福生寺

福生寺(ふくしょうじ)の概要

(館山市古茂口367)

福生寺 本堂

 館山市古茂口字戸賀にあり、山号を飯富山といいます。曹洞宗の寺で延命寺の末寺。本尊は聖観世音菩薩です。寺伝によると、南北朝時代の西国の大大名として知られる大内義弘の子孫という無々遠公和尚が、薩摩国から来て開山になったということです。永正15年(1518)頃のことであろうといわれています。その後、延命寺の萬截是朔(まんせつぜさく)の弟子北州門渚(ほくしゅうもんしょ)が中興開山となりました。開基は里見義豊の妻である福生寺殿一溪妙周大姉とされ、この寺の歴代住職の供養塔に並んで一溪妙周の供養塔と伝えられる五輪塔が建立されています。「天文の内乱(1533~1534)」で夫の里見義豊が討ち死にしたことを知ったこの女性は、17歳で自害してしまったそうです。遺体は南条城跡の北側山麓に葬られ、福生寺の前身とされる一溪寺が建てられたといわれます。そこは寺屋敷と呼ばれ、いまは姫塚が残されているだけです。慶長11年・15年の里見家分限帳では、寺屋敷がある南条の地において高2石の土地を与えられていました。また徳川家からも同様の安堵がありました。

(1)山門

(1)山門

 四脚門の木鼻の獅子や欄間の竹梅に鷹、松竹に鶴の彫り物は、安房地方の彫刻師として有名な後藤義光が、明治28年(1895)81歳のときに制作した作品である。義光は文化12年に南房総市千倉町北朝夷に生まれ、明治35年(1902)旧3月15日(新4月22日)に88歳で没した。墓は同所寺庭の西養寺にある。23歳のときに江戸日本橋の後藤流彫物師後藤恒俊の門人になり、年季を終えると京都・鎌倉で修行を重ねて帰郷し、安房地方で活躍した。竜が得意で、市内の鶴谷八幡宮・鋸南の妙本寺・千倉の日枝神社・出野尾の小網寺などにある作品は力作である。

(2)六地蔵

(2)六地蔵

 本堂前の六地蔵は天明2年(1782)から寛政3年(1791)に亡くなった方の供養がなされたもので、そのなかの1体に「施主大内■」とある。これは寺伝にある大内義弘の子孫という無々遠公和尚と関係のある家で建立したということだろうか。江戸時代に名主を務めた大内家があった。六地蔵は比丘形で流れのある裳裾が珍しく、それぞれ持ち物が異なる。昭和末頃に婦人部有志の浄財で現状に整備されたが、年中行事として8月24日には法会を行い篤い地蔵信仰が守られている。また葬列の先頭を「ロクドウ(六道)」と称して6本のロウソクを立て、先端を守るという意味の風習がある。

(3)大日如来像供養塔

(3)大日如来像供養塔

 安西家の墓地の中には智拳印(ちけんいん)を結んだ大日如来の石像を乗せた供養塔がある。大日如来は普(あまね)く照らすという意味の慈悲の仏とされている。台座の銘文から、村内の安西清左衛門が両親の供養のために、般若心経一万巻を読誦し、西国・坂東・秩父の各三十三観音の功徳を願って建立した供養塔だろうと思われる。父は慶応元年(1865)、母は文久2年(1862)に亡くなっている。

(4)石井弥五右衛門盛次夫妻の墓

(4)石井弥五右衛門盛次夫妻の墓

 江戸時代前期の様式をもつ2基の宝篋印塔は、水戸光圀の大日本史編纂事業に加わり安房先賢偉人のひとりに挙げられる石井三朶花(さんだか)の祖父母の墓である。盛次は元亀2年(1571)生まれとされ、里見義堯のひ孫にあたる里見家の家臣。慶長19年(1614)の里見家没落の際、幕府代官から手代頭に採用され、里見氏転封後の安房国の民政処理にあたった。その尽力によって房州の寺社98か所の領地が没落前とほぼ同様に保障されたという。右側の墓石が盛次で、法名の脇に万治3年(1660)10月3日とある。左側が夫人である。

(5)一溪妙周大姉の五輪塔

(5)一溪妙周大姉の五輪塔

 本堂左側から墓地を登ると、左手の最高所に歴代住職の墓が一列に並んでいる。右端の開山と二世と思われる卵塔に挟まれて、高さ約1.6m、最下部の地輪が54cm角もある、風化が進んでいるが大きな房州石の五輪塔がある。この石塔は福生寺の開基とされる里見義豊の妻の墓と伝えられている。この五輪塔は安房地域でも規模の大きいものである。なお上からふたつ目には宝篋印塔の笠石が加えられている。

(6)南条城跡

(6)南条城跡

 寺から西へ1km離れた館山市南条の字由義(ゆうぎ)にある標高50mの山を城山(じょうやま)という。これが南条城で、鳥山(とりやま)城とも呼ばれる。南麓には八幡神社がある。本丸の南側は急斜面で、北と西・東には曲輪が取り巻いている。東へ続く尾根には大きな堀切が現存し、本丸の西下には「首洗い井戸」と伝えられる城井戸がある。里見一族で、前期里見氏に仕えた鳥山時明・時正・時貞三代の居城だったが、里見義豊が天文の内乱で討ち死にしたとき、時貞も一緒に戦死したという。その後廃城になっていたが、正木大膳亮時堯(義頼の次男弥九郎で二代目時茂として正木大膳家を継いだ人物のこと)が鳥山城を修復して、城主になったと伝えられている。 <なお、鳥山(とりやま)城は従来烏山(うやま)城とされていたが、明治時代に誤記されたことが判明したので、今回鳥山城として紹介した。城主の名前についても同様である。>

(7)姫塚

(7)姫塚

 福生寺の裏山の丘陵から連なって、さらに西方へ延びた丘陵の端に、かつて鳥山氏の南条城があったと伝えられる。その北側の山すそ(館山市南条字東山居)にある溜池の奥に「姫塚」はひっそりとある。この塚は里見義豊の家臣であった南条城主、鳥山左衛門大夫時貞の娘で、里見義豊の妻であった女性の墓だという。夫の義豊が天文3年4月6日に戦死したことを知るとその日に自害、その霊を弔うために乳母が尼僧となり、姫塚のある谷に一溪寺を建てたという。その後寺は福生寺として移転したということらしい。残されている塚は石積みの台座のみだが、福生寺の五輪塔の最下部の大きさとこの台座の寸法を見ると、バランスのとれた組み合わせであり、五輪塔はここから福生寺に移されたのではないだろうか。


<作成:ふるさと講座受講生
井原茂幸・君塚滋堂・鈴木惠弘・御子神康夫・吉野貞子・吉村威紀>
監修 館山市立博物館

山荻神社・福楽寺

山荻神社(やまおぎじんじゃ)と福楽寺(ふくらくじ)の概要

(館山市山荻273,281)

左:福楽寺 本堂 右:山荻神社 社殿

 館山市山荻字中郷にあります。毎年の稔りを守護することから江戸時代までは歳宮(としのみや)明神と呼ばれていました。明治3年(1870)に神主の石井豊継から役所に出された取調帳によると、景行天皇の御代(みよ)(12代天皇で日本武尊(やまとたけるのみこと)の父と伝えられている)、この地に祭場を定め、正倉(しょうそう)を造り、稚産霊神(わくむすびのかみ)・猿田毘古神(さるたひこのかみ)を祀ったのが始まりとされ、和銅年間(708~715)に新たに社殿を造立して、別に大穴牟遅命(おおなむちのみこと)、少毘古名命(すくなひこなのみこと)を加え四座を祀ったと記されています。古代には2町四方の神領を持ち、明応元年(1492)に里見義成が神領8石を与えたと伝えられ、徳川将軍家にも朱印地として引き継がれています。現在の社殿は大正7年に火災で焼失、大正12年関東大震災で倒潰したあと、昭和2年(1927)に再建されたものです。本殿・幣殿・神供所からなる構造で、本殿には棟持柱(むねもちばしら)、板校倉造(いたあぜくらづく)りなどに古代神明造りの特徴が残っています。右隣りにある多聞山福楽寺は根来寺(ねごろじ)(和歌山県)の流れをくむ新義真言宗の寺院で、伝承によると元和4年(1618)に滝の口(白浜)から現在地に移り、堂宇を建て本地仏である弥勒菩薩(みろくぼさつ)を祀ったのが始まりとされています。境内に縁起を記した光明真言宝塔1基があったといわれていますが失われ、その後現在も残る光明真言六億遍供養塔が建てられました。古代この辺りは岸の谷(や)といい、船着場であったと言われています。開拓が進められる中、野獣の害を除く御猟(みかり)神事や邪気をはらう大烽焚(おおびた)き神事、土地を耕し五穀を植えその吉凶を占う筒粥神事が人々の生活や信仰から生まれてきました。受け継がれて来た筒粥神事は今も2月26日の祈念祭・宅神祭の際に行なわれ、平成5年に市の無形民俗文化財に指定されています。9月14、15日の鶴谷八幡宮の国司祭には神輿が出御します。例大祭は10月17日、神嘗(かんなめ)祭は11月26日に行なわれます。

(1)社名碑

 参道入口右手にある。神社名を記した石碑は、明治23年(1890)に氏子達によって建てられたもので、題字は明治13年(1880)に結集され、同15年に代表的な神道の一派として独立した神習教の管長・芳村正秉(まさもち)の筆によるものである。

(2)石燈籠

 入口左手にある1基の石燈籠は、明治9年(1876)、山荻村の安西氏の寄進によるもの。

(3)狛犬

(3)狛犬

 小型の狛犬であるが、万延元年(1860)の銘がある。願主は村の氏子達で、川下(白浜町滝口)の石工山口金蔵重信の手によるものである。

(4)鳥居と石燈籠

(4)鳥居と石燈籠

 階段を登った中段にある鳥居と石燈籠は、ともに文政5年(1822)の建立で、氏子達の寄進によるもの、燈籠の台座には発起人の武内伊勢(鶴谷八幡宮の命婦(みょうぶ)家)、山荻村名主の佐野八右衛門、神主石井常陸亮の名が刻まれている。

(5)石燈籠

(5)石燈籠

 階段を登り切った両側に建つこの石燈籠は、天明7年(1787)、山荻村の栗原清太郎寄進のものである。

(6)手水石

(6)手水石

 四匹の邪鬼(じゃき)の上に水盤が乗った型の手水石で大変珍しい。安政3年(1856)、山荻村の内藤八十右衛門が願主になって氏子達が寄進したもの。邪鬼の背に石工の名が刻まれ、川下(白浜町滝口)の山口金蔵重信、南条村の清左衛門の作とわかる。水盤は地元山荻の和助の作である。

(7)山三講浅間祠

(7)山三講浅間祠

 拝殿左手にある。石祠には正面に富士大神と彫られており、台座には山三講の名が刻まれている。山三講はこの地域の人達が参加していた富士講の講名である。江戸末期から明治期にかけて盛んであった。祠は明治11年(1878)、山荻の黒川安平らを願主に建立されたものである。

(8)石棒石祠

(8)石棒石祠

 本殿裏手にある。男根を形どった石棒が石祠に祀られている。子孫繁栄、五穀豊穣を祈願したものであろう。

(9)大炊所(おおいどころ)と筒粥神事(つつがゆしんじ)

 筒粥神事は古来五穀の吉凶を占う伝統神事として各地で行なわれてきた。山荻神社では今でも行なわれ、空洞のヨシ(植物)を13cm程に切り、作物別に番号を付した19本のヨシ筒を粥と一緒に煮込み、拝殿に運ばれて儀式を行ったあと、ヨシを割いて中に入っている米粒の量でその年の作物の吉凶を占う神事である。その筒粥を釜で煮る建物が大炊所で、社務所の左手にある。市指定無形民俗文化財。

(10)旧神職石井家跡

 参道入口の左手に神主石井家の屋敷があったが今は集会所になっている。石井家は磐鹿六雁命(いわかむつなりのみこと)の子孫で代々神主を務めた家柄。伝承によると景行天皇が東征の折、その磐鹿六雁が蛤の料理を天皇に差し上げたところ大変喜ばれ、朝廷の大膳職(だいぜんしき)に取り立てられたといわれている。和銅年間にその子孫の豊彦という人が山荻神社創建の際、社務を命ぜられて代々の神主になったと伝えられている。屋号を宮元といい、石井家代々の墓は奥手の高台にある。

(11)日清戦役戦没者墓碑

(11)日清戦役戦没者墓碑

 正面に「故近衛歩兵一等卒渡邊丑蔵君墓誌」と刻まれている。明治6年9月に山荻村に生まれ、同26年に近衛歩兵第3連隊に入隊、日清戦争後の明治28年(1895)7月に台湾へ転戦、同月13日、三角湧胡角において21歳で戦死した。その追悼碑である。豊房村長で農事の奨励・発展に尽くした鈴木周太郎の書。

(12)宝塔

(12)宝塔

 正面に「光明真言六億遍供養塔」と刻まれ、左側面には願主6名、裏面には石工、右側面には当寺13世・14世の住持2名の名がある。この古寺にはかつて光明真言の宝塔1基があったが失われ、住持の宥證と信者が再建を決めて、寛政10年(1798)から享和3年(1803)まで6年をかけて光明真言6億回を唱え、志を継いだ住持源惠のとき建立された。この宝塔を彫造した石工は元名村(鋸南町)の周治とある。25歳の時のもので、40歳頃からは武田石翁(せきおう)と号した。武志伊八・後藤義光とともに安房の3名工のひとりに数えられている。『安房先賢偉人伝』でも紹介され、江戸時代後期に活躍した石彫りの達人。安永8年(1779)に本織村(南房総市三芳地区)に生まれた。円熟の技を探究し、黒蝋石による数々の彫刻作品を残し、80歳で没した。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」 井原茂幸・中屋勝義・吉村威紀>
監修 館山市立博物館

猿鹿山瑞龍院

瑞龍院(ずいりゅういん)の概要

(館山市畑409)

瑞龍院 本殿

 館山市畑にあり猿鹿山(えんろくさん)瑞龍院という。曹洞宗。開創は天正(てんしょう)5年(1577)で、開基は房総の太守(たいしゅ)里見義弘。江戸初期の角岩麟藝(かくがんりんげい)和尚が中興開山。それ以前にも三代あったという。本尊は虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)で、義弘の守り本尊が寄付されたと由緒書にある。里見家と徳川家からは6石2斗の地を与えられた。かつては現在地より裏山を更に登った高台(現在畑になっている)に堂宇があったが、元禄16年(1703)の大地震による山津波で崩壊し、現在地に移ったと伝えられている。里見義弘の院号を寺名にしているとおり、(1)義弘の位碑や(2)義弘像の頭部と伝えられる木像が安置されている。また寛政9年(1797年)の(3)本堂再建棟札が残され、東西7間・南北7間半の本堂が再建されている。欄間には(5)波の伊八(初代武志伊八郎)の龍が守っている。本堂の再建・伊八の龍・義弘公の木像、そして今は廊下に保管されている文政8年(1825)の(4)喚鐘(かんしょう)等々は、みな中興8世の慧東(けいとう)和尚による再建事業で残されたものである。

(1)里見義弘夫婦の位碑

 義弘の法名「瑞龍院殿在天高存大居士」に並んで、室は「智光院殿高嶽梵長大姉」とあり、小弓公方(おゆみくぼう)足利義明の娘。延命寺本里見系図では里見義頼の母と伝えられる女性である。鎌倉太平寺の住職を務めた青岳尼であるとされる。

(2)里見義弘木像

 文化12年(1815)10月に当院8世住職慧東(けいとう)により、開基像として新造された。当時のものは頭部のみが残されている。

(3)本堂再建棟札

 本堂は寛政9年(1797)に8世慧東が再建したもの。棟札には、棟梁(とうりょう)大工は平群本織(もとおり)村の伊丹喜内(いたみきない)とあり、延命寺大工と呼ばれ曹洞宗寺院の専属名匠として知られていた。木挽(こびき)棟梁は長尾川を下った白浜村曲田(まがった)の権四郎。関東大震災で倒壊した。

(4)喚鐘(かんしょう)

 法会等で用いられるというこの鐘は、文政8年(1825)に8世慧東が、江戸神田の鋳物師(いもじ)西村和泉守藤原政平に依頼してつくらせたもの。里見義弘が開基した瑞龍院の衰退を憂い、慧東が東奔西走して寺の再建をしたことが記されている。この鐘にこれからの寺の繁栄を託したのだろうか。

(5)伊八の竜

 文化5年(1808)11月、長狭の武志(たけし)伊八郎伸由(のぶよし)(初代伊八 58歳)とその弟子森久八により彫られた。8世慧東(けいとう)の時。

(14)男神山(おがみやま)と女神山(めがみやま)

(6)石井平雄句碑

 「精舎にのほりて秋声をきく 澄(すむ)かきりすむや河鹿(かじか)のゆふ流(ながれ)」

 明治33年(1900)に俳人石井平雄(ひらお)の孫が建てた句碑。平雄は平館(へだて)村(南房総市千倉町)の人で、久保村の井上杉長(さんちょう)の門人。元治2年(1864)没。本名は石井宇門といい医師。俳諧のほか画・彫刻にも長じていた。台石は平館から九重・館野・豊房を回って運んだという。

(7)出羽三山碑

(7)出羽三山碑

 天保13年(1842)8月に建立。出羽三山(山形県)の登山記念碑で、地元の10名と白浜の3名の名前が読める。

(8)大日如来坐像

 上半身が欠けた像だが、立地から考えると出羽三山に関係した石仏だろう。蓮華座が確認出来るので大日如来の可能性がある。三面に十数名の名前が確認できるが十分読み取れない。宝暦年間のものか。

(9)延命地蔵菩薩坐像

(9)延命地蔵菩薩坐像

 向台(むかいだい)地区の女性達10名が願主となり、夫や息子の無事を願って文政11年(1828)11月に建立したもの。

(10)馬頭観音

 岩肌をくりぬき三体の馬頭観音がある。年代が特定できるのは左側のみ。大正8年7月とある。中央右側面に畑地区では珍しい酉井(とりい)市右衛門という名前が読める。

(11)歴代住職の墓

(11)歴代住職の墓

 裏山の向山墓地に無縫塔(むほうとう)が8基並んでいる。享保年代と法名を読める墓碑も1基あるが他は不明。他に、寺から墓地へ行く山道の途中、山肌を削り整備した墓地に中興8世から13世の墓が安置されている。

(12)伝 里見義弘夫妻供養塔

(12)伝 里見義弘夫妻供養塔

 向山墓地の住職墓碑の左端に宝篋印塔が2基あり、里見義弘夫妻の供養塔、分骨墓とも語り継がれ、地元では「髪塚」「さんとうば」と呼ばれている。一方には「道■妙阿禅尼 天文25年(1556)」の銘文があるが、年代が早いことから、別人の供養塔か逆修塔との説もあり、謎のまま安置されている。

報恩碑<平家の落ち武者伝説>

報恩碑<平家の落ち武者伝説>

 瑞龍院から川を挟んで向いの中腹に、畑地区の始まりを語ると言える碑がある(石井家墓地に個人が明治29年に建てたもので、見学する場合は了解を得る必要があります。)

 碑には、今を去る千余年前、新悟・萬吾・平作・野庄の四人の落武者が畑へ逃げ延びてきたことが記され、野庄が石井家の祖であるとしている。他の三人は畑四姓のうち残る山川・加藤・早川。建立した石井金治は安房国造大伴直’くにのみやつこおおとものあたい(大瀧から四十余世続いた子孫であるという。撰文は元長尾藩士で漢学者の恩田城山(じょうざん)、石工は東京美術学校で高村光雲に学んだ館山の俵光石(たわらこうせき)。明治29年(1896)建立。

長尾三神社 合祀記念碑

長尾三神社

 瑞龍院の南西側、畑地区の中心部にかつて畑小学校があったが、昭和47年(1972)、児童数の減少により豊房小学校に統合し廃校となった、その裏山に長尾三神社がある。古書によれば畑にはもともと長尾神社・八幡神社・八雲神社の三社があった。長尾神社は長尾川流域にあった長尾庄の総鎮守と伝えられ、養老2年(718)に班田使が安房へ下向したときに創建されたという。しかし、「時を経て戸数も僅かなこの地では維持が難しくなった。合議すること3年、大正9年に合祀(ごうし)が決まり、信心深い氏子たちによる数千余円の拠出金で大正10年に新社殿が造営されることになった。この地は山高く谷深く、松聳(そび)え老杉鬱蒼(ろうさんうっそう)として、民家が点在し、四方を眺(なが)めれば絶景である。山では禽(とり)が常に囀(さえず)り水が絶え間なく流れ、東南に開ける社殿は雄大で明るく輝いている。合祀のために尽力された氏子総代、有力者、また補佐された方々の徳を称(たた)えこの記念碑を建立するに到る。」と記されている。撰文(せんぶん)は豊房村長鈴木周太郎、裏面には60名近くの寄付者の名前と金額が彫られている。石工は田中安治郎。村内に散在していた三社は長尾神社の位置に合祀された。


<作成:ミュージアム・サポーター 鈴木以久枝・鈴木惠弘・中屋勝義>
監修 館山市立博物館

神余 日吉神社・安楽院跡

日吉(ひよし)神社の概要

(館山市神余932)

旧豊房村の村社。延暦23年(804)、神余(かなまり)に居城を構えていた金丸(かなまる)氏により創建されたという。祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)で、国土建設・酒造・五穀豊穣などの神様として知られる。2月8日が勧請(かんじょう)の日とされ、毎年安房神社から社人が来て神楽を奏し、平郡亀ヶ原村(館山市亀ヶ原)の神余田(かなまりだ)から供米が献じられていたという。明治41年(1908)頃に村内にあった8社が合祀された。境内は広く、石灯籠・手水石・力石などがある。例祭は7月19日・20日で、初日に繰り出す神輿の屋根には三つの「二葉葵」の神紋がつけられ、黒の漆と金箔の飾り物の中から、美しく彩色された彫刻が映える。例祭日に奉納される「かっこ舞」は雨乞を目的としている。笛のお囃子に合わせて親獅子・雌(め)獅子・中獅子のカッコ3人とササラ4人が踊る。平成8年(1996)6月26日に館山市無形民俗文化財に指定された。神余の「かっこ舞」の歴史は古く約200年前からと伝えられている。

(1)社号碑

安山岩の基壇に「表徳」、その上の花崗岩(幅39cm・高さ204.5cm)に「日吉神社鎮座」と表した社号碑は、地元の青木禎二郎と東京本所の根来松治が明治31年(1898)に奉納した。尚、昭和50年(1975)頃にダンプカーが衝突し折損。その後、内容をそのままに今の石柱に取替えた。

(2)石灯篭

安山岩と思われる高さ約196cmの石灯篭は、左右の上部基壇に「奉」と「納」。右側歌舞伎壇の正面に「明治二十五年(1892) 旧辰二月 建立」「願主氏子中」と刻まれ、左側下部基壇の右側面には「石工 加藤松治」の銘が刻まれている。

(3)手水鉢

正面に「奉納と大きく表し、左隅に当時の神余村名主である金丸家第41代「茂臼」の落款が刻まれている。この手水鉢は村内の加左衛門家の利助と氏子中が大願主で、裏面にある寄進者は金丸・和頴(わがい)はじめ総数54名にのぼる。世話人は若者中。奉納は天保9年(1838)正月。石工は滝口村の吉田亀吉。石は同村横須賀の久太郎の船で運ばれた。

(4)二の鳥居

右柱に「紀元二千五百九十一年」、左柱に「昭和六年(1931)八月建立」「願主 和田 喜左衛門」とあり、神余区加藤組字(あざ)和田の喜左衛門が奉納した。

(5)力石

石段を登り切った左脇に力石が2つある。お祭りの際に力自慢をして楽しんだものだろう。左側の力石には「■十六■」、正面には「奉納 願主 利助 ■兵衛」の文字が刻まれている。右側の力石も正面にも「奉納三百七貫目(約150kg) 願主 利助 久五郎」の文字がある。

(6)石灯篭

江戸中期、寛保2年(1742)3月吉日に若者仲間が奉納したもの。現状の灯篭は火袋が外れ、返花(かえりばな)土台と受花台が二段に積み上げられ竿石に笠石が積まれている。豊作を祈願して奉納されたと思われる。

(7)石灯篭

嘉永7年(1854)に願主として与左衛門と源蔵が奉納したもの。世話人は氏子中。火袋が欠損している。祠(ほこら)の跡地と思われる場所に設置されている。かつて境内には末社八坂神社があったという記録がある。

(8)地蔵菩薩坐像

六地蔵の左側に竿の上に座ったお地蔵様がいる。竿の右側面には「文化十一(1814)戌」とあり、日付は欠損している。正面には右から9人の戒名が刻まれており、玉雪童子・秋露童女・妙玉童女・智浄童女・明音童女などと子供の戒名が多く刻まれている。左側面には、「聖霊菩薩 一切聖霊」の文字がみえる。下部に続くが切断されている可能性がある。

安楽院跡(自称院 恵眠坊墓地)の概要

安楽院は嘉吉2年(1442)に金丸茂詮により創建されたとされる新義真言宗の寺だった。開山は文安5年(1448)、頼智法印(金丸景貞の第2実弟で茂詮の叔父)。本尊は薬師如来だった。創建の後は明治の神仏分離令が発布されるまで、日吉神社の別当寺であった。大正12年(1923)の関東大震災で潰れ、昭和3年(1928)に同区の自称院(じしょういん)に合併された。応永24年(1417)、金丸26代景貞が家臣の謀反により切腹滅亡した後、27代茂詮が金丸家を復興し、金丸家一族及び忠臣戦死者のために菩提寺を村内平田(旧居城・神余城の一角)に建て、医王山安楽院と号したのが始まり。墓地には、江戸時代に神余村の名主を勤めた金丸氏子孫の伊佐(いすけ)(金丸)家、医師や学者を出した和頴(わがい)家など旧家累代の墓がある。

(9)聖観音菩薩立像

墓地の入口右手の六地蔵の裏側に、高さ140cm程の聖観音像の供養塔がある。念仏講仲間の造立で、安山岩の石材に肉厚な立像が彫られている。年号が欠損しているが、像の姿から寛文(1660年代)以前の建立と考えられている。銘文中には茶女・熊女・鶴女・猿女等17人の女性の名ばかりが刻まれている。

(10)戦没者碑

墓地の入口左脇に4基の戦没者の碑が建っている。

田中松之助

神余出身の陸軍歩兵一等兵。明治34年(1901)に歩兵第二連隊に入隊。日露戦争で台湾・樺太(からふと)を転戦して凱旋し、明治39年(1906)1月に除隊した。4月に勲章を賜るが、明治45年(1912)に26歳で病没した。鈴木周太郎の撰文を弟・浅次郎が刻んでいる。

田中幸治

神余出身の陸軍歩兵上等兵で田中三良の弟。明治35年(1902)に入隊。明治37年(1904)に日露戦争で遼東(りょうとう)へ出征し、5月清国南山で伝令の任務中に弾丸が胸部を貫き23歳で戦死した。豊房村長の鈴木周太郎が撰文。

田中茂

陸軍伍長。昭和13年(1938)に陸軍に入隊。昭和16年(1941)に日中戦争に参戦した。昭和19年(1944)3月に硫黄島に転戦したが、昭和20年(1945)3月に30歳で戦死。碑は父・田中三良が建立した。

伊介(いかい)政治

陸軍兵長。重要任務を行う赤羽工兵隊に入隊した。満洲へ出兵し、黒河(こくが)所属部隊で敵中に入り本体を有利に導く挻進隊に所属した。昭和20年(1945)3月20日に44歳で戦病死した。

(11)金丸茂堯(神余村最後の名主)の墓

墓地の中程に最後の神余村名主金丸六右衛門茂堯(しげたか)の墓がある。母子には金丸(江戸時代は伊佐と称した)家の歴史が次のように刻まれている。

「我家の祖先は、藤原鎌足のひ孫魚名(うおな)の第三子巨麻金麿(こまのかなまろ)宗光である。宗光は東夷で功をたて、甲斐よりこの土地に来て、金丸を名乗った。江戸時代になって部門から下り、帰農(きのう)して名主を勤め、代々子孫が受継いだ。宗光から43代目にあたる茂堯は天保13年(1842)2月5日生まれ。幼名は土用太郎。のち六右衛門に改名した。安政6年(1859)に18歳で名主を継ぎ、明治の王政維新で長尾藩本多公の租税局に勤めたが、廃藩置県となり全ての職を辞して隠居。明治26年(1893)7月28日に53歳で病没した。今、わが家のあらましをここに刻み、碑を建てる。神世より連綿と続いて、藤原氏の大臣(おとど)として4世、その後武勇の士を30世代にわたって出し、名主10代を務めて、村に徳をなした。いやしき身ながらも家名を再び興す責が子孫にある」と。

明治32年(1899)11月に子息の金丸家44代金丸雄太郎(茂昌)が建立した。


<作成;ミュージアム・サポーター「絵図士」
刑部昭一・川崎 一・鈴木 正・中屋勝義・山杉博子>
2021.12.15 作

監修 館山市立博物館
〒294-0036 館山市館山351-2
℡.0470-23-5212

伝説の山里・神余(かなまり)

神余地区の概要

館山市豊房地区の南部に位置し、東は豊房地区畑、西は神戸地区、南は南房総市白浜町に隣接している。神余の地名は、平安時代の『和名類聚抄』に「加牟乃安万(末)利」と記され、神戸郷を割いて余戸をおいたので「神余」になったと伝えられている(古代日本の律令制では、里(郷)は50戸ごとに編成された)。永享年間(1429~1441)頃まで安房郡を領有していた神余氏は、家臣山下定兼の反乱により滅び、安房郡を山下郡と呼んでいたことがあり、『南総里見八犬伝』の題材にもなっている。
明治22年(1889)、12村が合併して豊房村が誕生し、昭和29年(1896)、豊房村は館山市に編入された。神余区は、上・大倉・加藤・平田・久所・上台・畑中・山下の8組に分かれ、神余地区の中央を北から南に流れる巴川を挟んで、西に山下城跡、東には神余城跡があり、隣接する神余小学校は神余氏の居館跡と伝えられている。

(1)御腹やぐら

(1)御腹やぐら

 畑地区に近い小字地蔵畑の斜面にある(間口3m高さ2m奥行3m)。内部に宝篋印塔がある。神余景貞は家臣山下定兼の謀反に遭い、自性坊の介錯によりこの地で自害したと伝えられる。宝篋印塔の基礎部分に「宗菴」「禅定門」とあるが、景貞の法名は香山受心大居士である。

(2)地蔵畑の地蔵

(2)地蔵畑の地蔵

 御腹やぐらのある北側約100m山道の山林の中に位置する。石地蔵が2基あるので地蔵畑と言われるようになった。坐像と立像で頭部欠損。立像の裏面に「神余村地蔵畑往古ヨリ本尊ハ元禄十六癸未年十一月廿二之夜大地震ニテ岩屋崩木像故別当自性院エ奉遷則」とある。

(3)自性院

(3)自性院

 真言宗の寺院。本尊は不動明王。室町時代、神余の豪族神余景貞が家臣の山下定兼の反逆にあい、地蔵畑の岩屋にて自刃したとされる。ここに自性坊が供養のため自性院を創建したと伝えられ、元禄の大地震で岩屋が倒壊したため現在地に移ったとされる。平安時代中頃の阿弥陀如来座像と阿弥陀如来立像から発見された鎌倉時代の水晶製六角五輪塔形舎利塔は、市指定文化財。

(4)日吉神社

(4)日吉神社

 旧村社で祭神は大山咋命。神余地区の鎮守。7月19・20日の例祭で奉納されるかっこ舞は、平成8年(1996)に館山市無形民俗文化財に指定。手水石は天保9年(1838)、名主金丸氏や和頴氏などが寄進した。石工は白浜滝口の亀吉。寛保2年(1742)の石燈篭や力石がある。江戸時代は安楽院が別当をしていた。

(5)医王山安楽院跡

(5)医王山安楽院跡

 神余茂詮開基の真言宗寺跡。開山は文安5年(1448)、頼智法印(神余景貞の第2実弟)、本尊は薬師如来。大正の震災で潰れ、昭和3年(1928)に自性院に合併された。金丸氏の子孫で名主を勤めた伊佐家や、医師や学者を出した和頴家などの墓がある。

(6)塩井戸

(6)塩井戸

 旅の僧に貧乏のため塩気のない小豆粥を出したところ、僧は川に杖をさして塩を湧き出させたという。その僧が弘法大師だという言い伝えがあり、千葉県有形民俗文化財に指定。井戸の手前には明治時代の弘法大師像が残る。手水石は明治19年(1886)。上流の石積みアーチ式の橋は明治44年(1911)に架設。

(7)智恩寺

(7)智恩寺

 曹洞宗、本尊は地蔵菩薩。開基は里見義康で慶長8年(1603)建立。寺領は10石。開山は斧山良?(ふさんりょうとつ)。慶長18年(1613)、寺領寄進の里見忠義の古文書や、初代武志伊八郎の彫刻(龍や鶴)が残る。天保13年(1841)奉納の手水石には里見氏の家紋がある。石工は館山楠見の田原長左衛門。境内に「大乗妙典一字一石書写」の石塔がある。白浜川下浦の二人の女性が石に経文を一字ずつ書上げ、享保13年(1728)に神余の念仏講中と埋納した。

(8)無量山来迎寺跡

 塩井戸の奇跡を起こした弘法大師をもう一度お迎えしたいと、大同4年(809)、来迎三尊(阿弥陀、観音、勢至)を安置して開山したと伝えられる。塩井戸の管理も行っていたが、大正12年(1923)の震災で倒壊し自性院に合併。本尊阿弥陀如来の頭部からは水晶の舎利塔が発見された。墓地が無く、入口に寺留守居番の墓石があるのみ。隣に回国巡拝塔、馬頭観音がある。寺跡は岩壁に囲まれた修験の山寺の様相が残る。

(9)福聚山松野尾寺跡

 応永26年(1419)、金丸26代景貞3回忌供養で、旧居城の一角に文殊菩薩と阿弥陀如来を祀る念仏堂を建てたとされる。文安5年(1448)、福寿山満福寺と改め、城跡山頂にある薬師如来を守護させた。後に松野尾寺となり、本尊文殊菩薩、観音堂には聖観音を祀り、安房国札観音28番札所となる。大正の震災で倒壊したが庫裏は仮校舎として使用。昭和3年(1928)自性院に合併された。今は墓地と弘法堂跡が残っている。

(10)大井戸

(10)大井戸

 大高尾大井戸。集会所脇には、古来から清泉が湧き出ており、飲料水として近年まで使用されてきた。左手の壁面にある記念碑には、生活様式の変遷に伴い改修が重ねられたが、非常用水の必要性から大正14年(1925)に、地区の共有地として買収し大改修したとある。援助者、世話人、石工、共有者等の11名が記されている。

(11)道標

(11)道標

 集会所入り口に子安地蔵の道標がある。文化2年(1805)8月「右くにふだみち」と記されている。元の場所は定かではないが、集会所に入る道路入り口付近にあったと伝えられる。安房国札第28番が松野尾寺(9)、第29番が市内神戸地区犬石の金蓮院である。

(12)金明様

 大高尾字揚橋に石宮一基がある。伝承によると、源頼朝の家臣が石橋山の合戦で深手を負い、頼朝に仕えることができないと自刃し、頼朝は、伊豆国を望める小山に埋葬して金明社と名付けたという。白浜方面の漁師は金明様に願をかけると海難を免れ、大漁になると信じられたため、かつては参拝者が多く茶店がたつほどであった。

(13)逸郷の滝

 巴川上流の字市郷にある。直径約12mの滝壷を備えた景観は房総のナイアガラと表現されるように見事である。ここにはかって不動明王を祀ったお堂があったが、このお堂が洪水に押し流され相浜に流れ着いたのが感満寺であるという伝承もある。感満寺は、現在の相浜神社の前身。

(14)神余六地蔵

(14)神余六地蔵

 上の台、久所橋近くの地蔵(f)に「神余六地蔵第六番終」とあり、周辺に他の地蔵はないため、辻や街道、牛馬墓地、寺院入口など神余各地に点在する以下の地蔵が「神余六地蔵」と推定される。

(a) 久所堰面地蔵 (画像のもの)

(b) 神余畑入口

(C) 山下墓地入口

(d) 松野尾寺入口

(e) 来迎寺入口(安永9年(1780))

(f) 上の台、久所橋近く(享保元年(1716))


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
佐藤博明・佐藤靖子・鈴木以久枝・鈴木惠弘・中屋勝義>
監修 館山市立博物館

布良崎神社

布良崎(めらさき)神社の概要

(館山市布良379)

布良崎神社 一の鳥居

 布良崎神社は館山市布良(めら)字西本郷にあります。祭神は天富命(あめのとみのみこと)で、安房神社の祭神天太玉命(あめのふとだまのみこと)の孫にあたります。天富命は、神武天皇即位の始めに四国阿波(あわ)の地から、麻(あさ)と穀(かじ)(梶)の栽培に適した東国の肥沃な土地を求めて、天日鷲命(あめのひわしのみこと)の孫を伴って、阿波の忌部(いんべ)一族を率いて布良の地に上陸したとされる人です。安房地方を開拓して麻・穀(かじ)を植えながら、上総の国・下総の国へと開拓を進めていく一方、この地に残った忌部の人々と村人達は、天富命の徳を慕い、祭神として布良の集落に社(やしろ)を建てたのが布良崎神社であると伝えられています。元禄の大地震(1703)のあとも、明治9年(1876)の大火・明治10年の台風等の度重なる被害を受けたことから、村人達は日掛け3厘の積立てを行い、明治13年から8年間の貯金を基金にして境内を整地し、明治41年(1908)に現在の社殿を造営しました。昭和54年には屋根の葺き替えが行われています。明治17年には郷社に列せられた古社で、例祭は7月20日前後です。

(1)旧鳥居柱

(1)旧鳥居柱

 境内入口の左側に、文政9年(1826)2月吉日の年号が彫られた2.7mの白御影石の柱があり、貫(ぬき)穴が上部に残っている。これは現在の一の鳥居が昭和天皇在位60年を記念して立て替えられたときに残された、旧鳥居の一方の柱である。

(2)石灯籠(一の鳥居横)

(2)石灯籠(一の鳥居横)

 石灯籠は本来、仏堂の前で献灯するための石造物で、正面に1基だけ置かれた。やがて神社にも立てられるようになり、桃山時代からは2基1対となった。この鳥居は、大正天皇即位の大礼を記念して、地元の黒川佐吉が大正4年(1915)に奉納した。石材に改修した跡があり左右の火袋の意匠も違っている。

(3)狛犬(こまいぬ)

 石段を挟むように左右一対の狛犬がある。台座には左に「奉」、右に「納」の文字が篆書で彫られている。昭和7年(1932)7月に地元の豊崎藤四郎が奉納したものである。

(4)玉垣と石垣

(4)玉垣と石垣

 大正天皇の即位を記念して大正4年(1915)に築かれた。拝殿に向い左右の親柱に「御即位記念」、右側には「大正四年七月完成、玉垣建設計画者、神田吉右衛門、青木仲右衛門、満井武平、木高三郎、黒川三郎右衛門、小谷治助、小谷安五郎」と記され、左側には、「社司・藤森齋、氏子総代・神田辰太郎、神田真吉、黒川保三、吉田徳平」とある。石垣の玉石は漁師が出漁の際に、伊豆から少しずつ漁船に積んで運んできたのだという。石垣は三州屋が積んだものである。

(5)石灯籠(二の鳥居横)

(5)石灯籠(二の鳥居横)

 元治2年(1865)2月吉祥日に当社の「御宝前」に奉納された。笠の軒裏には隅木(すみき)と垂木(たるき)が細かく彫られ重厚である。2段目基壇の右側には地元の帆屋三兵衛ほか川名や正木川崎などの人14名、左側には江戸日本橋蔵屋敷の米屋久七ほか16名の願主と奉納者の名がある。裏面には石工として神余村の権四郎、滝口村の松五郎・作二の名が刻まれる。日本橋蔵屋敷は日本橋南詰(みなみづめ)にあって、河岸(かし)沿いに土手蔵が並ぶところ。享保年間から江戸の台所として栄え、活鯛屋敷と呼ばれる生簀(いけす)付きの役所が幕府の魚を買い上げていた。その頃から館山湾と魚河岸(うおがし)とは、押送船(おしょくりぶね)で鮮魚を約一昼夜で運ぶ流通ルートを確立していた。

(6)二の鳥居

 白御影石の神明鳥居は、右の柱に「御大礼記念」、左の柱に昭和3年(1928)建立、紀元2588年の年号が刻まれている。

(7)手水石

 拝殿横に支え柱銅板葺きの手水舎(ちょうずや)の下に、奉納と記された手水石がある。天保7年(1836)2月に願主高木氏が奉納したもの。

(8)磐座(いわくら)

(8)磐座(いわくら)

 一の鳥居を過ぎて左手の女坂上り口に独立した岩があり、磐座(いわくら)と言われている。岩の頂上部に直径10数cm・深さ数cmの杯状穴(はいじょうけつ)(くぼみ)が数個あり、古代の祭祀跡と言われている。

(9)手水石(末社前)

 末社参道に置かれ、正面に「奉納」、右面に「明治三十二年(1899)八月吉日」と刻まれている。

(10)やまずみ様(末社)

(10)やまずみ様(末社)

 末社として、大山祇大神(おおやまづみのおおかみ)・安産大神・琴平大神・浅間大神・稲荷大神・御隠居大神・安房大神が祀られている。祭神の詳細は不明だが、節分に扉を開けて地元の人々が豆をまく風習がある。木造のお社が老朽化して昭和54年に建て替え、鳥居も改修した。

(11)満井(みつい)武平頌徳碑(しょうとくひ)

(11)満井(みつい)武平頌徳碑(しょうとくひ)

 満井武平(1953-1911)は明治23年から千葉県議を二期務め、34年には42歳で富崎村長となり、布良漁港の防波突堤建設や布良崎神社の現社殿造営に尽力した。碑には「関東大震災で布良漁港が八尺も隆起し、舟の出入りができなくなったが、房州42か所の漁港・船曳場(ふなひきば)のうち、県営の復旧工事として布良漁港が震災の3周年目に復旧できたのは、採鮑業の利益の積立金2万円を県に寄付したことと、明治33年・34年に武平の努力で防波突堤をすでに築いていたからである。ここに布良漁業の復興を誓い、布良漁村の真髄を確立する決意を示す。漁(すなどり)の途(みち)し絶えなば吾が邨(むら)は 人も絶えなむ邨も絶えなむ」とある。昭和2年(1927)に東京の書家諸井華畦(もろいかけい)が書いている。華畦は、明治から昭和の書道会で一大勢力となった「春洞流」の西川春洞に師事、高弟6人に入る女流書家。同じ書家で夫の諸井春畦(しゅんけい)と共に、中国の古碑法帖(ほうじょう)研究の第一人者である。

(12)石灯籠(女坂上)

(12)石灯籠(女坂上)

 通称女坂の石段の上にある。「常夜燈」として寛政11年(1799)7月7日に奉納された。基壇裏面に願主・小谷源右衛門の名、側面に地元の11名、右基壇裏面に地元9名の奉納者名がある。

(13)駒ケ崎神社

 布良の字(あざ)鯨山、男神山(おがみやま)の麓にある。祭神は厳島(いつくしま)大神と海祇(わだつみ)大神で、由緒は不明だが地元では「じょうご様」と呼ぶ。漁師の信仰は絶大で、三浦半島まで及んでいる。新造漁船の神事では、神社前の海上で建材の一部を海に浮べて左に3回廻り、安全と豊漁の祈願がされる。神社の裏手には海蝕洞が2つあり、庚申塔と不動明王が祀られるが、詳細不明。

(14)男神山(おがみやま)と女神山(めがみやま)

(14)男神山(おがみやま)と女神山(めがみやま)

 灯台がある山が男神山で、国道寄りの山が女神山である。阿由戸(あゆど)の浜に上陸した天富命(あめのとみのみこと)が、男神山に天太玉命(あめのふとだまのみこと)、女神山に妃の天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)を祀ったという。開拓の歩を進めるにあたり、上(かみ)の谷(やつ)と下(しも)の谷(やつ)に社(やしろ)を移し、さらに神の谷(現安房神社の地)に社を造営したと伝えられる。阿由戸の浜には、天富命の足洗い岩・神楽岩(かぐらいわ)などの伝承がある。

忌部(いんべ)とは

 『古語拾遺(こごしゅうい)』によると朝廷で祭祀(さいし)を司(つかさど)った一族で、祖神の天太玉命は天照大神の岩戸開きや天孫降臨の五伴神(いつとものかみ)の一人であり、大和朝廷の王権確立に大きな役割を果たした。忌部氏には宮廷祭祀に必要な祭具や物資を献納する諸族がいるが、天富命は、四国阿波(あわ)から安房へと土地を開拓して麻・穀(かじ)を植えていき、安房忌部の居る所を安房の郡(こおり)、良い麻が育つ所を総(ふさ)の国と名づけた。

☆一の鳥居と二の鳥居の見通し線上に富士山を望むことができ、5月下旬と8月上旬には富士山頂に太陽が沈む雄大なパノラマが楽しめる。


<作成:ふるさと講座受講生 佐藤博秋・佐藤靖子・中屋勝義>
監修 館山市立博物館

相濱神社

相濱神社の概要

(館山市相浜42)

相濱神社は明治10年(1877)まで感満寺という不動明王を本尊とする修験道の寺であった。開基は役行者(えんのぎょうじゃ)と言われ、文武3年(699)のこととされる。明治5年(1872)の修験道廃止をうけ、明治10年(1877)の感満寺廃名不動尊改号の届け出によって寺は消滅した。感満寺の修験藤森家が神官に転じて感満寺は旧称を用いた波除(なみよけ)神社となり、さらに大正5年(1916)に村内の梶取(かじとり)神社を合祀して現在の相濱神社となった。感満寺はもと相浜字(あざ)古屋敷(現在の蓮壽院周辺)にあったとされるが、元禄大地震の大津波により本堂や仁王門など全てが流出したため、翌宝永元年(1704)に、現在の二斗田の地に移転し今日に至っている。祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)と宇豆彦命(うずひこのみこと)である。

(1)玉垣(たまがき)

大正天皇の喪が明けた昭和3年(1928)に、旧皇室典範に基づき昭和天皇の即位の礼や大嘗祭(だいじょうさい)などが京都で行われた。一連の儀式を御大礼(御大典)という。全国各地で奉祝行事が行われ、相濱神社では御大典記念として昭和3年11月に玉垣が建設された。

(2)燈籠(とうろう)

文政13年(1830)に建立された「常夜灯」である。相浜を中心に119名の名前が記されている。江戸芝金杉や深川で魚問屋や干鰯(ほしか)問屋を営んでいた5名の名前もみられ、漁業に関する房州と江戸との関わりを示す資料である。

(3)手水鉢(ちょうずばち)

奥行63cm、幅141cm、高さ58cmの小松石で出来ている。右側面には弘化5年(1848)正月に奉納されたこと、左側面には奉納者として相浜の若者中と与兵衛・兵右衛門など計12名の名がある。石工は楠見の田原長左衛門である。

(4)力石

縦長の扁平形をしており、中央の石は32貫目(約120kg)とあり、地元相浜の天野作右衛門が奉納している。その右にある石は30貫目(約112.5kg)で、「平治」の名があるが地名はない。左端にも文字はわからないが力石がある。ほかに博物館本館の屋外展示場に、50貫目(約187.5kg)で江戸深川の不動丸船頭西宮伝七が奉納した力石が借用で展示されている。いずれも奉納年は不明。

(5)出羽三山(でわさんざん)碑

大日如来を表すアーンクと「湯殿山・羽黒山・月山」の号が表面にあり、裏面に「御裏三宝大荒神」と記してある。相浜村安田三右衛門他4名と布良村の吉田嘉右衛門が、文政3年(1820)に奉納した出羽三山碑。御裏三宝大荒神とは出羽三山の守護神である。

(6)基壇(きだん)

43cm角で高さ24cm。上面に丸みを帯びた窪みがある石に、奉納者4名の名と「寛政九年(1797)巳六月吉日」が刻まれている石と、幅42.5cm、奥行17cm、高さ22.5cmで、世話人・村中・安田三右衛門の名がある石がある。何かの基壇ではないかと思われる。

(7)石垣竣工記念碑

神社と道路の境は椎(しい)の大木が茂る石垣であったが、昭和55年(1980)にコンクリートに作り替えられた。それを記念した「石垣竣工記念」の石板が内側の壁に付けられている。椎の大木が、平成15年(2003)に支障木として伐採された。

(8)出羽三山碑(土手の上)

卵形の石の正面中央に湯殿(ゆどの)山、左に羽黒山(はぐろさん)、右に月山(がっさん)と刻まれた出羽三山碑。高さは約76cm。相浜の伊勢屋忠兵衛・村田源次・長谷川久兵衛と滝口村大作場(おおさば)の岡野宗左衛門が、天保11年(1840)8月に奉納したもの。

(9)庚申塔(こうしんとう)(土手の上)

高さ約70cmの青面金剛(しょうめんこんごう)を模(かたど)った庚申塔。青面金剛の腕は左右3本ずつあり、左手は輪宝(りんぽう)及び弓と、ショケラといわれる女人の髪の毛をつかんでいる。右手は剣と三叉(さんさ)槍及び矢を持つ。上部に太陽と月、足元の左右に雄鶏と雌鶏、最下段に三猿が描かれている。奉納者は不明だが、文政5年(1822)に奉納されている。

(10)社殿

昭和29年(1954)2月20日付の宗教法人規則書類には、奥殿・幣殿7坪半(間口3間、奥行4間)の入母屋(いりもや)造りで、拝殿・幣殿(畳敷き)・本殿(幣殿より3段高い)の構造とある。建物は関東大震災によって倒壊した後、現在の社殿が周辺の神社仏閣から資材を集めて再建されたと言われている。社殿前の平屋根も拝殿で、祭礼ではその前に波除丸がつけられ御霊(みたま)移しが行われる。

(11)波除丸(なみよけまる)宝庫

祭礼は感満寺本尊のお不動様の縁日である3月28日に行われていたが、現在は3月最後の土日に行っている。宝庫には旧波除神社の名をつけたお船「波除丸」が納められている。鯨船を模した小早船の形式で漆の朱塗り。水押(みよし)が長く緋毛氈(ひもうせん)が掛けてある。車輪は木製で6個付いており、方向を変えたり止めたりするときには、てこ棒を使う。船に飾られている玉獅子には「国分産後藤喜三郎橘義信」の銘があり、彫刻は明治34年(1901)の製作である。祭礼では簾(すだれ)の前に裃(かみしも)姿の子供が殿様として乗り、屋根の上では女装や仮装をした男衆が御囃子(おはやし)や御船歌に合わせて踊るが、現在曳船(ひきふね)は行っていない。御船の道具箱は文化15年(1818)のものが残されている。

(12)外宮跡

波除丸宝庫裏の空地にある、幅144cm、高さ47cm、奥行97cmのコンクリート基礎は社殿の跡である。社殿があった頃は漁師がよくお供えをしていたという。漁業に関わりのある神様が祀られていたようだ。社殿は昭和時代末の台風で倒壊してしまい、再建されずに今日に至っている。近くに柏崎浦の熊沢氏が享和2年(1802)に奉納した手水鉢と、社殿前から移設された慶応元年(1865)の狛犬がある。

(13)稲荷神社

本殿左奥に多くのお稲荷様が祀られている。近所の人の話では町内でお祀りできなくなったり、家の跡を継ぐ人がいなくなったお稲荷様を、相濱神社の神主にお願いし、ここに集めてお祀りしているそうである。現在も稲荷講が行われている。

(14)楫取(かじとり)神社

楫取神社の旧境内地で、現在ある社殿は1980年代に再建されたもの。かつての祭神は宇豆彦命(うずひこのみこと)で、忌部(いんべ)一族の天富命(あめのとみのみこと)に従って阿波から安房へ渡って、主に漁業を指導した神である。楫取は航海の舵を取る「かじとり」に由来するという言い伝えがあり、江戸時代の書上帳には「鎮守香取(かんどり)大明神」とある。地元の人は楫取神社を「かじとりじんじゃ」とか「みょうじんさま」と呼んでいる。江戸時代には1月15日に湯立(ゆたて)神事が行われていた。

1 楫取神社旧跡碑

合祀された翌年の大正6年(1917)に建てられた「楫取神社旧蹟」の碑が境内入り口にある。

2 石垣寄付記念碑

東京日本橋の魚河岸32軒・地元の区長・漁業取締の役員・氏子らが、明治32年(1899)に石垣を寄付した記念碑である。石垣の石は合祀に伴い、大正5,6年頃(1916,1917)に漁業組合が相浜の弁天様下に建てた氷蔵に使用された。

3 力石

文久2年(1862)に奉納された40貫目(約150kg)の力石である。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
刑部昭一、鈴木正、殿岡崇浩、中屋勝義、山杉博子
2023.3.20 作

監修:館山市立博物館
〒294-0036 館山市館山351-2 TEL 0470-23-5212

安房神社

安房神社(概要)

(館山市大神宮589)

安房神社 鳥居

 神社の言い伝えでは2660年以上の昔、天富命(あめのとみのみこと)が阿波の忌部(いんべ)一族を率いて安房国を開拓しに来た際、自分の祖先である天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祀るために建てたのが安房神社である、とされている。その由緒が戦前に寺崎武男によって壁画に描かれ、そのうち2枚が参拝控処に掛けられている。

 この祭神は伊勢神宮にも祀られていることから、本殿は伊勢神宮と同じ神明造りである。安房一宮で「安房坐(あわにいます)神社」とも呼ばれ、周辺の人々からは「大神宮」として昔から親しまれてきた。平安時代には朝廷の大膳寮に祀られる御食神(みけつかみ)で、日本にわずか9つしか存在しなかった神郡(しんぐん)と呼ばれる所領を持つ神社となり、明治に入ると官幣大社に列せられ国家の保護を受けるなど、今も昔も安房において非常に神徳の崇い神社である。

(1)社号碑

 元帥東郷平八郎の書になる石碑。安房神社の目印の一つである。昭和8年建立。

(2)水田三喜男顕彰碑

(2)水田三喜男顕彰碑

 水田三喜男先生遺徳顕彰会によって建てられた記念碑。そこには「偽らず・欺かず・媚びず」という、鴨川市出身の元大蔵大臣であった水田三喜男の言葉が誌されている。

(3)旧宝物殿

 現在は利用されていないが、戦前に宝物殿として建てられた建物。いつの時代に立てられたかは定かではないが、昭和の初期建設と伝えられている。

(4)館山海軍砲術学校第三期兵科予備学生戦没者慰霊碑

(4)館山海軍砲術学校第三期兵科予備学生戦没者慰霊碑

 昭和45年10月10日に建てられ、平成12年10月10日に再建された慰霊碑。神戸地区にあった館山海軍砲術学校の第三期兵科予備学生229名の戦没者の名が記されている。境内に植えられているソメイヨシノの桜-229本は、この慰霊碑建設の際に植えられたものである。

(5)海軍落下傘部隊慰霊碑

(5)海軍落下傘部隊慰霊碑

 昭和48年に元海軍落下傘部隊一同によって建てられた慰霊碑。横須賀鎮守府の第一特別陸戦隊43名、第三特別陸戦隊46名の戦没者名が記されている。当時の首相田中角栄が揮毫。

(6)厳島社(いつくしましゃ)

(6)厳島社(いつくしましゃ)

 拝殿の手前にある6畳敷き以上もあるかと思われる巨大な岩石は、社殿のできる前にはこれを岩座(いわくら)として、祭神を天よりあるいは吾谷山の頂より招いて、原始的な祭祀が行われていたと考えられている。現在は弁天様が祀られ、文化11年(1814)の手水石がある。

(7)日露戦役記念碑

(7)日露戦役記念碑

 明治39年10月16日に神戸村の恤兵会(じゅっぺいかい)によって建てられた記念碑。元帥大山巌の揮毫。神戸村出身の内地勤務3名・海外出兵88名の戦役従軍者の名が記されている。ちなみに恤兵とは物品または金銭を寄贈して戦地の兵を慰めることである。

(8)琴平社(ことひらしゃ)

 航海の安全を守る神様で、元は安房神社とは別のところに祀られていたものを氏子が先頭となってここへ移動した。琴平社の祭事は9月27日に行われる。

(9)上の宮(かみのみや)

(9)上の宮(かみのみや)

 安房神社の主祭神を祀る本殿、礼拝のための拝殿、お供え物を調理する神饌所(しんせんじょ)の三施設からなる。主祭神は天太玉命(あめのふとだまのみこと)と天比理刀咩命(あめのひりとめのみこと)の夫婦神である。本殿の造りは伊勢神宮と同様の「神明造」で、釘が一本も使われていない。例大祭は8月10日である。

(10)御仮屋(おかりや)

 8月10日の例大祭の時に、洲宮神社を始め安房神社周辺の9社(白浜・滝口・神余・佐野・中里・犬石・布良・相浜・洲宮)が神輿を集め奉安しておく場所であったが、諸種の事情により昭和20年代前半に9社そろっての入祭は行われなくなった。現在は9月10日に御仮屋祭が行われている。江戸時代には9月28日の浜出神事の際に神戸郷の神輿が入祭していた

(11)御神水

(11)御神水

 上の宮後方の吾谷山(あづちやま)から湧き出ている御神水。今は止められているが昔は周辺の田畑を潤す重要な水源でもあったようである。

(12)下の宮(しものみや)

(12)下の宮(しものみや)

 上の宮同様安房神社の中核をなす社殿。上の宮と違い本殿と拝殿のみで、祭神は房総開拓の神天富命(あめのとみのみこと)と安房国造大伴氏系の天忍日命(あめのおしひのみこと)である。下の宮祭は5月10日である。

(13)官幣大社記念碑

(13)官幣大社記念碑

 明治4年5月官幣大社に列せられたことを記念して周辺の氏子たちによって建てられたと思われる。震災時に倒れてしまったが10年ほど前に修復した。

(14)安房神社洞窟遺跡

(14)安房神社洞窟遺跡

 昭和7年の井戸工事の際に見つかった洞窟で、標高22m前後。館山周辺に多く見られる海の侵食によってできた海食洞穴のひとつ。緊急発掘調査により貝輪193個と抜歯習俗の人骨15体などが発見されて注目された。現在は県の指定史跡になっている。調査後洞窟は埋め戻され、人骨の一部は翌8年に忌部塚として埋葬、供養された。

(15)忌部塚(いんべづか)

(15)忌部塚(いんべづか)

 安房神社洞窟から発見された人骨が、忌部一族の御霊・人骨として祀られている塚。発見当時は、人骨の生存年代は弥生時代に遡るものとされたが、出土土器と一致しない。7月10日には報恩崇祖の誠を捧げる忌部塚祭が行われている。

安房神社主要祭礼一覧

1月1日歳旦祭
14日置炭神事
15日粥占神事
2月節分日節分祭
5月10日下の宮祭
6月10日厳島社祭
30日大祓式(夏越の祓)
7月10日忌部塚祭
8月10日例大祭
9月10日御仮屋祭
14.15日国司祭
11月23日新嘗祭
12月31日大祓式 除夜祭

作成:平成16年度実習生
監修:館山市立博物館

金蓮院

金蓮院(こんれんいん)の概要 

(館山市犬石379)

館山市犬石にあり、真言宗智山派金剛山慈眼寺(じげんじ)金蓮院という。本尊は大日如来、平安時代に造立された木造地蔵菩薩像が安置される。開創は不明で、江戸初期に頼忠(らいちゅう)が中興している。安房国札観音霊場の第29番で、安房国88か所弘法霊場(天正10年(1582)制定)の第5番。文政11年(1828)に本堂が17世賢瑜(けんゆ)によって再建された棟札がある。本堂の欄間にある龍の彫刻は、作風から武志伊八郎初代信由(1751~1824)の作と見られるが、本堂再建と年代は合わない。二代目信常との合作か。また長尾藩の兵学者で、後に白浜に残り漢学の教育者として、明治の時代を過ごした恩田城山(じょうざん)(1838~1919)の「忍耐」の書額が掲げられているほか、元文元年(1736)の願主智円(白浜根本)・施主順礼講中(白浜塩浦)が奉納した88か所の篇額(へんがく)もある。当寺の山門は、犬石の語源とかかわる本堂裏の「飛錫塚(ひしゃく)」と旧観音堂を正面にして建てられているため、本堂より少し右側を向いている。観音御詠歌は「ずんと入り 見上げて見れば飛錫塚(ひしゃくづか) 極楽浄土は 犬石の堂」

「犬石伝説」

古文書によると、文治元年(1185)、頼智(らいち)という高僧が行基(ぎょうき)作の観音菩薩像を携えて、伊豆から海を渡り平砂浦(へいさうら)へ着いた。東の方が明けて来た時、1匹の白犬が現れ頼智の法衣を引いて東の方へ導くと、金剛山のふもとまで来て犬は動かなくなった。頭をなでると犬ではなく石だったという。犬石の地名の始まりと伝えられている伝説である。犬石には白石・犬尾という地名もある。

(1)山門

(1)山門

密教系の寺院は元来山地に築かれたので、伽藍(がらん)が直線状に配置される特徴がある。観音ご詠歌に、「ずんと入り見上げて見れば飛錫塚」とあるように、飛錫塚に向かって一直線にのびる参道に山門がある。形式は四脚門(しきゃくもん)で「慈眼密寺」の掲額(けいがく)がある。

(2)青面金剛(しょうめんこんごう)庚申塔(こうしんとう)

(2)青面金剛(しょうめんこんごう)庚申塔(こうしんとう)

庚申(かのえさる)の日に昼夜眠らず謹慎して過す道教の信仰をもとにする庚申信仰の本尊。この石像は長須賀の石工鈴木伊三郎の作。基壇正面の三猿は御幣(ごへい)を担ぎ扇子(せんす)を持った万歳師(まんざいし)を先頭に、米俵と鶏をのせた荷車を二猿が引く。一方は扇子を掲げ鼓舞している。夜明けを早めて、庚申(こうしん)明(あ)けを待ち望む庶民の願いが表わされている。犬石村の庚申講中で天保3年(1832)に寄進したもの。

(3)延命地蔵

(3)延命地蔵

新しく生まれた子を短命・夭折(ようせつ)の難から護るという地蔵で、天明6年(1786)建立の半跏坐像(はんかざぞう)である。

(4)十一面観音像<三体>

(4)十一面観音像<三体>

十一面観音は、救済者としての菩薩の能力を十一の顔<菩薩(ぼさつ)面3、瞋怒(しんぬ)面3、狗牙上出(げじょうしゅつ)面3を前部に、大笑(たいしょう)面1を後部に、仏面1を頂上に>として頭上に配されている。3体のうち左立像の台座に「犬石 蒲生講中 世話人中」と彫られている。

(5)島田楽山碑

(5)島田楽山碑

享和1年(1801)生~明治13年(1830)没。犬石村名主。新井文山などに学んだ後、17歳で江戸へ遊学した。安政年間に米艦が平砂浦に碇泊(ていはく)したときには通訳を依頼されている。隠居後は近隣子弟に学問を教えたが、黄疸(おうだん)病で没した。80歳。碑は恩田城山の撰文。23世田中良範の発起により犬石中里区民59名が建立した。

(6)伊藤利右衛門墓碑

(6)伊藤利右衛門墓碑

文政9年(1826)生~明治22年(1889)没、64歳。犬石村の人。幼少より四書五経を学び、明治6年に犬石村などの平砂浦の村々が相浜(あいのはま)村を相手に平砂浦の浜境界について紛争したとき、犬石村代表として裁判に参加した。墓碑は明治26年に建立された。

(7)手水石(ちょうずいし)

(7)手水石(ちょうずいし)

犬石村の仁兵衛が、寛政11年(1799)に寄進したもの。

(8)宝篋印塔(ほうきょういんとう)

(8)宝篋印塔(ほうきょういんとう)

宝篋印陀羅尼(ほうきょういんだらに)経を納めた塔。塔身に金剛界四仏(しぶつ)の梵字(ぼんじ)が刻まれている。笠の反り具合から江戸時代後期と思われる。鉢巻石には大正12年(1923)に修繕したことが刻まれている。

(9)大賀(おおが)蓮

(9)大賀(おおが)蓮

昭和26年(1951)千葉県検見川で発掘された約2000年昔の蓮の実から、大賀一郎博士の努力により発芽に成功、大賀蓮と命名され世界的に有名になった古代蓮。今では世界各地に根分けされている。

(10)観音堂

(10)観音堂

十一面観世音菩薩が祀られる安房国札観音霊場29番札所。丑年と午年に開帳される。犬に導かれて来た頼智が草庵を建て観音菩薩像を安置したことに始まる。明治39年(1906)の焼失まで本堂の裏にあったが、明治42年、今の場所に竹原薬師堂の古材(こざい)を使って再建された。

(11)桶屋(おけや)神田惣蔵の碑

(11)桶屋(おけや)神田惣蔵の碑

桶工の神田惣蔵は、犬石蒲生(かも)の人でタガ作りの名人と言われ沢山の弟子を育てた。その恩を受けた山荻、布良、真倉、犬石、大神宮、白浜の弟子たちが、17回忌の明治30年(1897)に功績を称えてこの碑を建立した。明治15年(1882)没、64歳。墓は、犬石蒲生のいちょう堂にある。神田家は今も「たがや」と呼ばれている。

(12)歴代住職の墓

(12)歴代住職の墓

中興1世で慶安4年(1651)に没した頼忠の供養塔<元文5年(1740)建立>ほか、元禄から慶応まで約150年間の住職などの墓20基がある。平成8年に現状に整備した。17世賢瑜(けんゆ)は小網寺にのぼり同寺34世として両寺に墓がある。住職が小網寺へのぼる出世寺と言われた。

(13)石書妙経塔(せきしょみょうきょうとう)

(13)石書妙経塔(せきしょみょうきょうとう)

経塚(きょうづか)と呼ばれている一字一石供養塔である。願主の蓮明顕實(れんみょうけんじつ)は、犬石村名主家出身で島田勝蔵という。享保12年(1727)、郷里を出て諸国の霊山を巡り先祖の菩提を供養し、約5年半後に出家して帰郷すると、朝夕のお勤めの合間に海水で清めた小石1石に一字づつ経文を書き、享保19年に6万9千5百5石を埋めてこの経塔を建立した。延享5年(1748)、出羽国村山郡の満願寺で亡くなっている。

(14)飛錫塚(ひしゃくづか)

(14)飛錫塚(ひしゃくづか)

頼智を金剛山の岩山に導いた犬が石になった話と別に、犬が頼智から離れないので錫杖(しゃくじょう)を振ったところ犬が消えたので「飛錫塚」と言うようになったという話もある。この下に観音堂が建てられていた。

(15)枕字石(ちんじいし)<=夜光石(やこうせき)>

(15)枕字石(ちんじいし)<=夜光石(やこうせき)>

元文3年(1738)、犬石の農夫が平砂浦で3尺(90cm)ほどの石を拾い、家に持ち帰り牛をつなぎとめた。その夜牛が騒ぎ出したので中をうかがったところ石が輝き、石面には字があったので、長老、僧徒が「夜光石(やこうせき)」と名付け飛錫塚に安置したという。現在は半分ほどに欠けているが、いつのころからか「枕字石(ちんじいし)」と呼ばれている。

(16)犬石権現跡(犬石青年館)

(16)犬石権現跡(犬石青年館)

頼智を岩山のふもとまで導いてきた犬が石になったところに、観音堂と別に祠(ほこら)を建てて犬石権現として祀るようになり、その地域を犬石と呼ぶようになったというが、別にもうひとつ地名伝説がある。昔、西岬の鉈切(なたきり)洞穴に修験僧が犬を連れて入ったところ僧は戻ってこなかったが、犬は青年館にある岩の裏の穴(危険なので埋めてある)から赤膚(はだ)になって出てきてすぐに石になってしまったという。これも犬石の地名伝説である。青年館敷地の岩の露頭(ろとう)にあった犬石権現は、今は蒲生にある犬石神社に合祀されている。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」 
石井道子・加藤七午三・君塚滋堂・佐藤博明
佐藤靖子・鈴木惠弘・中屋勝義>
監修 館山市立博物館  〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

小塚大師

小塚大師とは(概要)

(館山市大神宮2161)

嵯峨天皇の弘仁6年(815)に、弘法大師が創建したと伝えられている真言宗の寺院で、曼陀羅山金胎寺遍智院というのが正式名です。神戸地区大神宮の字小塚にあって、弘法大師を本尊にしていることから、俗に小塚大師の名で親しまれているわけです。関東厄除三大師のひとつとして、毎月21日のお大師様の縁日には参詣者があり、特に旧暦の正月にあたる1月21日の初大祭には、たいへんな賑わいをみせます。またこの小塚大師をはじめ、周辺には弘法大師にまつわる伝説も多く残されています。

(1)宝篋印塔(ほうきょういんとう)

 宝篋印陀羅尼経という経文を納めた塔で、中国ではじまった。日本では平安時代末から供養塔・墓塔として建てられ、その後江戸時代になるとお寺の境内にも作られるようになった。ここの境内にある塔は、三十一世住職伝海を発起人に、地元の高木吉右衛門と近隣の村々の光明講が中心となって、文化14年(1817)に建てられた。石工は北条村新宿の加藤伊助・金助・伊兵衛である。

(2)手洗石(ちょうずいし)

(2)手洗石(ちょうずいし)

 参拝者が手や口を清めるために水を湛えておくもの。文政10年(1827)に神余村の住吉屋徳兵衛を中心に、安房国内の51か村130人以上が協力して奉納した。石工は長須賀村の鈴木伊三郎で、正面に浮彫りされた二匹の獅子が見事である。

(3)佐野翁紀徳碑(さのおう、きとくひ)

(3)佐野翁紀徳碑(さのおう、きとくひ)

 この石碑は明治34年11月、神戸村の人佐野吉左衛門の農業改良に対する多大な業績を記念して建てられたもので、安房郡農会長吉田謹爾・神戸村農会長岡崎孝右衛門が発起人である。吉左衛門は長年、開墾や植林・潅漑などに従事しながら、博覧会や共進会に参加し、農業技術の開発と普及につとめた。明治26年(1893)2月には緑綬褒章を授与されている。翌年、73歳で没した。

(4)石灯籠(いしどうろう)

(4)石灯籠(いしどうろう)

 天保6年(1835)11月、布良を中心に近在の人々によって奉納された。正面に常夜灯とあり、夜間の歩行などの安全が目的である。

(5)阿加井(あかい)

(5)阿加井(あかい)

 正式には閼伽井と書く。仏前に供える水を汲み取るための井戸で、むかし、弘法大師がその井戸に自分の姿を映して木像を彫ったという伝えがある。相浜の有力者石井嘉右衛門が井戸の整備をしている。

(6)出羽三山碑(でわさんざんひ)

(6)出羽三山碑(でわさんざんひ)

 出羽三山(月山・湯殿山・羽黒山)を参拝した大作場(白浜町)・犬石村・南竜村(館山市)の人たちが、文政11年(1828)に建てた記念碑。日本には古くから山を聖地と考える山岳信仰があり、山形県にある出羽三山は山岳修行の場「七高山」のひとつに数えられている。碑には、この時の参拝者の名が刻まれている。

(7)福原家の墓

(7)福原家の墓

 福原家は松岡(現竜岡)の旧家で、幕末に医師有斎や漢学者有琳がでた。有琳の四男として生まれた福原有信は、江戸へ出て医学を学び、医薬分業を提唱して調剤薬局としての資生堂を創設した人である。また朝日生命を創始した実業家でもある。大正13年(1924)没。77歳。

(8)福原陵斎(りょうさい)の墓

(8)福原陵斎(りょうさい)の墓

 資生堂創始者の福原有信の長兄。天保9年(1838)に松岡村に生まれ、文久元年(1861)に江戸へ出て、織田研斎から医学を学ぶ。翌年、奈良奉行山岡備後守景恭に仕えたが、文久3年に奈良で病死した。26歳。碑銘は安房郡山本村(館山市)の医師高木芳斎によるもの。

(9)四国霊場八十八か所めぐり

(9)四国霊場八十八か所めぐり

 弘法大師の旧跡の地をめぐる四国八十八か所を模した小霊場めぐりは日本各地に点在している。ここ小塚大師では、三十四世の住職田村亮月の発案で、境内の裏山に八十八か所の霊場が移された。明治31年(1898)に近隣の村(布良・竜岡・大神宮など)の住人が中心となって、八十八個の石碑が建てられたのである。各石碑には福井県出身の絵師寺田筠石によって弘法大師の姿が描かれ、また各石碑の施主は現在の館山市全域・富山町・白浜町・千倉町南部に、半径10kmの広域にわたって広がっている。ちなみに石工は竜岡の早川粂吉と真田栄治。ただし第33番の石碑は元館山藩士松下翠幹が描き、長須賀の吉田亀吉が刻んでいる。
 手ごろで気軽にお遍路ができるように工夫されたミニチュア巡礼施設である。

(10)雉子塚(きじづか)

(10)雉子塚(きじづか)

 安永4年(1775)に、安房の俳人沂風が建てた松尾芭蕉の句碑。「父母の しきりにこひし 雉子の声」とあり、『笈の小文』などに見える句。裏面に江戸の俳諧師大島蓼太による銘がある。芭蕉の流れをくむ雪中庵三世で、芭蕉顕彰に熱心だった。この二年前は芭蕉の80回忌だったが、芭蕉復古の熱が全国的になっていた時期で、この時代に生きた与謝蕪村は芭蕉を尊崇し、復古運動の中心にいた。

小塚大師周辺の弘法大師の伝説

小塚大師(神戸地区大神宮)

 弘法大師がこの地に滞在したときに、忌部氏の祖先神が現われて、大師の木像を刻むように告げた。大師はお告げの通り、二体の像を彫って、一体はこの地に祀り、もう一体を布良崎の浜から流したところ、今の神奈川県に流れ付き、川崎大師(平間寺)の本尊になったと伝えられている。この地に祀った像はもちろん小塚大師の本尊である。

爪彫り地蔵(神戸地区竜岡)

 小塚大師のすぐ近くの竜岡に爪彫り地蔵(または岩屋地蔵)という崖面に彫られたお地蔵さんがある。これは弘法大師が爪で彫ったものだと伝えられている。

巴川の塩井戸(豊房地区神余)

 老女の家に旅の僧がやってきたので、小豆粥を差し出してもてなしたが、塩気がないのを哀れに思った僧が川に錫杖を差したところ、そこから塩水が湧きだした。その僧が弘法大師だったという話である。

芋井戸(白浜町青木)

 老女が芋を洗っているところへ旅の僧が現われ、「小芋をひとつ下さい」と言うと、老女は「石のような芋で食べられない」と断った。この老女が家に帰り、芋を食べようとしたら、本当に石のように硬く歯もたたなかったため、路傍に捨ててしまった。するとそこから泉水が湧き出て、芋が芽を吹き青々と茂ったそうだ。この僧も弘法大師だったという話である。


作成:平成12年度実習生
監修:館山市立博物館