ほか川名や正木川崎などの人14名、左側には江戸日本橋蔵屋敷の米屋久七ほか16名の願主と奉納者の名がある。裏面には石工として神余村の権四郎、滝口村の松五郎・作二の名が刻まれる。日本橋蔵屋敷は日本橋南詰(みなみづめ)にあって、河岸(かし)沿いに土手蔵が並ぶところ。享保年間から江戸の台所として栄え、活鯛屋敷と呼ばれる生簀(いけす)付きの役所が幕府の魚を買い上げていた。その頃から館山湾と魚河岸(うおがし)とは、押送船(おしょくりぶね)で鮮魚を約一昼夜で運ぶ流通ルートを確立していた。

(6)二の鳥居

 白御影石の神明鳥居は、右の柱に「御大礼記念」、左の柱に昭和3年(1928)建立、紀元2588年の年号が刻まれている。

(7)手水石

 拝殿横に支え柱銅板葺きの手水舎(ちょうずや)の下に、奉納と記された手水石がある。天保7年(1836)2月に願主高木氏が奉納したもの。

(8)磐座(いわくら)

 一の鳥居を過ぎて左手の女坂上り口に独立した岩があり、磐座(いわくら)と言われている。岩の頂上部に直径10数cm・深さ数cmの杯状穴(はいじょうけつ)(くぼみ)が数個あり、古代の祭祀跡と言われている。

(9)手水石(末社前)

 末社参道に置かれ、正面に「奉納」、右面に「明治三十二年(1899)八月吉日」と刻まれている。

(10)やまずみ様(末社)

 末社として、大山祇大神(おおやまづみのおおかみ)・安産大神・琴平大神・浅間大神・稲荷大神・御隠居大神・安房大神が祀られている。祭神の詳細は不明だが、節分に扉を開けて地元の人々が豆をまく風習がある。木造のお社が老朽化して昭和54年に建て替え、鳥居も改修した。

(11)満井(みつい)武平頌徳碑(しょうとくひ)

 満井武平(1953-1911)は明治23年から千葉県議を二期務め、34年には42歳で富崎村長となり、布良漁港の防波突堤建設や布良崎神社の現社殿造営に尽力した。碑には「関東大震災で布良漁港が八尺も隆起し、舟の出入りができなくなったが、房州42か所の漁港・船曳場(ふなひきば)のうち、県営の復旧工事として布良漁港が震災の3周年目に復旧できたのは、採鮑業の利益の積立金2万円を県に寄付したことと、明治33年・34年に武平の努力で防波突堤をすでに築いていたからである。ここに布良漁業の復興を誓い、布良漁村の真髄を確立する決意を示す。漁(すなどり)の途(みち)し絶えなば吾が邨(むら)は 人も絶えなむ邨も絶えなむ」とある。昭和2年(1927)に東京の書家諸井華畦(もろいかけい)が書いている。華畦は、明治から昭和の書道会で一大勢力となった「春洞流」の西川春洞に師事、高弟6人に入る女流書家。同じ書家で夫の諸井春畦(しゅんけい)と共に、中国の古碑法帖(ほうじょう)研究の第一人者である。

(12)石灯籠(女坂上)

 通称女坂の石段の上にある。「常夜燈」として寛政11年(1799)7月7日に奉納された。基壇裏面に願主・小谷源右衛門の名、側面に地元の11名、右基壇裏面に地元9名の奉納者名がある。

(13)駒ケ崎神社

 布良の字(あざ)鯨山、男神山(おがみやま)の麓にある。祭神は厳島(いつくしま)大神と海祇(わだつみ)大神で、由緒は不明だが地元では「じょうご様」と呼ぶ。漁師の信仰は絶大で、三浦半島まで及んでいる。新造漁船の神事では、神社前の海上で建材の一部を海に浮べて左に3回廻り、安全と豊漁の祈願がされる。神社の裏手には海蝕洞が2つあり、庚申塔と不動明王が祀られるが、詳細不明。

(14)男神山(おがみやま)と女神山(めがみやま)

 灯台がある山が男神山で、国道寄りの山が女神山である。阿由戸(あゆど)の浜に上陸した天富命(あめのとみのみこと)が、男神山に天太玉命(あめのふとだまのみこと)、女神山に妃の天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)を祀ったという。開拓の歩を進めるにあたり、上(かみ)の谷(やつ)と下(しも)の谷(やつ)に社(やしろ)を移し、さらに神の谷(現安房神社の地)に社を造営したと伝えられる。阿由戸の浜には、天富命の足洗い岩・神楽岩(かぐらいわ)などの伝承がある。

忌部(いんべ)とは

 『古語拾遺(こごしゅうい)』によると朝廷で祭祀(さいし)を司(つかさど)った一族で、祖神の天太玉命は天照大神の岩戸開きや天孫降臨の五伴神(いつとものかみ)の一人であり、大和朝廷の王権確立に大きな役割を果たした。忌部氏には宮廷祭祀に必要な祭具や物資を献納する諸族がいるが、天富命は、四国阿波(あわ)から安房へと土地を開拓して麻・穀(かじ)を植えていき、安房忌部の居る所を安房の郡(こおり)、良い麻が育つ所を総(ふさ)の国と名づけた。

☆一の鳥居と二の鳥居の見通し線上に富士山を望むことができ、5月下旬と8月上旬には富士山頂に太陽が沈む雄大なパノラマが楽しめる。


<作成:ふるさと講座受講生 佐藤博秋・佐藤靖子・中屋勝義>
監修 館山市立博物館

安房神社

安房神社(概要)

 神社の言い伝えでは2660年以上の昔、天富命(あめのとみのみこと)が阿波の忌部(いんべ)一族を率いて安房国を開拓しに来た際、自分の祖先である天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祀るために建てたのが安房神社である、とされている。その由緒が戦前に寺崎武男によって壁画に描かれ、そのうち2枚が参拝控処に掛けられている。

 この祭神は伊勢神宮にも祀られていることから、本殿は伊勢神宮と同じ神明造りである。安房一宮で「安房坐(あわにいます)神社」とも呼ばれ、周辺の人々からは「大神宮」として昔から親しまれてきた。平安時代には朝廷の大膳寮に祀られる御食神(みけつかみ)で、日本にわずか9つしか存在しなかった神郡(しんぐん)と呼ばれる所領を持つ神社となり、明治に入ると官幣大社に列せられ国家の保護を受けるなど、今も昔も安房において非常に神徳の崇い神社である。

(1)社号碑

 元帥東郷平八郎の書になる石碑。安房神社の目印の一つである。昭和8年建立。

(2)水田三喜男顕彰碑

 水田三喜男先生遺徳顕彰会によって建てられた記念碑。そこには「偽らず・欺かず・媚びず」という、鴨川市出身の元大蔵大臣であった水田三喜男の言葉が誌されている。

(3)旧宝物殿

 現在は利用されていないが、戦前に宝物殿として建てられた建物。いつの時代に立てられたかは定かではないが、昭和の初期建設と伝えられている。

(4)館山海軍砲術学校第三期兵科予備学生戦没者慰霊碑

 昭和45年10月10日に建てられ、平成12年10月10日に再建された慰霊碑。神戸地区にあった館山海軍砲術学校の第三期兵科予備学生229名の戦没者の名が記されている。境内に植えられているソメイヨシノの桜-229本は、この慰霊碑建設の際に植えられたものである。

(5)海軍落下傘部隊慰霊碑

 昭和48年に元海軍落下傘部隊一同によって建てられた慰霊碑。横須賀鎮守府の第一特別陸戦隊43名、第三特別陸戦隊46名の戦没者名が記されている。当時の首相田中角栄が揮毫。

(6)厳島社(いつくしましゃ)

 拝殿の手前にある6畳敷き以上もあるかと思われる巨大な岩石は、社殿のできる前にはこれを岩座(いわくら)として、祭神を天よりあるいは吾谷山の頂より招いて、原始的な祭祀が行われていたと考えられている。現在は弁天様が祀られ、文化11年(1814)の手水石がある。

(7)日露戦役記念碑

 明治39年10月16日に神戸村の恤兵会(じゅっぺいかい)によって建てられた記念碑。元帥大山巌の揮毫。神戸村出身の内地勤務3名・海外出兵88名の戦役従軍者の名が記されている。ちなみに恤兵とは物品または金銭を寄贈して戦地の兵を慰めることである。

(8)琴平社(ことひらしゃ)

 航海の安全を守る神様で、元は安房神社とは別のところに祀られていたものを氏子が先頭となってここへ移動した。琴平社の祭事は9月27日に行われる。

(9)上の宮(かみのみや)

 安房神社の主祭神を祀る本殿、礼拝のための拝殿、お供え物を調理する神饌所(しんせんじょ)の三施設からなる。主祭神は天太玉命(あめのふとだまのみこと)と天比理刀咩命(あめのひりとめのみこと)の夫婦神である。本殿の造りは伊勢神宮と同様の「神明造」で、釘が一本も使われていない。例大祭は8月10日である。

(10)御仮屋(おかりや)

 8月10日の例大祭の時に、洲宮神社を始め安房神社周辺の9社(白浜・滝口・神余・佐野・中里・犬石・布良・相浜・洲宮)が神輿を集め奉安しておく場所であったが、諸種の事情により昭和20年代前半に9社そろっての入祭は行われなくなった。現在は9月10日に御仮屋祭が行われている。江戸時代には9月28日の浜出神事の際に神戸郷の神輿が入祭していた

(11)御神水

 上の宮後方の吾谷山(あづちやま)から湧き出ている御神水。今は止められているが昔は周辺の田畑を潤す重要な水源でもあったようである。

(12)下の宮(しものみや)

 上の宮同様安房神社の中核をなす社殿。上の宮と違い本殿と拝殿のみで、祭神は房総開拓の神天富命(あめのとみのみこと)と安房国造大伴氏系の天忍日命(あめのおしひのみこと)である。下の宮祭は5月10日である。

(13)官幣大社記念碑

 明治4年5月官幣大社に列せられたことを記念して周辺の氏子たちによって建てられたと思われる。震災時に倒れてしまったが10年ほど前に修復した。

(14)安房神社洞窟遺跡

 昭和7年の井戸工事の際に見つかった洞窟で、標高22m前後。館山周辺に多く見られる海の侵食によってできた海食洞穴のひとつ。緊急発掘調査により貝輪193個と抜歯習俗の人骨15体などが発見されて注目された。現在は県の指定史跡になっている。調査後洞窟は埋め戻され、人骨の一部は翌8年に忌部塚として埋葬、供養された。

(15)忌部塚(いんべづか)

 安房神社洞窟から発見された人骨が、忌部一族の御霊・人骨として祀られている塚。発見当時は、人骨の生存年代は弥生時代に遡るものとされたが、出土土器と一致しない。7月10日には報恩崇祖の誠を捧げる忌部塚祭が行われている。

安房神社主要祭礼一覧

1月1日歳旦祭
14日置炭神事
15日粥占神事
2月節分日節分祭
5月10日下の宮祭
6月10日厳島社祭
30日大祓式(夏越の祓)
7月10日忌部塚祭
8月10日例大祭
9月10日御仮屋祭
14.15日国司祭
11月23日新嘗祭
12月31日大祓式 除夜祭

作成:平成16年度実習生
監修:館山市立博物館

金蓮院

金蓮院(こんれんいん)の概要 

館山市犬石にあり、真言宗智山派金剛山慈眼寺(じげんじ)金蓮院という。本尊は大日如来、平安時代に造立された木造地蔵菩薩像が安置される。開創は不明で、江戸初期に頼忠(らいちゅう)が中興している。安房国札観音霊場の第29番で、安房国88か所弘法霊場(天正10年(1582)制定)の第5番。文政11年(1828)に本堂が17世賢瑜(けんゆ)によって再建された棟札がある。本堂の欄間にある龍の彫刻は、作風から武志伊八郎初代信由(1751~1824)の作と見られるが、本堂再建と年代は合わない。二代目信常との合作か。また長尾藩の兵学者で、後に白浜に残り漢学の教育者として、明治の時代を過ごした恩田城山(じょうざん)(1838~1919)の「忍耐」の書額が掲げられているほか、元文元年(1736)の願主智円(白浜根本)・施主順礼講中(白浜塩浦)が奉納した88か所の篇額(へんがく)もある。当寺の山門は、犬石の語源とかかわる本堂裏の「飛錫塚(ひしゃく)」と旧観音堂を正面にして建てられているため、本堂より少し右側を向いている。観音御詠歌は「ずんと入り 見上げて見れば飛錫塚(ひしゃくづか) 極楽浄土は 犬石の堂」

「犬石伝説」

古文書によると、文治元年(1185)、頼智(らいち)という高僧が行基(ぎょうき)作の観音菩薩像を携えて、伊豆から海を渡り平砂浦(へいさうら)へ着いた。東の方が明けて来た時、1匹の白犬が現れ頼智の法衣を引いて東の方へ導くと、金剛山のふもとまで来て犬は動かなくなった。頭をなでると犬ではなく石だったという。犬石の地名の始まりと伝えられている伝説である。犬石には白石・犬尾という地名もある。

(1)山門

密教系の寺院は元来山地に築かれたので、伽藍(がらん)が直線状に配置される特徴がある。観音ご詠歌に、「ずんと入り見上げて見れば飛錫塚」とあるように、飛錫塚に向かって一直線にのびる参道に山門がある。形式は四脚門(しきゃくもん)で「慈眼密寺」の掲額(けいがく)がある。

(2)青面金剛(しょうめんこんごう)庚申塔(こうしんとう)

庚申(かのえさる)の日に昼夜眠らず謹慎して過す道教の信仰をもとにする庚申信仰の本尊。この石像は長須賀の石工鈴木伊三郎の作。基壇正面の三猿は御幣(ごへい)を担ぎ扇子(せんす)を持った万歳師(まんざいし)を先頭に、米俵と鶏をのせた荷車を二猿が引く。一方は扇子を掲げ鼓舞している。夜明けを早めて、庚申(こうしん)明(あ)けを待ち望む庶民の願いが表わされている。犬石村の庚申講中で天保3年(1832)に寄進したもの。

(3)延命地蔵

新しく生まれた子を短命・夭折(ようせつ)の難から護るという地蔵で、天明6年(1786)建立の半跏坐像(はんかざぞう)である。

(4)十一面観音像<三体>

十一面観音は、救済者としての菩薩の能力を十一の顔<菩薩(ぼさつ)面3、瞋怒(しんぬ)面3、狗牙上出(げじょうしゅつ)面3を前部に、大笑(たいしょう)面1を後部に、仏面1を頂上に>として頭上に配されている。3体のうち左立像の台座に「犬石 蒲生講中 世話人中」と彫られている。

(5)島田楽山碑

享和1年(1801)生~明治13年(1830)没。犬石村名主。新井文山などに学んだ後、17歳で江戸へ遊学した。安政年間に米艦が平砂浦に碇泊(ていはく)したときには通訳を依頼されている。隠居後は近隣子弟に学問を教えたが、黄疸(おうだん)病で没した。80歳。碑は恩田城山の撰文。23世田中良範の発起により犬石中里区民59名が建立した。

(6)伊藤利右衛門墓碑

文政9年(1826)生~明治22年(1889)没、64歳。犬石村の人。幼少より四書五経を学び、明治6年に犬石村などの平砂浦の村々が相浜(あいのはま)村を相手に平砂浦の浜境界について紛争したとき、犬石村代表として裁判に参加した。墓碑は明治26年に建立された。

(7)手水石(ちょうずいし)

犬石村の仁兵衛が、寛政11年(1799)に寄進したもの。

(8)宝篋印塔(ほうきょういんとう)

宝篋印陀羅尼(ほうきょういんだらに)経を納めた塔。塔身に金剛界四仏(しぶつ)の梵字(ぼんじ)が刻まれている。笠の反り具合から江戸時代後期と思われる。鉢巻石には大正12年(1923)に修繕したことが刻まれている。

(9)大賀(おおが)蓮

昭和26年(1951)千葉県検見川で発掘された約2000年昔の蓮の実から、大賀一郎博士の努力により発芽に成功、大賀蓮と命名され世界的に有名になった古代蓮。今では世界各地に根分けされている。

(10)観音堂

十一面観世音菩薩が祀られる安房国札観音霊場29番札所。丑年と午年に開帳される。犬に導かれて来た頼智が草庵を建て観音菩薩像を安置したことに始まる。明治39年(1906)の焼失まで本堂の裏にあったが、明治42年、今の場所に竹原薬師堂の古材(こざい)を使って再建された。

(11)桶屋(おけや)神田惣蔵の碑

桶工の神田惣蔵は、犬石蒲生(かも)の人でタガ作りの名人と言われ沢山の弟子を育てた。その恩を受けた山荻、布良、真倉、犬石、大神宮、白浜の弟子たちが、17回忌の明治30年(1897)に功績を称えてこの碑を建立した。明治15年(1882)没、64歳。墓は、犬石蒲生のいちょう堂にある。神田家は今も「たがや」と呼ばれている。

(12)歴代住職の墓

中興1世で慶安4年(1651)に没した頼忠の供養塔<元文5年(1740)建立>ほか、元禄から慶応まで約150年間の住職などの墓20基がある。平成8年に現状に整備した。17世賢瑜(けんゆ)は小網寺にのぼり同寺34世として両寺に墓がある。住職が小網寺へのぼる出世寺と言われた。

(13)石書妙経塔(せきしょみょうきょうとう)

経塚(きょうづか)と呼ばれている一字一石供養塔である。願主の蓮明顕實(れんみょうけんじつ)は、犬石村名主家出身で島田勝蔵という。享保12年(1727)、郷里を出て諸国の霊山を巡り先祖の菩提を供養し、約5年半後に出家して帰郷すると、朝夕のお勤めの合間に海水で清めた小石1石に一字づつ経文を書き、享保19年に6万9千5百5石を埋めてこの経塔を建立した。延享5年(1748)、出羽国村山郡の満願寺で亡くなっている。

(14)飛錫塚(ひしゃくづか)

頼智を金剛山の岩山に導いた犬が石になった話と別に、犬が頼智から離れないので錫杖(しゃくじょう)を振ったところ犬が消えたので「飛錫塚」と言うようになったという話もある。この下に観音堂が建てられていた。

(15)枕字石(ちんじいし)<=夜光石(やこうせき)>

元文3年(1738)、犬石の農夫が平砂浦で3尺(90cm)ほどの石を拾い、家に持ち帰り牛をつなぎとめた。その夜牛が騒ぎ出したので中をうかがったところ石が輝き、石面には字があったので、長老、僧徒が「夜光石(やこうせき)」と名付け飛錫塚に安置したという。現在は半分ほどに欠けているが、いつのころからか「枕字石(ちんじいし)」と呼ばれている。

(16)犬石権現跡(犬石青年館)

頼智を岩山のふもとまで導いてきた犬が石になったところに、観音堂と別に祠(ほこら)を建てて犬石権現として祀るようになり、その地域を犬石と呼ぶようになったというが、別にもうひとつ地名伝説がある。昔、西岬の鉈切(なたきり)洞穴に修験僧が犬を連れて入ったところ僧は戻ってこなかったが、犬は青年館にある岩の裏の穴(危険なので埋めてある)から赤膚(はだ)になって出てきてすぐに石になってしまったという。これも犬石の地名伝説である。青年館敷地の岩の露頭(ろとう)にあった犬石権現は、今は蒲生にある犬石神社に合祀されている。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」 
石井道子・加藤七午三・君塚滋堂・佐藤博明
佐藤靖子・鈴木惠弘・中屋勝義>
監修 館山市立博物館  〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

小塚大師

小塚大師とは(概要)

嵯峨天皇の弘仁6年(815)に、弘法大師が創建したと伝えられている真言宗の寺院で、曼陀羅山金胎寺遍智院というのが正式名です。神戸地区大神宮の字小塚にあって、弘法大師を本尊にしていることから、俗に小塚大師の名で親しまれているわけです。関東厄除三大師のひとつとして、毎月21日のお大師様の縁日には参詣者があり、特に旧暦の正月にあたる1月21日の初大祭には、たいへんな賑わいをみせます。またこの小塚大師をはじめ、周辺には弘法大師にまつわる伝説も多く残されています。

(1)宝篋印塔(ほうきょういんとう)

 宝篋印陀羅尼経という経文を納めた塔で、中国ではじまった。日本では平安時代末から供養塔・墓塔として建てられ、その後江戸時代になるとお寺の境内にも作られるようになった。ここの境内にある塔は、三十一世住職伝海を発起人に、地元の高木吉右衛門と近隣の村々の光明講が中心となって、文化14年(1817)に建てられた。石工は北条村新宿の加藤伊助・金助・伊兵衛である。

(2)手洗石(ちょうずいし)

 参拝者が手や口を清めるために水を湛えておくもの。文政10年(1827)に神余村の住吉屋徳兵衛を中心に、安房国内の51か村130人以上が協力して奉納した。石工は長須賀村の鈴木伊三郎で、正面に浮彫りされた二匹の獅子が見事である。

(3)佐野翁紀徳碑(さのおう、きとくひ)

 この石碑は明治34年11月、神戸村の人佐野吉左衛門の農業改良に対する多大な業績を記念して建てられたもので、安房郡農会長吉田謹爾・神戸村農会長岡崎孝右衛門が発起人である。吉左衛門は長年、開墾や植林・潅漑などに従事しながら、博覧会や共進会に参加し、農業技術の開発と普及につとめた。明治26年(1893)2月には緑綬褒章を授与されている。翌年、73歳で没した。

(4)石灯籠(いしどうろう)

 天保6年(1835)11月、布良を中心に近在の人々によって奉納された。正面に常夜灯とあり、夜間の歩行などの安全が目的である。

(5)阿加井(あかい)

 正式には閼伽井と書く。仏前に供える水を汲み取るための井戸で、むかし、弘法大師がその井戸に自分の姿を映して木像を彫ったという伝えがある。相浜の有力者石井嘉右衛門が井戸の整備をしている。

(6)出羽三山碑(でわさんざんひ)

 出羽三山(月山・湯殿山・羽黒山)を参拝した大作場(白浜町)・犬石村・南竜村(館山市)の人たちが、文政11年(1828)に建てた記念碑。日本には古くから山を聖地と考える山岳信仰があり、山形県にある出羽三山は山岳修行の場「七高山」のひとつに数えられている。碑には、この時の参拝者の名が刻まれている。

(7)福原家の墓

 福原家は松岡(現竜岡)の旧家で、幕末に医師有斎や漢学者有琳がでた。有琳の四男として生まれた福原有信は、江戸へ出て医学を学び、医薬分業を提唱して調剤薬局としての資生堂を創設した人である。また朝日生命を創始した実業家でもある。大正13年(1924)没。77歳。

(8)福原陵斎(りょうさい)の墓

 資生堂創始者の福原有信の長兄。天保9年(1838)に松岡村に生まれ、文久元年(1861)に江戸へ出て、織田研斎から医学を学ぶ。翌年、奈良奉行山岡備後守景恭に仕えたが、文久3年に奈良で病死した。26歳。碑銘は安房郡山本村(館山市)の医師高木芳斎によるもの。

(9)四国霊場八十八か所めぐり

 弘法大師の旧跡の地をめぐる四国八十八か所を模した小霊場めぐりは日本各地に点在している。ここ小塚大師では、三十四世の住職田村亮月の発案で、境内の裏山に八十八か所の霊場が移された。明治31年(1898)に近隣の村(布良・竜岡・大神宮など)の住人が中心となって、八十八個の石碑が建てられたのである。各石碑には福井県出身の絵師寺田?石によって弘法大師の姿が描かれ、また各石碑の施主は現在の館山市全域・富山町・白浜町・千倉町南部に、半径10kmの広域にわたって広がっている。ちなみに石工は竜岡の早川粂吉と真田栄治。ただし第33番の石碑は元館山藩士松下翠幹が描き、長須賀の吉田亀吉が刻んでいる。
 手ごろで気軽にお遍路ができるように工夫されたミニチュア巡礼施設である。

(10)雉子塚(きじづか)

 安永4年(1775)に、安房の俳人沂風が建てた松尾芭蕉の句碑。「父母の しきりにこひし 雉子の声」とあり、『笈の小文』などに見える句。裏面に江戸の俳諧師大島蓼太による銘がある。芭蕉の流れをくむ雪中庵三世で、芭蕉顕彰に熱心だった。この二年前は芭蕉の80回忌だったが、芭蕉復古の熱が全国的になっていた時期で、この時代に生きた与謝蕪村は芭蕉を尊崇し、復古運動の中心にいた。

小塚大師周辺の弘法大師の伝説

●小塚大師(神戸地区大神宮)

 弘法大師がこの地に滞在したときに、忌部氏の祖先神が現われて、大師の木像を刻むように告げた。大師はお告げの通り、二体の像を彫って、一体はこの地に祀り、もう一体を布良崎の浜から流したところ、今の神奈川県に流れ付き、川崎大師(平間寺)の本尊になったと伝えられている。この地に祀った像はもちろん小塚大師の本尊である。

●爪彫り地蔵(神戸地区竜岡)

 小塚大師のすぐ近くの竜岡に爪彫り地蔵(または岩屋地蔵)という崖面に彫られたお地蔵さんがある。これは弘法大師が爪で彫ったものだと伝えられている。

●巴川の塩井戸(豊房地区神余)

 老女の家に旅の僧がやってきたので、小豆粥を差し出してもてなしたが、塩気がないのを哀れに思った僧が川に錫杖を差したところ、そこから塩水が湧きだした。その僧が弘法大師だったという話である。

●芋井戸(白浜町青木)

 老女が芋を洗っているところへ旅の僧が現われ、「小芋をひとつ下さい」と言うと、老女は「石のような芋で食べられない」と断った。この老女が家に帰り、芋を食べようとしたら、本当に石のように硬く歯もたたなかったため、路傍に捨ててしまった。するとそこから泉水が湧き出て、芋が芽を吹き青々と茂ったそうだ。この僧も弘法大師だったという話である。


作成:平成12年度実習生
監修:館山市立博物館