金台寺

金台寺(こんたいじ)の概要

 館山市北条の南町にある浄土宗寺院で、正式には海養山龍勢院金台寺といいます。文明8年(1476)の創立と伝え、永正2年(1505)に鎌倉光明寺の学頭(がくとう)昌誉順道上人(享禄2年=1529年没)を迎えて開基としました。京都知恩院の末で本尊は阿弥陀三尊。館山城主里見義康のおじにあたる4世豪誉上人のとき、義康から寺領60石とともに、仏餉米(ぶっしょうまい)(仏に供える米飯)50俵が毎年与えられたそうです。徳川将軍家からも60石の朱印地を与えられ、門前の南町一帯は金台寺の所領でした。また6世檀誉上人の姉は徳川家康の内室であったことから特別の保護を受けたとされています。この当時の境内は二町四方で、堂宇の建坪は190余坪。7世正誉上人のときには浄土宗の房州一国の触頭(ふれがしら)として、安房国内の浄土宗寺院の行政的な管理をおこなうほどに隆盛し、塔頭(たっちゅう)2宇(専明院・要修院)、末寺7か寺のほか配下に5か寺を擁しました。触頭の地位は宝永年間に大網の大巌院に替わり、それからまもなく2宇の塔頭は廃されました。

(1)山門

平成13年に26世明誉覚道上人が建立した。山門から正面に本堂が見え、建物の調和がとれている。

(2)水準点

 土地の高さを測る基準となる点で、山門を入って右奥に設置されている。ここは標高7.6832m。

(3)第六天様

 地元の講で信仰しており、「第六尊天王」の額が掲げられている。第六天はインドのバラモン教のシヴァ神で、仏教の守護神。天界のうち欲界の最高位他化自在天(たけじざいてん)を支配する第六天魔王のこと。日本では修験者が信奉し、福神として民衆の間に広まった。地元では現在も10月20日頃に講が開かれている。寺ができる前からの地主神だといわれている。

(4)日露戦役忠魂碑

 2基のうち、右側は陸軍歩兵伍長石原金太郎の碑。明治37年2月に日露戦役に出征して各地を転戦、翌年3月の奉天(ほうてん)会戦で戦死した。享年28歳。題字は北条にいた伯爵万里小路(までのこうじ)通房、撰文と書は安房中学校教諭斎藤夏之助(東湾)である。左側は陸軍歩兵上等兵辰野清次郎の碑。明治37年3月に出征し、同年10月の旅順(りょじゅん)総攻撃の際に松樹山で戦死した。碑は兄清兵衛によって記されている。ともに北条の人。

(5)わらべ不動尊

 この堂には聖(しょう)観世音菩薩像とわらべ不動尊が祀られている。聖観音は徳川家康の内室良雲院殿天誉寿清大禅尼から贈られた秘仏で、慈覚大師の作と伝えられている。良雲院殿は武田信玄の娘で6世檀誉上人の姉とされている。わらべ不動は浄土宗の宗祖法然上人の誕生850年を記念して安置されたもので、法然の幼名勢至丸(せいしまる)の姿を不動明王になぞらえて鉈彫りの像として祀った。青少年・幼児の健全育成を祈願したもので、わらべ不動と称する。鴨川出身の木彫家長谷川昴(こう)の作である。

(6)名号(みょうごう)塔

 正面に「南無阿弥陀仏」の名号を刻む。天明3年(1783)、宮地氏が3人の近親と先祖代々の精霊を供養するために奉納したもの。施主の宮地氏は那古に進出した近江商人で、その一族が南町に支店を出していた。故郷へ帰るに当ってこの塔を建立したらしい。山門が建立されるまでは参道入口にあった。

(7)本堂

 25世深誉上人が檀信徒の協力を得て昭和46年に完成した。正面の須弥檀に本尊の阿弥陀如来と観音・勢至両脇侍(わきじ)の阿弥陀三尊を安置し、善導大師(中国浄土教の開祖)と円光大師(浄土宗の開祖法然)の像を祀る。その上には後藤義房作の天女の彫刻がある。向拝左側に掛かる額には円光大師二十五霊場の御詠歌が、「第六番北条金台寺 あみだぶと 西にこころは うつせみの もぬけはてたる 声ぞすずしき」と詠われている。

(8)本田存(ありや)先生の墓

 群馬県館林の生まれで、水府流太田派の水泳を極め、柔道は講道館八段。東京高等師範学校の生徒を率いて来房し、のち明治36年(1903)から30余年間北条に住んで学生の指導にあたって、安房中をカッパ中学と称されるまでに育てた、房州の水泳・柔道の開祖である。昭和24年(1949)没、享年79歳。北条海岸の東京高等師範学校寮(現筑波大学北条寮)で没し、安房水泳倶楽部・安房柔道有段者会・茗渓会(東京高師OB会)によって分骨埋葬された。本堂裏の井戸近くにある。

(9)千日念仏供養塔

 大津波による溺死者を寛文2年(1662)に供養したのではないかといわれているが確認はされていない。塔身の四面に南無阿弥陀仏の名号と経文が書かれて大勢の人の供養がなされ、「時に寛文2年正月25日 千日導師正誉上人」とあり、四面に749名の法名が刻まれている。

(10)義賊赤忠の墓

 「俗名赤忠(あかちゅう)墓」とある。赤忠は村々の金持ちばかりを襲って金銭・衣類・米を盗み、日々の生活が苦しい人々に盗んだ金品を恵んだことから「義賊」と評判になった。役人の探索にもかかわらずなかなか捕らえられなかったが、正木(那古地区)のワラ小屋に潜んでいるところを発見逮捕され、明治の初めに打ち首となった。岩糸村(旧丸山町)出身で本名は忠蔵、酒を好みいつも赤い顔をしていたという。

(11)水子地蔵

 台誉上人のとき、享保10年(1725)に順礼講中によって寄進された。

(12)如意輪観音坐像

 7世正誉上人のとき、寛文2年(1662)に観音講中によって寄進された。

(13)舟形光背の地蔵菩薩

 7世正誉上人のとき、明暦元年(1655)に北条村の念仏講中によって寄進された。

(14)庚申塔

丸石の正面に大きく「庚申講」とあり、文政9年(1826)に建立された庚申塔であることがわかる。

(15)万里小路通房の子の墓

 万里小路(までのこうじ)通房は明治天皇の侍従を務めた伯爵で、明治23年(1890)の退官後北条に移住して、昭和7年に没するまでの40年間に農業の近代化(野菜の促成栽培)と社会教化活動(安房大道会)に取り組んだ館山の先覚者。金台寺近くに屋敷があったことから、その間に没した子供たちの墓が建てられた。墓には通守(明治29年没)・津由子(明治35年没)・多美子(明治41年没)の名がある。

(16)行貝弥五兵衛父子の墓

 行貝(なめがい)弥五兵衛国定と子息弥七郎恒興の墓。正徳元年(1711)に安房北条藩領27か村の総百姓が、過酷な課税に抗して立ち上がった万石騒動のとき、義憤を抑えがたく百姓方を援助したため、三義民処刑と同じ11月26日に北条村北原で処刑された地代官親子である。弥七郎は弾七郎恒興や弥七正と紹介する文献もある。


作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」 石井道子・岡田喜代太郎・加藤七午三・御子神康夫
監修 館山市立博物館 

鶴谷八幡宮

文化財ガイド 鶴谷八幡宮

安房国の総社で、もと三芳村府中にあったものが、鎌倉時代に現在地に移転したといいます。康応2年(1390)には安西八幡宮の名で資料に現れています。現在も9月のお祭りでは府中でお水取りを行います。その祭礼を「八幡のまち」といって郡内最大のお祭りで10社の神輿が集まります。
江戸時代から市がたち、今も農具市として続いています。

二の鳥居エリア

(1)小野鵞堂記念碑

 小野鵞堂(がどう)は文久2年(1862)静岡県藤枝に生まれ、7歳から12歳までを安房で過ごした。独自の書風「鵞堂流」を完成させた。書道研究会「斯華(このはな)会」を組織し、門人の育成と通信教育により書の普及に努めた。
 明治・大正時代を代表する書家である。

(2)征清記念之碑

 明治27年(1894)、日清戦争に安房郡から千人あまりが出征したことが刻まれている。

(3)日露戦争記念碑

 安房郡内から日露戦争に出征した兵士をたたえて建設された。

(4)忠霊塔

 日清・日露・太平洋戦争における館山市民戦没者慰霊碑。戦没者は各地区合わせて2876名にのぼる。
 昭和38年建立。正面の刻字は靖国神社宮司・筑波藤麿筆。

(5)神社震災復旧工事竣成記念碑

 大正12年(1923)の関東大震災で安房郡は大きな被害を受けた。昭和7年9月、神社の復旧作業はようやく完成する。

(6)水田三喜男銅像

 明治38年(1905)に安房郡曽呂村(現鴨川市)に生まれた。第二次大戦後、大蔵大臣として高度経済成長政策を推進した。城西大学・城西歯科大学を創設し、教育界にも大きな足跡を残した。

(7)安房先賢偉人顕彰之碑

 昭和10年(1935)ごろ、安房神社の宮司を中心に安房の先人で、模範になる人物を16名選んで顕彰したもの。
 その16人とは、
 伴直家主、菱川師宣、石井三朶花、奥澤軒中、山口杉庵、武田石翁、新井文山、加藤霞石、堀江顕斉、恩田仰岳、野呂道庵、鳥山確斉、鱸松塘、鈴木抱山、曾根静男、畠山勇子である。

(8)灯篭

 天明7年(1787)、神門(鳥居)と共に寄進された。
 鳥居は建て替えられて、今はない。
 地元の氏子の他、江戸に住む人々も寄進している。

社殿エリア

(9)神余備(かんなび)

 昭和8年(1933)から50年余りにわたり、八幡神社社掌を勤めた酒井泰二宮司の永年の功績を称えた石碑。
 太平洋戦争後の県神社界維持運営のために尽くした。

(10)鶴谷神殿重修記念歌碑

 文久3年(1863)、神社拝殿の再建が行われた際、その祝いの席で八幡村名主根岸定宣が詠んだ記念の和歌を刻んだ碑。

(11)八幡神社創立一千年式年大祭記念碑

 昭和51年、神社創立一千年を記念しての大祭の碑。
 本殿修復後、若宮八幡社復旧の工事の記載がある。

(12)報国者碑

 明治10年(1877)西南戦争での戦死者を悼む碑。
 表面には総数24名の、安房郡・平(へい)郡出身の兵士の名が連ねられている。明治11年4月に有志が建設。

(13)日露戦争の碑

 日露戦争での北条町の戦死者・戦病死者を悼んで建設したもの。戦死者115名、戦病死者10名の犠牲がでている。

(14)天水桶

 石製の土台と鋳物の桶本体とは年代が異なり、土台は推定で明治初期、本体は昭和47年3月謹製とある。

(15)狛犬

 文政3年(1820)寄進。長須賀の石工・鈴木伊三郎が製作。伊三郎の作品は、小塚大師にも残されている。

(16)手水(ちょうず)石

 文化14年(1817)、安房国南条村(現館山市)に住んでいた人々により寄進される。

(17)加藤霞石(かせき)の記念碑

 平群の医師で漢詩人でもあった霞石の経歴を載せている。明治3年(1870)に川田甕江(へいこう)が撰文している。

(18)安房神社遥拝殿

 安房神社の神輿がここに入る。

(19)御仮屋(おかりや)

 「八幡のまち」のとき、右から子安、高皇産霊(たかみむすび)、木幡、莫越山、山荻、山宮、手力雄、下立松原、洲宮の各社から神輿がここに集まる。

(20)鶴谷八幡宮社殿

 拝殿の向拝(ごはい)天井にはめ込まれた彫刻を「百態の竜」と呼び、安房を代表する木彫師後藤義光の作品。
 周囲にある木鼻の獅子や象もこの時の義光による作品。
 この神社には、刀「銘 守家」、棟札(むなふだ)などの文化財がある。
 本殿も館山市指定文化財で、江戸時代中期の建築。

(21)光明真言念誦(ねんじゅ)碑

 八幡の人々が光明真言(真言密教で唱えられる呪文の一つ)を一億回唱えた記念碑。

(22)廻国塔

 寛政5年(1793)に日本全国を廻国巡礼した人の記念碑。

(23)千灯院

 箱崎山と号し、真言宗智山派。府中・宝珠院末。本尊は薬師如来。鶴谷八幡宮の社僧が住した寺。

(24)若宮八幡社

 仁徳天皇を祀ってある神社。


作成:平成11年度実習生
/監修 館山市立博物館

諏訪神社

正木諏訪神社の概要

 館山市正木の諏訪山の頂上にあります。延喜(えんぎ)元年(901)の創建で祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)。大国主命(おおくにぬしのみこと)の第2子と言われ、下宮(しものみや)には大国主命が祀られています。創建当時、諏訪山の麓の集落は白浜郷と呼ばれ、村人は半農半漁の生活を営んでいましたが、しばしば大荒波に襲われその被害に苦しんでいたそうです。延喜元年正月8日の夜に、ある村人の夢に信濃国の諏訪大社の神様が現れ、村人たちが一心に祈ったところたちまち大荒波は静まったので、以来、村人たちは霊験あらたかな諏訪の神様をこの郷にお祀りして、産土神(うぶすながみ=氏神様)として千百年余り崇拝してきました。里見氏・徳川氏からも社領3石を安堵され、明治6年には郷社に列せられるなど、この地区(岡・本郷・川崎・西郷(にしごう))では最も由緒深いお社です。9月27日の例大祭に川崎の八雲神社の御輿が渡御するほか、3人の雅楽師による雅楽が奉納されます。江戸時代にはかっこ舞も奉納されており、三匹獅子の頭(かしら)や文政9年(1826)の銘がある太鼓の胴が残されています。

(1)社名碑

 参道から大鳥居に向かう右側に「郷社諏訪神社」の社名碑がある。関東大震災の復興に約10年間を要し、実施された事業内容が「貯水池工事・下宮新築工事・参道下水コンクリート工事 延長75間・階段コンクリート工事195段・制札場工事・大鳥居新築工事・裏参道改築工事延長105間、昭和7年7月27日竣工」とある。

(2)参道用地寄付記念碑

 大鳥居の右側に、参道及び大鳥居付近の拡張のために土地を寄付した6名の氏名と寄付坪数が記された昭和7年(1932)7月27日建立のコンクリート製の碑(50cm×41cm)がある。

(3)二の鳥居

 御影石で大正12年(1923)9月に建立とある。台座には前面に「奉納」、後面に「那古町正木・平野○○・石井○○・鈴木○○」とかすかに判読できる。関東大震災の年月に建立されていること、倒壊等による損傷痕が見当たらないこと等から、倒壊しなかった強運の鳥居か、建立準備中だったものだろうが、定かではない。

(4)大塚山古墳の石宮

 東屋近くの椎の根本にある石宮は、正木岡地区の大塚山古墳(ひょうたん塚)の頂上にあったもので、昭和30年の中ごろに参道横に移転し現在地に安置された。祭神等の詳細は不明である。

(5)伊勢参宮資本金奉納記念碑

 「奉納永代資本金30円 当区岡伊勢参宮一行」の記念碑がある。裏には同行者30名の氏名と、「明治40年(1907)4月、熊澤直見書(長尾藩藩士(12)項参照)」と記されている。伊勢参宮は、熊野参宮と同じように全国的に人気の高いお参りで、江戸後期頃から講を作っての伊勢参宮が盛んになったといわれている。

(6)金精様(こんせいさま)

 灯篭に「講中」と記され、その奥に金精様と呼ばれる石宮がある。金精様の信仰は、子孫繁栄を願い、性器をかたどった石や木を祀る民族神信仰といわれている。現在、当宮に石棒(せきぼう)は残っていない。また、ここが浅間様と呼ばれていたという証言もある。

(7)富士講祠(ふじこうし)

 明治18年(1885)4月、正木村内の富士講社(山三講と思われる)の人達が建立したもので、社長(先達(せんだつ))・世話人・村内講中の23名の名前が刻まれている。石祠を通してその向こうに富士山が望見できる向きで建てられているが、現在は自然林に阻まれている。

(8)芭蕉句碑

「此(この)神も いく世か経なむ まつの花 芭蕉翁 文酬(ぶんしゅう)敬書」とある。裏面には、文久3年(1863)3月に建立とあり、地元の宗匠雨葎庵(うりつあん)三世・高梨文酬が率いる正木村の丘連(おかれん)中の俳人、諏訪神社の神主関風羅(ふうら)を含む18名の俳号が記されている。

(9)手水石(ちょうずいし)

 神社に参拝する前にお清めの手洗いをするために作られたもので、多くは手水屋(ちょうずや)という建物に覆われている。寛政11年(1799)に奉納された手水石で、前面には「奉納」、裏面には11名の世話人の名前が右より、「篠瀬藤蔵・平野左五兵衛・遠藤安兵衛・鈴木忠蔵・戸倉忠七・黒川喜平次・羽山常七・羽山長八・佐野半七・戸黒又四郎・嵯峨屋武兵衛」と刻まれている。

(10)石灯篭

 文化7年(1810)、正木村の下組・鈴木甚左衛門、向組・篠瀬丈助、上組・庄司長兵衛の各名主が、一対で奉納したもの。左基礎裏面には、「江戸芝切通 富山町 石工与七」の名がある。当時すでに伊豆石などの石材は江戸に集められ、全国に発送できるシステムができていた。石工も江戸に開業して各地からの注文が江戸に集中していたが、やがて各地に石工が誕生していった。

(11)狛犬(こまいぬ)

 二匹一対で阿形(あぎょう)、吽形(うんぎょう)の形で廟の守護神として置かれる。阿形の前面には「奉納」、左面に「明和9年(1772)壬辰2月吉祥日」とある。吽形の前面には「宝前(神前の意)」の文字が、後面には谷田(ヤタ)の「平助・長兵ヘ」の名が刻まれている。

(12)震災復興記念碑

 大正12年9月1日の関東大震災の災害から、氏子一同が諏訪神社復興に尽力したことを記念して、昭和2年(1927)に建立された。記念碑の篆額(てんがく)・撰文(せんぶん)・書ともに、旧長尾藩出身の書家・熊澤直見(なおみ)である。長尾藩の前身である田中藩のころ、祖父は幕府の最高学府である昌平校で学んだ人物。父猶竜(ゆうりゅう)は武芸の師範であり、明治時代に大成した書家小野鵞堂(がどう)に多くの影響を与えた書家でもある。その子が直見で新しい近代社会で活躍した。

(13)諏訪神社自然林 市指定天然記念物 (平成14年指定)

 標高74mの諏訪山山頂にある社殿を取りまく諏訪神社自然林は、鎮守の森として保護されてきた。この自然林のスダジイは、幹回り約3m30cm・樹高約20mのものをはじめ、板根(ばんこん)が大きく張り出したものや、幹周り3m・樹高25mに届きそうな巨木が多い。このほかオガタマノキやヒメユズリハなど樹種が多く、鳥類・昆虫類も豊富で、房総半島を北限とする暖地性植物が多いことが特徴である。

(14)狐塚(きつねづか)の石

 昔、諏訪神社と那古寺がケンカしたときに、諏訪神社が那古寺に向けて投げつけたが途中で落ちた石だという伝説が語り継がれている。もとは山寄りに位置していたが、圃場(ほじょう)整備のため現在地に移転安置された。近くの那古小学校西側にある白岩弁天の前には、那古寺が投げた石もあったという。狐塚とは農業神である田の神の祭場として信仰される場所につけられた呼び名だとされている。

裏参道周辺

 社名碑にある裏参道は「女坂」と呼ばれ、二の鳥居から車道中間の法面(のりめん)の高い所までその一部が残っている。周辺には、「かんじん様」と呼ばれる江戸時代までの神主さんの墓所や、屋敷跡が残っている。現在、「女坂」は車道整備の際に分断されたため通行できない。車道が出来るまでは、神輿は表参道の階段を上り、帰りは裏参道を下りていた。


<作成:ふるさと講座受講生 佐藤博秋・佐藤靖子・中屋勝義>
監修 館山市立博物館 

那古山

文化財ガイド 補陀洛山那古寺

養老元年(717)に僧行基が建てたとされる。江戸時代に元禄大地震で倒壊したが安房全域におよぶ万人講勧進によって再建された。坂東三十三番巡礼札所の結願寺として知られ、本尊の千手観音像、阿弥陀如来像、多宝塔など多くの文化財がある。寺の裏山は自然林が保存され、山頂からは市街や対岸がよく見わたせる。

 (※補陀洛:観音信仰の中心地で、眺望がよく、海に臨み、花咲き鳥囀る極楽の境地)

本坊エリア

(1)大蘇鉄

 嘉永7年(1854)に、茨城出身の江戸の力士、一力長五郎が石垣を奉納している。本坊に向かって左側の方に、長五郎の名前が彫られた石がみえる

(2)日露戦争記念碑 明治39年(1906)

 那古から日露戦争に従軍した人の名前を記した碑。表の題字は、陸軍大将の大山巖の書。

(3)三尾重定先生墓 明治43年(1910)

 三尾重定は尾張出身の漢学者で、『房陽奇聞』を著した人。その弟子たちによって建てられた墓。晩年は鏡ケ浦の景色を好み、那古山の式部堂によく立ち寄ったという。

多宝塔エリア

(4)巡拝記念碑 昭和46年(1971)

 那古寺は、観音札所坂東三十三カ所の結願寺。この碑は、東京や横浜、青森などの人が奉納したもの。

(5)庄司雅二郎君之稗 昭和5年(1930)

 豊田村の村長を務めた。安房政友同士会を創設し、明治末から鉄道敷設に力を尽くした。

(6)阿弥陀堂

 県指定文化財の木造阿弥陀如来坐像が安置されている。この阿弥陀像は、鎌倉時代の作とされる。

(7)多宝塔

 県指定文化財。江戸時代の宝暦11年(1761)に、那古の伊勢屋甚右衛門が願主となり、地元の大工たちが再建した。

(8)力石

 昔の人が力比べのために持ち上げた石。一番重いのは、左にある那古の森田治兵衛と江戸湯島の内田金蔵・佐助が奉納した75貫(約281kg)のもの。

(9)石灯籠

 元禄7年(1694)に、那古の人が両親の供養のため建てた。

(10)石灯籠

 江戸時代の延享2年(1745)に奉納されたもの。

(11)百万遍念仏塔 天保7年(1836)

 百万遍とは、大勢で念仏を唱えながら大きな数珠を回す風習のこと。この塔は、唱えた念仏の数があわせて百億回に達したという記念に、正木村や那古村の仲間が建てたもの。

観音堂エリア

(12)手洗石 天保15年(1844)

 上総国勝浦の人が願主となって奉納したもの。

(13)針塚 昭和41年(1966)

 使い古した針を納める針供養のための塚。全和裁団体連合会・安房郡市和裁教授会ほか、約百もの団体や個人によって奉納されている。

(14)納札塚 大正4年(1915)

 観音霊場を巡礼する東京納札会によって奉納されたもの。

(15)観音堂 宝暦8年(1758)再建

 那古寺の本堂にあたる県指定文化財の建物で、銅造千手観音立像(重要文化財)がある。入口に掲げられた「円通閣」の額は、江戸時代末の幕府老中松平定信の書によるものである。

(16)白衣観音 寛政6年(1794)

 本堂の修理が終わったことを記念して建てられた。修理に関わった地元の世話人や大工の名前が記されている。

(17)地蔵菩薩 宝暦4年(1754)

 地元の念仏講中が奉納したもの。像のみが宝暦の作で、その他は寛政3年(1791)に再建された。

(18)芭蕉の句碑 文政6年(1823)

 「このあたり 目に見ゆるもの みなすずし」という松尾芭蕉の句が記されている。

(19)岡本純考墓

 明治8年(1875)に17歳で病死した元多田良村名主家の人の墓。

(20)岩船地蔵

 漁業の安全祈願のために、那古の人たちが奉納したもの。約50個の岩船がある。

(21)八大龍王碑 安政3年(1856)

 仙台石の碑で、石巻の高橋屋作右衛門らが那古の船仲間とともに廻船の海上安全を願って奉納したもの。

(22)日枝神社

 安永4年(1775)奉納の石燈籠などがある。

(23)手洗石

 寛政5年(1793)に奉納されたもの。

(24)石段袖石

 石段の右側は明治22年(1889)に作られ、左は大正6年(1917)に改築されたときのもの。神社をとり囲んでいる玉垣は大正11年に作られた。

(25)廻国巡礼塔

 全国を廻る修行者六十六部が建てた供養等。

(26)芭蕉の句碑 明治22年(1889)

 松尾芭蕉の二百回忌を追悼して、館山周辺の俳句仲間が建てた。記されているのは「春もやや 気色ととのふ 月と梅」という芭蕉の句。

(27)和田翁記念碑 明治25年(1892)

 農業の振興につくした地元の和田信造をたたえた碑。

(32)閼伽井(あかい)

 仏様へ供える水を汲む井戸のこと。元禄地震で倒壊した那古寺が再建されていた宝暦11年の石組みが使われている。となりは弁天様。

式部エリア

(28)紫式部供養塚

 紫式部の墓があるという伝説が残る。ここは古屋敷とよばれるところで、元禄16年(1703)の大地震まで、那古寺の本堂があったところだといわれる。

(29)富士講祠 文化14年(1817)

 富士講とは、富士の神様を信仰する仲間のことで、江戸時代の末に江戸を中心に大流行した。これは地元の山三(ヤマサン)講が祀ったもの。

(30)和泉式部供養塚 明治32年(1899)

 平安時代の女流歌人、和泉式部の墓といわれる。こうした伝説の地は全国各地にあるが、明治32年頃にここで病気が治ったとのうわさが広まり、大勢の参詣者が来るようになった。塚は、中世の宝篋印塔の基礎を積み上げてつくったもの。

(31)小式部供養塚 明治32年(1899)

 和泉式部の娘、小式部の供養塚。(30)の和泉式部供養塚と同時に建てられた。

(33)和泉式部塚道しるべ

 潮音台の和泉式部塚への参拝が増えていた明治34年のもの。船形から登る道にも道しるべがあった。


制作:平成9年度博物館実習生
監修 館山市立博物館

崖観音

文化財ガイド 崖の観音 概要

「崖の観音」で有名な大福寺は船形山の中腹にあります。断崖の途中に張り付いて見える赤い舞台造りの観音堂に、「崖の観音様」はいらっしゃいます。

 お寺の由緒では、「崖の観音様」は養老元年(717)に行基がこの地へ来たとき、崖に刻んだと伝えています。その姿からは平安時代中頃に造られたと考えられているようです。船底を臥せた形をしている船形山の観音様は、漁師などが海上安全の守護仏として信仰しています。また安房三十四か所観音霊場のひとつとしても知られています。

 隣には船形の鎮守諏訪神社が鎮座していて、江戸時代までは大福寺が諏訪神社の別当を務めていました。

大福寺エリア

(1)大福寺本堂 昭和2年(1927)

 関東大震災で倒壊して、4年後に再建したもの。正面には獅子と龍の向拝彫刻がある。昭和3年、国分(館山市国分)の彫工後藤義房の作品。

(2)南無大師遍照金剛塔 明治17年(1884)

 陽宜の書。弘法大師の1050年遠忌に、船形の醍醐新三郎が先祖供養のために建てた碑。

(3)弘法大師供養塔 文政5年(1822)

 台座に10名の法名が刻まれていて、海難事故の被災者と考えられる。その供養を祈念している塔で、高野山の木食観正に書いてもらった正面の「遍照金剛」とは弘法大師のこと。

(4)川名宗寿墓表 明治40年(1907)

 船形町川名の素封家で、俳人だった川名惣十郎(俳号:梅窓・宗寿)の碑。明治36年没。69歳。撰文は安房中教師の斉藤東湾で、俳句の弟子たちが建てたもの。

(5)日露戦争記念碑 明治39年(1906)

 船形地区から日露戦争に出兵した人の名前を記した碑。出征者87名、戦病死者5名の名前が刻まれている。

(6)延命地蔵尊 寛延3年(1750)

 弘法大師を信仰する船形の大師講の人達(女性が中心)によって作られた丸彫りの像。

(7)津波被災者供養塔 元禄16年(1703)

 津波による被災者の供養塔。言い伝えによると、元禄16年11月23日の大地震のとき、船形浦の海上で船を仮泊していて、津波の犠牲になった乗組員7人の供養塔。7人のうち4人 は西宮(兵庫県)出身者である。それぞれの出身地が刻まれている。

(8)廻国供養塔 安永5年(1776)

 日本全国を修行して廻る行者だった船形の顕阿蓮入が、日本廻国を達成して建てた供養塔。

崖の観音堂エリア

(9)石段親柱 明治28年(1895)

 船形の小林小平治が中心になり、神社の氏子中によって神社の階段が整備されたときの親柱。もとは神社にあったと思われる。

(10)石段記念碑

 東京魚河岸有志・船形町魚商組合によって石段が寄進されたときの碑。この地域は漁業に関わりが深いので、海上安全と豊漁を祈願し感謝するためであろう。

(11)石燈籠 明治34年(1901)

 船形の魚商座古六が発起人となり、東京魚河岸の魚問屋によって寄進されたもの。

(12)手水石 文政元年(1818)

 手水石とは神仏を拝むとき、手や口を清める水の入っている石である。船形中宿の6人の女性たちが中心となって寄進したもの。

(13)観音堂 大正14年(1925)

 崖から張り出すような堂ができたのは、江戸時代の元禄地震後の復興のときで、大正地震のあとも同じように再建された。観音堂内には、明治39年に船形の人々が寄進した賽銭箱、昭和33年に船形潮俳句会から改築記念に贈られた14作品 の俳句、享保15年(1730)に長狭の佐生勘兵衛によって寄進された御詠歌(船形へ参りてみれば崖作り磯打つ波は千代の数々)の額などがある。観音堂の縁先に立つと、鏡のように波静かな館山湾を一望におさめ、伊豆大島・天城の山々がそ びえる海は、実に風光明媚な眺めである。

諏訪神社エリア

(14)古峯神社 明治14年(1881)

 船形の古峯講の人達によって、火伏せの神(火の用心の神様)として祀られた。石宮は地元船形の石工大和地新兵衛が製作。

(15)諏訪神社

 この神社は、船形地区の総鎮守で、船形住民の氏神としてあがめられている。各町内の住民は、自分の町内の神社のほかに、ここにもお参りに来る。言いかえれば、船形住民のシンボルであり、地区民の連帯意識を支える重要な役割を果たしている。船形地区で神主さんがいるのはここだけで、各町内の祭典は諏訪神社の神主が儀式を司る。社殿は関東大震災後の昭和2年の再建で、向拝の彫刻も後藤義房による大正15年の作。神号額はその師匠の後藤義信の作。

(16)手水石 元治元年(1864)

石段の下に置かれていたが、関東大震災後の昭和3年10月10日、ここに移された。

(17)狛犬 安政2年(1855)

 板屋助三郎・柴田平七が本願主となり寄進された。安房の名工と謳われた元名村(鋸南町元名)石工の武田石翁の作とする棟札が保存されている。傑作と伝わる。

(18)石灯籠 文政10年(1827)

 江戸と内房の魚問屋が奉納した石灯籠で、獅子などの彫刻もある。元名村(鋸南町元名)の金蔵という石工の作品。


平成14年度博物館実習生制作
監修 館山市立博物館