長福寺

普門山長福寺の概要

(館山市館山928-1)

 普門山光明院長福寺といい真言宗の寺院です。伝忠(でんちゅう)法師が寛正(かんしょう)元年(1460)に中興開山したとされ、ご本尊は不動明王。「館山観音」として親しまれ、安房国札観音2番、西口薬師2番、西口六地蔵、南房総七福神(福禄寿)の札所です。館山小学校開校の地で、明治5年(1872)の学政令発布の翌年に、寺小屋だった当寺に開校しました。墓地内に館山藩御典医の宮川元斉の墓、本堂内には関東大震災で倒壊した上町中町の諏訪神社を飾っていた獅子鼻(ししばな)と龍の彫刻(3代武志(たけし)伊八郎作)があります。新井霊園には、江戸大相撲力士で新井出身の錦岩(にしきいわ)浪五郎の墓(慶応3年=1867年没)と、尾張出身の粗宗(そしゅう)が文政6年(1823)に建てた三界萬霊塔(さんがいばんれいとう)があります。

(1)歴代住職の墓

表参道に寛永元年(1624)から寛政12年(1800)没26世住職までの12基と、観音堂横に文政11年(1828)没の27世以降8基の墓がある。

(2)筆小塚(ふでこづか)

(2)筆小塚(ふでこづか)

歴代住職の墓には筆小塚が2基ある。筆子(ふでこ)と言われる寺小屋の教え子たちによって建立された師匠の墓。26世運仙(うんせん)(寛政12年=1800年没)と27世宥弘(ゆうこう)(文政11年=1828年没)の墓で、館山の教え子たちが建立した。運仙は後に清澄寺15世として出世した。

(3)仙台藩御用船乗組員の墓

(3)仙台藩御用船乗組員の墓

仙台藩の重要な港である石巻・宮古・寒風沢(さぶさわ)出身で、御用中に死亡した御用船乗組員3名の墓。仙台藩は江戸初期から房州経由の千石船で年貢米を江戸へ輸送しており、館山には管理の役所があった。

(4)庚申塔(こうしんとう)

(4)庚申塔(こうしんとう)

延宝7年(1679)建立。文字と三猿、日月が彫られている。庚申(かのえさる)の夜に眠ると、体の中に潜む三尸(さんし)の虫が天帝に罪状を告げて命が縮まると言われ、講中で宴を開き夜が明けるのを待つ信仰があった。

(5)寄子萬霊塔(よりこばんれいとう)

(5)寄子萬霊塔(よりこばんれいとう)

戊辰戦争の時に、館山藩からやむなく出兵した家臣と、館山の人宿(にんしゅく)相模屋によって集められ、箱根・山崎の戦いで戦死した人々の慰霊碑。宿陣を請け負った相模屋妻吉が上須賀の北下台(ぼっけだい)観音堂境内に建立したもので、観音堂と共に移された。台座正面には「一番組人宿 相模屋妻吉」とあり、塔身の周囲には35名の戒名と練兵士5名、請負人番組(ばんぐみ)人宿補助11名の名が刻まれている。裏には「鐘の音の 落ち葉にさみしき 夕べかな」という萬秋舎豊山(ばんしゅうしゃぶざん)の句がある。

(6)宝篋印塔(ほうきょういんとう)

正面に「宝篋塔」と大きく刻まれ、右側面から時計回りに宝筐院陀羅尼(だらに)経が刻まれている。享保17年(1732)の阿闍梨(あじゃり)■祐一周忌の供養塔で、当寺21世法印宥智(ゆうち)がお経を記し、僧俗万民で建立した。

(7)大檀那(おおだんな)嶋田家の墓

(7)大檀那(おおだんな)嶋田家の墓

嶋田家は新井浦の世襲名主で、当寺の大檀那である。寛永7年(1615)から元文3年(1738)までの、江戸時代前半の先祖代々の五輪塔・宝篋印塔などの墓塔12基がある。嶋田家には慶長7年(1602)に里見氏、元和元年(1615)に徳川氏が関わった古文書がある。たびたびの震災等で倒壊した際に修復されたが、誤換・混成が生じている。

(8)戦没者墓碑

8-1 海軍特務少尉 張替安造君の墓碑

8-1 海軍特務少尉 張替安造君の墓碑

昭和4年(1929)横須賀海兵団に入団。日中戦争に従軍し、昭和15年(1930)6月重慶の空中戦闘で戦死した。享年30歳。館山の人。撰文と書は豊房村に日新学舎を創立した鈴木貞良である。

8-2 海軍二等機関兵曹 嶋田留男君の墓碑

昭和14年(1939)横須賀海兵団に入団。太平洋戦争に従軍し、昭和18年(1943)4月太平洋上の戦闘で戦死した。享年26歳。那古の人。

8-3 陸軍上等兵 里見吉之助君の墓碑

8-3 陸軍上等兵 里見吉之助君の墓碑

太平洋戦争に従軍し、昭和17年(1942)9月中国浙江省杭州で戦死した。享年22歳。館山の人。

8-4 地区郡歩兵上等兵 今井辰夫君の墓碑

昭和13年(1938)に召集され軽機関銃射手として日中戦争に従軍し、昭和14年(1939)3月白襷(しろだすき)決死隊の一員として中国南昌(江西省の省都)攻略戦で戦死した。享年23歳。北条の人。

8-5 陸軍准将 金子勤一郎君の墓碑

昭和10年(1935)に佐倉歩兵連隊へ入団。日中戦争に従軍し、昭和14年(1939)から北支(中国北東部)を転戦中、昭和16年(1941)10月に戦死。享年28歳。館山の人。撰文と書は船形在住の陸軍大将多田駿(はやお)。

8-6 海軍特務少尉 小幡晋治君の墓碑

太平洋戦争に従軍し、昭和17年(1942)8月に南太平洋のソロモン諸島ツラギ島で戦死した。享年36歳。館山の人。

8-7 陸軍歩兵上等兵 鈴木茂君の墓碑

8-7 陸軍歩兵上等兵 鈴木茂君の墓碑

昭和13年(1938)に佐倉歩兵連隊へ入団。日中戦争に従軍し、南昌攻略に参戦。昭和14年(1939)に同地で戦死した。享年27歳。優秀な館山郵便局員だったという。撰文は部隊長の秋葉正、書は豊房村の教育者鈴木貞良である。

8-8 陸軍歩兵上等兵 吉田馬之助君の墓碑(新井霊園)

明治27年(1894)の日清戦争に従軍。日露戦争にも従軍し、明治37年(1904)10月の第2回旅順総攻撃で戦死した。享年34歳。館山の人。正面の書は北条在住の伯爵萬里小路(までのこうじ)通房、背面の撰文と書は『安房志』を書いた安房中学校教員斎藤東湾である。

(9)六地蔵

(9)六地蔵

嶺岡山系の蛇紋岩(じゃもんがん)製。戦国時代のものだが、笠と敷茄子(しきなす)は江戸時代のもの。六角柱で、舟型の光背(こうはい)に収まり、5体はほぼ同じ高さだが、南面の1体だけが少し背が低く、合掌している。

(10)手水(ちょうず)石

(10)手水(ちょうず)石

安山岩製のどっしりした手水石で、正面に「観音堂」、背面に「茂原氏」と刻まれている。北下台(ぼっけだい)から観音堂と一緒に移された。茂原氏は館山藩初期に茂原道右衛門という家臣がいたことが記録にあり、この一族と思われる。

(11)如意輪観音像

(11)如意輪観音像

総高約120cm。舟型光背の文字から、念仏講の人々の菩提のために清覚禅定尼が本願人となり、寛文12年(1672)に造立したとわかる。大檀那嶋田家の壽慶(じゅけい)が結衆(けっしゅ)として加わっている。

(12)阿閣亮吟(あかくりょうぎん)居士の墓

「預修(よしゅ)」とあるので、生前供養を目的に享保18年(1733)に建立された。法名に「吟」が入り、その両脇に辞世の歌「たまのおは たえてもよしや みほとけに ■■を■■りの いしとなりけれ」と添えられ、和歌を嗜(たしな)む人であったとみえる。

(13)観音堂

(13)観音堂

国札観音31番札所で、本尊は千手観音菩薩。「観音へ 詣りて沖を眺むれば 岸うつ波に 舟ぞ浮かぶる」の御詠歌があり、元は海の見える北下台(ぼっけだい)にあって、館山城の鬼門だった。関東大震災での倒壊により本尊は長福寺に移された。館山観音は房州の「北向き観音」として親しまれている。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・鈴木以久枝・羽山文子・山杉博子 2017.11.12作
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

三福寺

三福寺の概要

(館山市館山1195)

觀立山九品院三福寺(かんりゅうさんくほんいんさんぷくじ)は浄土宗の寺院です。文明3年(1471)に相蓮社順譽上人(そうれんしゃじゅんよしょうにん)によって開山され、元禄16年(1703)の大津波の後、新井浜(あらいはま)から現在地に移ったという伝承があります。里見義康(よしやす)が館山の城下町を造るために新井浦の土地を割り振る際に、寺の土地をとりあげたため、三福寺は代替地として汐入川(しおいりがわ)河岸を所望しましたが、後に河口から砂が押しあがり、河川の補修に必要な費用さえ捻出できず肝心の寺領にならなかったことから「御上地(ごじょうち)に、あてがいなしの三福寺」と言うことわざが生まれたと伝えられます。しかし、汐入川河口の利用は流通に関する権利を持つことを要求したのであり、先見の明と当時の権力者と深く結びついていたことを示すことわざとも言えます。元禄16年(1703)の大地震や大正12年(1923)の関東大震災による焼失等度々災難に遭い、寺宝、過去帳や文献等が失われていますが、境内には、館山ゆかりの偉人の碑や墓があり、創建以来の歴史の一部をうかがい知ることができます。かつて山門は境内の西側に位置していましたが、現在は汐入川沿いにも入口ができ、本堂はその正面に平成10年(1998)に再建されました。

(1)庚申塔

(1)庚申塔

寛文11年(1671)7月に建立された。正面に一面六臂(ろっぴ)の青面金剛、足元に三猿が彫られている。新井光明講中の施主の館山中町9名の名が刻まれている。家内安全、五穀豊穣等を祈り建立したもの。60年に一度の庚申の年ではないので庚申講の集まりを3年18回続けた時に建てられたと思われる。

(2)新井文山夫妻墓碑

(2)新井文山夫妻墓碑

-1 新井文山(あらいぶんざん)は幕末の房州の儒学者。館山新井に生まれ、幼少時より三福寺住職や地元柏崎の素封家鈴木直卿に学問の指導を受け、14才の時住職の援助で江戸に遊学する。昌平黌(しょうへいこう)(昌平坂学問所)に入門し儒学を学び、28才で帰郷して塾を開き地域の教育に力を注いだ。天保7年(1836)、館山藩主稲葉公に仕え、天保13年(1842)に目付兼郡奉行となる。中央が文山、左に先妻、右に後妻の法名が記されている。左側面には先妻を讃えて門人の上野清泰が墓誌を記している。

-2 文山は嘉永4年(1851)73才で没。碑銘は嘉永6年(1853)、次男の可大(かだい)に請われた昌平黌教官の佐藤坦(たいら)(号は一斎(いっさい))の撰文で、保田の武田石翁により刻まれている 。

(3)宮司政吉君の碑

(3)宮司政吉君の碑

明治40年(1907)建立。館山町生まれ。明治37年(1904)2月に開戦した日露戦争に翌月出兵し、同11月旅順において戦死した。享年23歳。東宮職御用掛(ごようがかり)小野燗(かん)による選書と篆額(てんがく)である。小野?(小野鵞堂(がどう))は、明治初期北条にあった長尾藩の人。28歳で「明倫歌集」を歌かるたにして昭憲皇太后に献上した。38歳で東宮職御用掛、明治・大正期のかな書道界を代表する大家である。基壇にある2個の砲弾は、直径の大きさから三笠型の副砲ではないかと思われる。

(4)伊串歌夕墓碑

(4)伊串歌夕墓碑

三秋庵歌夕(さんしゅうあんかせき)は通称平六といい、俳諧(はいかい)を能(よ)くした人物。大阪の人で宝暦5年(1755)生まれ。館山で櫛(くし)屋を営む伊串(いぐし)氏に婿入し、文政2年(1819)に亡くなった。櫛の絵が描かれた墓碑は天保4年(1833)に友人達が資金をだし、新井文山が碑文を書いた。

(5)石造釈迦如来三尊坐像

(5)石造釈迦如来三尊坐像

参道の左に館山町楠見の石工、俵光石(たわらこうせき)による釈迦三尊像がある。礎石を含めた高さは3.85m。伊豆の小松石を用い、螺髪や口髭を付けふっくらしたお顔で脇侍(わきじ)を従えている。舟形の光背には菩提樹の葉を模った光輪、その両脇にはインド風な仏塔が配されている。釈迦像の下には獅子と上向きに手を合わせた人物が彫られている。裏面上部に「明治三十六年十一月建立 當山廿(にじゅう)九世頂譽圓順代」、同下部に発起人16名の名と「高村光雲(たかむらこうん)門下俵光石彫刻」等と刻まれている。

(6)魚麟供養塔

(6)魚麟供養塔

享保15年(1730)9月建立。「浄土三部経一字一石」と刻まれているので無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経の3つの経典を小石に一文字づつ書き写して埋め、建立した塔である。新井浦は、昔、漁村であったので魚を供養する為に建立された。

(7)先達(せんだつ) 辰野浄全墓

墓石は1.5m程で大満虚空蔵(こくうぞう)講中により建てられている。浄全は明治43年(1910)37才で亡くなった。大満虚空蔵とは茨城県東海村の村松山大満虚空蔵尊のことと思われ、館山から浄全を先達として参詣したと推察される。

(8)俵 光石の墓碑 

境内墓地の俵光石の墓には、「昭和十年二月十三日没 行年六十八才 俗名房吉」とある。俵光石は慶応4年(1668)7月、安房郡楠見村の石屋を営む家に生まれた。明治24年(1891)頃上京して東京美術学校彫刻科教授高村光雲の門下生となり、明治27年(1894)年同校同科石彫教場助手に任命され教官となる。しかし、明治30年(1897)、館山に戻り稼業の石屋を継いだ。光石は、芸術的な作品にも意欲を見せ、当境内の釈迦(しゃか)三尊像や酒樽型の墓、寺社の狛犬、不動明王像、地蔵半跏(はんか)像など優れた作品を残している。

(9)岩崎家の墓域 

「岩崎家先祖代々 一切精霊墓碑」に岩崎与次右衛門(いわさきよじえもん)のものと思われる戒名「仰譽求道淨圓居士 寛永六年(1629)夘四月十四日」が刻まれている。岩崎与次右衛門は安房里見氏の居城館山城下館山町(上町・中町・下町)の肝煎(きもいり)役で豪商の一人で三福寺の大檀那。岩崎氏は米を中心に多角的な経営によって巨富を築いた商人であり、天正12年(1584)里見義頼(よしより)から館山城下沼之郷(館山市沼)に屋敷地を与えられた。義康(よしやす)の時代には城下商人の頭取(とうどり)を、慶長15年(1610)には忠義から町中肝煎役を命ぜられた。慶長19年(1614)、里見氏が改易になると「浄延斎」と号して隠居したが、元和元年(1615)、幕府から再び名主役を命ぜられた。三福寺が拝領した汐入川河口部の水運や湊機能を維持するのに必要な費用負担が莫大だったため、人的・経済的能力のある岩崎氏が深く関与していたのだろうか。

(10)徳本上人名号塔

(10)徳本上人名号塔 

名号塔(みょうごうとう)とは、塔面に「南無阿弥陀仏」の六文字を刻んだものである。徳本上人(とくほんしょうにん)の独特の書体の文字と花押(かおう)が刻まれている。文政2年(1812)に二十六世 應運社瑞譽秀阿上人(おううんしゃずいよしょうあしょうにん)の時に建立された。台座には、90名余りの戒名と供養した者の町・村と名前が記されている。なお、徳本上人は、江戸時代後期の浄土宗の僧で、念仏講を組織して関東、北陸、近畿地方の農民、大名などから熱狂的な支持と崇敬を受けた。


<作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・鈴木正>
監修 館山市立博物館  〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

来福寺

来福寺の概要

(館山市長須賀46)

来福寺

館山市長須賀にある真言宗のお寺で海富山医王院来福寺といいます。神亀2年(725)元聖(げんしょう)法印開基と伝えられています。墓域には大きなタブノキやクスノキなどがあり、また住職墓域や無縁墓地には室町期と思われる五輪塔の一部が見られます。本尊は境内のクスノキを使って彫られた薬師如来像です。薬師堂には室町中期とされている薬師如来像も安置され、地元では長須賀薬師と呼ばれています。安房国四十八薬師如来礼場の西口1番札所、安房郡札三十三観音霊場の第21番札所であり、また安房国八十八か所弘法大師霊場の第18番札所として多く人々の信仰を集めています。里見氏から真倉(さなぐら)村で高(たか)十二石の地を与えられ、徳川家からも同様に安堵(あんど)されました。また明治6年(1873)に小学校が置かれ(長須賀学校)、同23年(1890)北条尋常小学校に合併するまで続きました。

(1)手水鉢(ちょうずばち)

(1)手水鉢(ちょうずばち)

文久3年(1863)9月に法流六世(当院32世)宥承(ゆうじょう)の代に奉納された。世話人として往時の町の有力者、麹屋(こうじや)源平、上野主目(しゅめ)、池田屋金七、長屋源蔵など14人の名が刻されている。

(2)常夜灯

(2)常夜灯

万延元年(1860)9月の建立。作者は大坂炭屋町の石工で、宮崎県や神奈川県など全国的に活動した御影屋(みかげや)新三郎である。

(3)薬師堂

昭和47年(1972)の再建。向拝(ごはい)の木鼻(きばな)獅子は千倉町白子の仏師石井一良の作。堂内に安置されている薬師如来像は旧本尊。西口薬師の本開帳は寅年、半開帳(中開帳)は申年の10月である。

(4)本堂

(4)本堂

関東大震災で倒壊した後の仮本堂を、昭和28年(1953)に近くの上野医院の建材を譲り受けて再建した。向拝に安房郡札観音と安房八十八か所大師の御詠歌(ごえいか)が掲げられている。

(5)熊野大権現祠

石宮は明治42年(1909)の34世加藤學傳のとき、長須賀の島野源之助他8人が発起世話人として建立した。石工は長須賀の吉田亀吉。昭和58年(1983)の客殿建設により現地へ転移した。

(6)馬頭観音

長須賀村の清兵衛が施主となり、弘化3年(1846)に馬の死を悼みたてた供養碑。本来は人間救済の観音菩薩であるが、交通が不便だった時代の旅の安全を祈る意味ももっていた。

(7)庚申塔

(7)庚申塔

寛政元年(1789)の建立。主尊に青面金剛(しょうめんこんごう)を彫り、「庚申待(こうしんまち)」を18回続けた記念に建てられた。庚申の日の夜に眠ると、身体から三尸(さんし)の虫が這(は)い出し、天帝に告げ口することで宿主の寿命を縮めると信じ、集(つど)って夜を明かした風習を庚申待という。

(8)大日如来

正徳5年(1715)に建立。台座に8人の施主名がある。大日とは「大いなる日輪」という意味で、生きとし生けるもの全てが大日如来から生じたとされる。大日如来は宇宙そのもの、森羅万象そのもので、他の仏は大日如来の化身とされている。

(9)後藤義光寿蔵碑(じゅぞうひ)

(9)後藤義光寿蔵碑(じゅぞうひ)

後藤義光は南房総市千倉町生まれの安房の代表的な宮彫師で、寺社や山車(だし)、神輿に多くの作品がある。門人の後藤兵三と後藤喜三郎が発起人となり、門人や友人が米寿を祝って明治35年(1902)に建立。義光の生い立ちや人柄、非凡な技量を讃えている。撰文は元長尾藩教授恩田城山(じょうざん)、題字は貴族院議員万里小路通房(までのこうじみちふさ)、書は豊房村長鈴木周太郎で、背面には門人一同と友人の名前が刻まれている。建立の年に88歳で没した。

(10)十王堂

十王とは罪を裁く閻魔(えんま)大王を筆頭とする十尊の王。閻魔大王の化身(けしん)である地蔵菩薩が来福寺十王堂の本尊である。明治5年(1872)に清澄寺の金剛宥性(ゆうしょう)が開いた安房国地蔵菩薩百八か所霊場の百一番札所であり、御詠歌の額が掲げられている。

(11)高橋孝民(こうみん)の墓

(11)高橋孝民(こうみん)の墓

江戸時代中期に安房で活躍した出羽国(秋田県)出身の絵師。江戸へ出て鈴木南嶺(なんれい)に師事する。各地を歴遊した後安房に滞在し、病死した。文政13年(1830)没。享年35歳。 長須賀宝積院(ほうしゃくいん)で友人等に送られた。本名は辰五郎。画号は「蕗山孝民(ろざんこうみん)」。

(12)嶋野七郎の墓

(12)嶋野七郎の墓

海軍二等水兵で軍艦赤城の乗組員。昭和6年(1931)に作業中のロープ切断事故で事故死した。そのため赤城艦長の和田秀穂大佐が碑文を書いた。題字は北条町長の熊谷(くまがい)喜一郎。元内務官僚で初代樺太庁(からふとちょう)長官。昭和3年に北条へ移住し弁護士事務所を開いた。

(13)岩井久光の墓

(13)岩井久光の墓

生没年不詳の長岡(新潟県)藩士だった人物。柳生(やぎゅう)流剣術を学び、独自の剣道を生み出した。明治になり北条で道場を開き、多くの人々に剣道を教えている。老いて道場を閉める時に有志門人たちが久光を慕い、後世に名が残るようにと建てた碑である。

(14)撞木(しゅもく)供養塔

宝暦12年(1762)に長須賀の嶋野伊兵衛が施主となり、撞木(しゅもく)5600本の供養をした際の碑。この時の住職が24世宥長で嶋野家出身とみられる。撞木とは鉦(かね)を鳴らす時に使うT字形の棒のこと。

(15)日露戦役戦没者墓

(15)日露戦役戦没者墓

日露戦役で戦死した陸軍歩兵一等卒鈴木常吉の墓。明治37年(1904)11月28日、旅順(りょじゅん)攻略戦のなかで二〇三高地攻撃の際、名誉の戦死を遂げた。享年22歳。

(16)上埜(うえの)氏歴世墓誌

上野家の由緒が裏面にある。里見氏改易で伯耆(ほうき)倉吉(鳥取県)へ随従した家臣の家柄。帰郷後に帰農する。享保期に才庵義明が江戸で医を学び、助明、知明、義泰、清泰、義寧、隆卿と代々医を業とした。明治4年(1871)に隆卿が母親の一周忌に建立した碑。

(17)上野良輔の碑

(17)上野良輔の碑

良輔清泰(きよやす)は幼少から新井文山(ぶんざん)の塾で学び、のち江戸の昌平坂学問所に学んだ。故郷で医業を継ぐも病を患い、文政8年(1825)26歳で死去。翌年父義泰(よしやす)が建立した碑。新井文山が文をつくり、文山の師であり書家の幕府勘定方の役人杉浦西涯(せいがい)が字を書いた。

(18)歴代住職墓域

墓地中央に30基の石塔がコの字型に配置されている。宝永3年(1706)の第18世頼詳以降の歴世の墓石が19基あり、第18世~44世までが確認できる。他は歴世の弟子たちの墓。寛文8年(1668)没の法印自勢の墓石が最も古い。第41世の智傳は昭和28年(1953)に本堂を復興した。

(19)巨樹

(19)巨樹

館山平野を南北に走る砂丘列のうち、来福寺は、海岸から数えて2番目の砂丘の南端に位置している。境内にある数本の大木は、砂丘に自生した樹林が保護されて残ったのも。主な樹木名と位置は境内マップを参照されたい。


作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
愛沢香苗・羽山文子・丸山千尋・森田英子・山杉博子2017.4.17作
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡:0470-23-5212

法性寺

日照山法性寺の概要

(館山市北条1084)

 日照山法性寺(にっしょうざんほっしょうじ)と言い日蓮宗のお寺。上総興津(おきつ)城主(勝浦市)の佐久間兵庫頭(ひょうごのかみ)重貞は、日蓮聖人が興津近辺の疫病(えきびょう)を沈めた法力に感動し帰依(きえ)したといい、その嫡子は日蓮聖人の弟子となり「日保(にほ)上人」と名乗った。後年、日保上人の弟子「日聖(にっしょう)」が北条に草庵を立てたのが法性寺の始まりとされる。
日蓮聖人がこの地で説法した文永元年(1264)を開山年とし、日保上人を第1世、日聖上人を第2世と定められた。過去の災害等により由緒を詳しく示す記録がなく、歴史的に不明な点が多いが、墓域には房州長尾(駿河田中藩)藩士や、幕末の海岸警備で来房中に没した武州忍(おし)藩・備前岡山藩士のほか、北条の絵師・渡辺雲洋(うんよう)などが葬られている。

(1)題目塔

(1)題目塔

文化13年(1816)に建てられた。正面にお題目、右側面に「日聖山法性寺(にっしょうざんほっしょうじ)」、台座に寄進の世話人5人の名が記されている。日聖山の山号は、第二世の「日聖(にっしょう)」に由来すると言われるが、現在の日照山に変わった正確な時期は不明である。
明治27年(1894)の『安房国町村誌』では、山号が「日照山」となっている。

(2)本堂及び向拝彫刻

(2)本堂及び向拝彫刻

本堂は、大正4年(1915)に建てられたが関東大震災で倒壊したため、元の部材を使用して建て替えられた。向拝(ごはい)の屋根は唐破風(からはふ)とし、懸魚(げぎょ)の彫物は鳳凰、桁隠(けたかく)しは菊水、大瓶束(たいへいづか)の両脇は雲、虹梁(こうりょう)は雲、木鼻(きばな)は獅子、正面には龍が彫刻されている。龍の彫物は第3代武志(たけし)伊八郎信美(のぶよし)(文化13年~明治22年=1816年~1889年)の作である。他の彫刻の作者は不明である。

(3)芥川龍之介邸灯篭

(3)芥川龍之介邸灯篭

本堂右前に高さ1.8mの御影石の石灯籠がある。作家芥川龍之介邸にあったもので、昭和2年(1927)に龍之介が没した後、友人が邸宅を譲り受け、後に墨田区本所の法泉寺へ寄贈した。同寺と法性寺とは兄弟寺にあたることから、鵜沢(うざわ)住職が昭和56年(1981)に宗祖(しゅうそ)七百年遠忌(おんき)の記念に譲り受けた。龍之介はこの灯籠に愛着を寄せており、小説の中にしばしば登場しているという。

(4)お手植えイチョウ

大正4年(1915)の本堂落慶(らっけい)法要の際、京都瑞竜寺(ずいりゅうじ)(村雲御所(むらくもごしょ))の門跡(もんぜき)「村雲日榮尼公(むらくもにちえいにこう)」が臨席され、イチョウをお手植えしたと伝えられている。尼公は伏見宮邦家親王(ふしみのみやくにいえしんのう)の第8皇女。日露戦争の後、篤志看護婦人会京都支部(同志社英(えい)学校を創立した新島襄(にいじま・じょう)の妻「新島八重」が所属していた)の活動に尽くし、村雲婦人会を組織して社会事業に貢献した人物。苗木は檀家の半沢家から寄進された。

(5)マキの大木

(5)マキの大木

本堂の前方、墓地の入り口近くにあり、樹齢300年以上とも600年以上ともいわれる。樹高は約21m、幹回りは約8.5m。

(6)東照稲荷

(6)東照稲荷

繁昌を祈願する東照稲荷が祀られている。向拝(ごはい)の虹梁(こうりょう)には「若芽彫り」、蟇股(かえるまた)には「二匹の狐」が彫られ錠前(じょうまえ)の鍵を銜(くわ)えて見合っている。蟇股の裏面に「大正五年十一月 彫刻師後藤橘義信(たちばなのよしのぶ)翁六十八作」と刻まれている。木鼻には獅子が彫られている。檀家の吉田誠が大正の初めに寄進した。

(7)円応寺有縁の墓

(7)円応寺有縁の墓

芝の円応寺(えんのうじ)と呼ばれ、日蓮宗で山号は妙典山。永正元年(1504)に円応院日長が開基した。元和4年(1618)の北条村検地帳には「円能寺」とある。貞亭3年(1686)に廃寺となったが山号寺号は残し、跡地は安布里の蓮幸寺が管理した。明治41年(1908)に法性寺へ合併され、字(あざ)小作にあった墓石は法性寺墓地内に「圓應寺(えんのうじ)有縁(うえん)之墓」としてまとめられた。
そこには側面に「千龍山」と書かれた題目塔、中興開山智立院日行の供養塔(宝暦13年=1763年)、泰是院日顕の墓(寛政4年=1792年)がある。

(8)角田(つのだ)家供養塔

「円応寺有縁之墓」左脇に、歯科医角田庄吉による「角田家供養塔」と「舎利塔(しゃりとう)」と刻まれた石塔がある。供養塔は明治32年(1899)、庄吉が父母及び近親者の供養のために立てたもの。左側面には庄吉が法性寺のために志(こころざし)深く尽くしたので、当寺が興津(勝浦市)の本山妙覚寺に願い出て、父母と庄吉に居士号を授与したことや、有無縁一切の霊の供養のため約7万個の小石に「妙法」の二字を書いて塔下に収めたことが記されている。

(9)歴代住職の墓

1 大宥院(だいゆういん)日慎(にっしん)上人

歴代住職の墓域にある第23世の墓石である。墓石の裏面には、京都生まれで内大臣の子息。10歳で出家し山城国通妙字(京都市東山区)、雑司谷(ぞうしがや)の本立寺(東京都豊島区)、朝夷郡蓮住寺(南房総市千倉町)を経て、慶応3年(1867)に69歳で法性寺に来住した。風雅を好み俳句を楽しんだとある。碑の側面には、「かや釣りて入れば隔つ我が世かな」の辞世の句が記されている。俳号は陶々庵(とうとうあん)延年といった。明治18年(1885)88歳没。

2 了蓮院(りょうれんいん)日厳(にちごん)上人(無法塔の塔身)

墓地中央の永代供養墓にある。正面に「了蓮院日嚴聖人(しょうにん)」とあり、貞亭2年(1685)の没。高さ85cmの無縫塔(むほうとう)だが、地中に約35cm埋もれている。日厳上人は、過去帳の最初に記載されており、中興(ちゅうこう)上人であろう。施主は日厳上人遷化(せんげ)から36年後の享保6年(1721)に、時の住職・日由(にちゆう)が建立した。

(10)館山小学校旧友戦没者慰霊碑

(10)館山小学校旧友戦没者慰霊碑

碑を建てた染谷義雄は、大正11年(1922)生まれ。館山小学校3年の時に両親と兄弟でブラジルに移民として渡った。戦後、小学校の級友を訪ねたが、戦死していて会えず落胆のうちに帰国した。その後、戦死した級友のため、寺の厚意をうけて昭和50年(1975)にこの慰霊碑を建立し、供養のため旧友と集うことができた。

(11)墓域入口の門柱

(11)墓域入口の門柱

墓地正面入口に高さ約276cmの安山岩の門柱がある。「大正三年十月 北條病院主角田佳一(つのだ・かいち)」と刻まれていて、北条病院初代院長の角田佳一が寄進した墓地の門柱である。
北条病院は前身が県立の病院で、明治13年(1880)に千葉県安房郡役所、安房北条警察署と同時に設けられた千葉県立千葉病院北条分院であった。明治22年(1889)に角田佳一が買い取り民営化した。

(12)高川良次郎の碑

(12)高川良次郎の碑

良次郎は、安政5年(1858)、朝夷郡黒岩村(南房総市和田町)に生まれた。明治9年(1876)千葉師範学校を卒業。小学四等訓導(くんどう)となり和田・瀬戸・白子学校に赴任する一方、元長尾藩士恩田仰岳(ぎょうがく)の私塾秉彝(へいい)学舎を千倉に設けて猛勉強した。その後病をおして上京し勉学に打ち込むが、病が悪化。順天堂病院での治療後に安房へ帰り北条病院で治療を受けるも、献体を希望して、明治14年(1881)に23歳で没した。北条病院長らの尽力で碑が建立された。撰文(せんぶん)は、良次郎の父元良の友人で元長尾藩士の恩田城山。篆額(てんがく)は千葉県知事の船越衛。書は元長尾藩士の熊沢直見。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
愛沢香苗・青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・鈴木以久枝・鈴木正
監修:館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

金台寺

金台寺(こんたいじ)の概要

(館山北条1042-1)

 館山市北条の南町にある浄土宗寺院で、正式には海養山龍勢院金台寺といいます。文明8年(1476)の創立と伝え、永正2年(1505)に鎌倉光明寺の学頭(がくとう)昌誉順道上人(享禄2年=1529年没)を迎えて開基としました。京都知恩院の末で本尊は阿弥陀三尊。館山城主里見義康のおじにあたる4世豪誉上人のとき、義康から寺領60石とともに、仏餉米(ぶっしょうまい)(仏に供える米飯)50俵が毎年与えられたそうです。徳川将軍家からも60石の朱印地を与えられ、門前の南町一帯は金台寺の所領でした。また6世檀誉上人の姉は徳川家康の内室であったことから特別の保護を受けたとされています。この当時の境内は二町四方で、堂宇の建坪は190余坪。7世正誉上人のときには浄土宗の房州一国の触頭(ふれがしら)として、安房国内の浄土宗寺院の行政的な管理をおこなうほどに隆盛し、塔頭(たっちゅう)2宇(専明院・要修院)、末寺7か寺のほか配下に5か寺を擁しました。触頭の地位は宝永年間に大網の大巌院に替わり、それからまもなく2宇の塔頭は廃されました。

(1)山門

平成13年に26世明誉覚道上人が建立した。山門から正面に本堂が見え、建物の調和がとれている。

(2)水準点

(2)水準点

 土地の高さを測る基準となる点で、山門を入って右奥に設置されている。ここは標高7.6832m。

(3)第六天様

 地元の講で信仰しており、「第六尊天王」の額が掲げられている。第六天はインドのバラモン教のシヴァ神で、仏教の守護神。天界のうち欲界の最高位他化自在天(たけじざいてん)を支配する第六天魔王のこと。日本では修験者が信奉し、福神として民衆の間に広まった。地元では現在も10月20日頃に講が開かれている。寺ができる前からの地主神だといわれている。

(4)日露戦役忠魂碑

(4)日露戦役忠魂碑

 2基のうち、右側は陸軍歩兵伍長石原金太郎の碑。明治37年2月に日露戦役に出征して各地を転戦、翌年3月の奉天(ほうてん)会戦で戦死した。享年28歳。題字は北条にいた伯爵万里小路(までのこうじ)通房、撰文と書は安房中学校教諭斎藤夏之助(東湾)である。左側は陸軍歩兵上等兵辰野清次郎の碑。明治37年3月に出征し、同年10月の旅順(りょじゅん)総攻撃の際に松樹山で戦死した。碑は兄清兵衛によって記されている。ともに北条の人。

(5)わらべ不動尊

 この堂には聖(しょう)観世音菩薩像とわらべ不動尊が祀られている。聖観音は徳川家康の内室良雲院殿天誉寿清大禅尼から贈られた秘仏で、慈覚大師の作と伝えられている。良雲院殿は武田信玄の娘で6世檀誉上人の姉とされている。わらべ不動は浄土宗の宗祖法然上人の誕生850年を記念して安置されたもので、法然の幼名勢至丸(せいしまる)の姿を不動明王になぞらえて鉈彫りの像として祀った。青少年・幼児の健全育成を祈願したもので、わらべ不動と称する。鴨川出身の木彫家長谷川昴(こう)の作である。

(6)名号(みょうごう)塔

(6)名号(みょうごう)塔

 正面に「南無阿弥陀仏」の名号を刻む。天明3年(1783)、宮地氏が3人の近親と先祖代々の精霊を供養するために奉納したもの。施主の宮地氏は那古に進出した近江商人で、その一族が南町に支店を出していた。故郷へ帰るに当ってこの塔を建立したらしい。山門が建立されるまでは参道入口にあった。

(7)本堂

(7)本堂

 25世深誉上人が檀信徒の協力を得て昭和46年に完成した。正面の須弥檀に本尊の阿弥陀如来と観音・勢至両脇侍(わきじ)の阿弥陀三尊を安置し、善導大師(中国浄土教の開祖)と円光大師(浄土宗の開祖法然)の像を祀る。その上には後藤義房作の天女の彫刻がある。向拝左側に掛かる額には円光大師二十五霊場の御詠歌が、「第六番北条金台寺 あみだぶと 西にこころは うつせみの もぬけはてたる 声ぞすずしき」と詠われている。

(8)本田存(ありや)先生の墓

(8)本田存(ありや)先生の墓

 群馬県館林の生まれで、水府流太田派の水泳を極め、柔道は講道館八段。東京高等師範学校の生徒を率いて来房し、のち明治36年(1903)から30余年間北条に住んで学生の指導にあたって、安房中をカッパ中学と称されるまでに育てた、房州の水泳・柔道の開祖である。昭和24年(1949)没、享年79歳。北条海岸の東京高等師範学校寮(現筑波大学北条寮)で没し、安房水泳倶楽部・安房柔道有段者会・茗渓会(東京高師OB会)によって分骨埋葬された。本堂裏の井戸近くにある。

(9)千日念仏供養塔

(9)千日念仏供養塔

 大津波による溺死者を寛文2年(1662)に供養したのではないかといわれているが確認はされていない。塔身の四面に南無阿弥陀仏の名号と経文が書かれて大勢の人の供養がなされ、「時に寛文2年正月25日 千日導師正誉上人」とあり、四面に749名の法名が刻まれている。

(10)義賊赤忠の墓

(10)義賊赤忠の墓

 「俗名赤忠(あかちゅう)墓」とある。赤忠は村々の金持ちばかりを襲って金銭・衣類・米を盗み、日々の生活が苦しい人々に盗んだ金品を恵んだことから「義賊」と評判になった。役人の探索にもかかわらずなかなか捕らえられなかったが、正木(那古地区)のワラ小屋に潜んでいるところを発見逮捕され、明治の初めに打ち首となった。岩糸村(旧丸山町)出身で本名は忠蔵、酒を好みいつも赤い顔をしていたという。

(11)水子地蔵

(11)水子地蔵

 台誉上人のとき、享保10年(1725)に順礼講中によって寄進された。

(12)如意輪観音坐像 写真右

(12)如意輪観音坐像

 7世正誉上人のとき、寛文2年(1662)に観音講中によって寄進された。

(13)舟形光背の地蔵菩薩 写真左

(13)舟形光背の地蔵菩薩

 7世正誉上人のとき、明暦元年(1655)に北条村の念仏講中によって寄進された。

(14)庚申塔

(14)庚申塔

丸石の正面に大きく「庚申講」とあり、文政9年(1826)に建立された庚申塔であることがわかる。

(15)万里小路通房の子の墓

 万里小路(までのこうじ)通房は明治天皇の侍従を務めた伯爵で、明治23年(1890)の退官後北条に移住して、昭和7年に没するまでの40年間に農業の近代化(野菜の促成栽培)と社会教化活動(安房大道会)に取り組んだ館山の先覚者。金台寺近くに屋敷があったことから、その間に没した子供たちの墓が建てられた。墓には通守(明治29年没)・津由子(明治35年没)・多美子(明治41年没)の名がある。

(16)行貝弥五兵衛父子の墓

(16)行貝弥五兵衛父子の墓

 行貝(なめがい)弥五兵衛国定と子息弥七郎恒興の墓。正徳元年(1711)に安房北条藩領27か村の総百姓が、過酷な課税に抗して立ち上がった万石騒動のとき、義憤を抑えがたく百姓方を援助したため、三義民処刑と同じ11月26日に北条村北原で処刑された地代官親子である。弥七郎は弾七郎恒興や弥七正と紹介する文献もある。


作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」 石井道子・岡田喜代太郎・加藤七午三・御子神康夫
監修 館山市立博物館 

鶴谷八幡宮

文化財ガイド 鶴谷八幡宮

(館山市八幡68)

安房国の総社で、もと三芳村府中にあったものが、鎌倉時代に現在地に移転したといいます。康応2年(1390)には安西八幡宮の名で資料に現れています。現在も9月のお祭りでは府中でお水取りを行います。その祭礼を「八幡のまち」といって郡内最大のお祭りで10社の神輿が集まります。
江戸時代から市がたち、今も農具市として続いています。

二の鳥居エリア

(1)小野鵞堂記念碑 写真左

(1)小野鵞堂記念碑

 小野鵞堂(がどう)は文久2年(1862)静岡県藤枝に生まれ、7歳から12歳までを安房で過ごした。独自の書風「鵞堂流」を完成させた。書道研究会「斯華(このはな)会」を組織し、門人の育成と通信教育により書の普及に努めた。
 明治・大正時代を代表する書家である。

(2)征清記念之碑 写真中央

(2)征清記念之碑

 明治27年(1894)、日清戦争に安房郡から千人あまりが出征したことが刻まれている。

(3)日露戦争記念碑 写真右

(3)日露戦争記念碑

 安房郡内から日露戦争に出征した兵士をたたえて建設された。

(4)忠霊塔

 日清・日露・太平洋戦争における館山市民戦没者慰霊碑。戦没者は各地区合わせて2876名にのぼる。
 昭和38年建立。正面の刻字は靖国神社宮司・筑波藤麿筆。

(5)神社震災復旧工事竣成記念碑

 大正12年(1923)の関東大震災で安房郡は大きな被害を受けた。昭和7年9月、神社の復旧作業はようやく完成する。

(6)水田三喜男銅像

 明治38年(1905)に安房郡曽呂村(現鴨川市)に生まれた。第二次大戦後、大蔵大臣として高度経済成長政策を推進した。城西大学・城西歯科大学を創設し、教育界にも大きな足跡を残した。

(7)安房先賢偉人顕彰之碑

 昭和10年(1935)ごろ、安房神社の宮司を中心に安房の先人で、模範になる人物を16名選んで顕彰したもの。
 その16人とは、
 伴直家主、菱川師宣、石井三朶花、奥澤軒中、山口杉庵、武田石翁、新井文山、加藤霞石、堀江顕斉、恩田仰岳、野呂道庵、鳥山確斉、鱸松塘、鈴木抱山、曾根静男、畠山勇子である。

(8)灯篭

(8)灯篭

 天明7年(1787)、神門(鳥居)と共に寄進された。
 鳥居は建て替えられて、今はない。
 地元の氏子の他、江戸に住む人々も寄進している。

社殿エリア

(9)神余備(かんなび)

 昭和8年(1933)から50年余りにわたり、八幡神社社掌を勤めた酒井泰二宮司の永年の功績を称えた石碑。
 太平洋戦争後の県神社界維持運営のために尽くした。

(10)鶴谷神殿重修記念歌碑

(10)鶴谷神殿重修記念歌碑

 文久3年(1863)、神社拝殿の再建が行われた際、その祝いの席で八幡村名主根岸定宣が詠んだ記念の和歌を刻んだ碑。

(11)八幡神社創立一千年式年大祭記念碑

 昭和51年、神社創立一千年を記念しての大祭の碑。
 本殿修復後、若宮八幡社復旧の工事の記載がある。

(12)報国者碑

 明治10年(1877)西南戦争での戦死者を悼む碑。
 表面には総数24名の、安房郡・平(へい)郡出身の兵士の名が連ねられている。明治11年4月に有志が建設。

(13)日露戦争の碑

 日露戦争での北条町の戦死者・戦病死者を悼んで建設したもの。戦死者115名、戦病死者10名の犠牲がでている。

(14)天水桶

 石製の土台と鋳物の桶本体とは年代が異なり、土台は推定で明治初期、本体は昭和47年3月謹製とある。

(15)狛犬

(15)狛犬

 文政3年(1820)寄進。長須賀の石工・鈴木伊三郎が製作。伊三郎の作品は、小塚大師にも残されている。

(16)手水(ちょうず)石

 文化14年(1817)、安房国南条村(現館山市)に住んでいた人々により寄進される。

(17)加藤霞石(かせき)の記念碑

 平群の医師で漢詩人でもあった霞石の経歴を載せている。明治3年(1870)に川田甕江(へいこう)が撰文している。

(18)安房神社遥拝殿

 安房神社の神輿がここに入る。

(19)御仮屋(おかりや)

 「八幡のまち」のとき、右から子安、高皇産霊(たかみむすび)、木幡、莫越山、山荻、山宮、手力雄、下立松原、洲宮の各社から神輿がここに集まる。

(20)鶴谷八幡宮社殿

(20)鶴谷八幡宮社殿

 拝殿の向拝(ごはい)天井にはめ込まれた彫刻を「百態の竜」と呼び、安房を代表する木彫師後藤義光の作品。
 周囲にある木鼻の獅子や象もこの時の義光による作品。
 この神社には、刀「銘 守家」、棟札(むなふだ)などの文化財がある。
 本殿も館山市指定文化財で、江戸時代中期の建築。

(21)光明真言念誦(ねんじゅ)碑

 八幡の人々が光明真言(真言密教で唱えられる呪文の一つ)を一億回唱えた記念碑。

(22)廻国塔

 寛政5年(1793)に日本全国を廻国巡礼した人の記念碑。

(23)千灯院

 箱崎山と号し、真言宗智山派。府中・宝珠院末。本尊は薬師如来。鶴谷八幡宮の社僧が住した寺。

(24)若宮八幡社

 仁徳天皇を祀ってある神社。


作成:平成11年度実習生
/監修 館山市立博物館

諏訪神社

正木諏訪神社の概要

(館山市正木4294)

正木諏訪神社 社殿

 館山市正木の諏訪山の頂上にあります。延喜(えんぎ)元年(901)の創建で祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)。大国主命(おおくにぬしのみこと)の第2子と言われ、下宮(しものみや)には大国主命が祀られています。創建当時、諏訪山の麓の集落は白浜郷と呼ばれ、村人は半農半漁の生活を営んでいましたが、しばしば大荒波に襲われその被害に苦しんでいたそうです。延喜元年正月8日の夜に、ある村人の夢に信濃国の諏訪大社の神様が現れ、村人たちが一心に祈ったところたちまち大荒波は静まったので、以来、村人たちは霊験あらたかな諏訪の神様をこの郷にお祀りして、産土神(うぶすながみ=氏神様)として千百年余り崇拝してきました。里見氏・徳川氏からも社領3石を安堵され、明治6年には郷社に列せられるなど、この地区(岡・本郷・川崎・西郷(にしごう))では最も由緒深いお社です。9月27日の例大祭に川崎の八雲神社の御輿が渡御するほか、3人の雅楽師による雅楽が奉納されます。江戸時代にはかっこ舞も奉納されており、三匹獅子の頭(かしら)や文政9年(1826)の銘がある太鼓の胴が残されています。

(1)社名碑

 参道から大鳥居に向かう右側に「郷社諏訪神社」の社名碑がある。関東大震災の復興に約10年間を要し、実施された事業内容が「貯水池工事・下宮新築工事・参道下水コンクリート工事 延長75間・階段コンクリート工事195段・制札場工事・大鳥居新築工事・裏参道改築工事延長105間、昭和7年7月27日竣工」とある。

(2)参道用地寄付記念碑

 大鳥居の右側に、参道及び大鳥居付近の拡張のために土地を寄付した6名の氏名と寄付坪数が記された昭和7年(1932)7月27日建立のコンクリート製の碑(50cm×41cm)がある。

(3)二の鳥居

 御影石で大正12年(1923)9月に建立とある。台座には前面に「奉納」、後面に「那古町正木・平野○○・石井○○・鈴木○○」とかすかに判読できる。関東大震災の年月に建立されていること、倒壊等による損傷痕が見当たらないこと等から、倒壊しなかった強運の鳥居か、建立準備中だったものだろうが、定かではない。

(4)大塚山古墳の石宮

(4)大塚山古墳の石宮

 東屋近くの椎の根本にある石宮は、正木岡地区の大塚山古墳(ひょうたん塚)の頂上にあったもので、昭和30年の中ごろに参道横に移転し現在地に安置された。祭神等の詳細は不明である。

(5)伊勢参宮資本金奉納記念碑

 「奉納永代資本金30円 当区岡伊勢参宮一行」の記念碑がある。裏には同行者30名の氏名と、「明治40年(1907)4月、熊澤直見書(長尾藩藩士(12)項参照)」と記されている。伊勢参宮は、熊野参宮と同じように全国的に人気の高いお参りで、江戸後期頃から講を作っての伊勢参宮が盛んになったといわれている。

(6)金精様(こんせいさま)

(6)金精様(こんせいさま)

 灯篭に「講中」と記され、その奥に金精様と呼ばれる石宮がある。金精様の信仰は、子孫繁栄を願い、性器をかたどった石や木を祀る民族神信仰といわれている。現在、当宮に石棒(せきぼう)は残っていない。また、ここが浅間様と呼ばれていたという証言もある。

(7)富士講祠(ふじこうし)

(7)富士講祠(ふじこうし)

 明治18年(1885)4月、正木村内の富士講社(山三講と思われる)の人達が建立したもので、社長(先達(せんだつ))・世話人・村内講中の23名の名前が刻まれている。石祠を通してその向こうに富士山が望見できる向きで建てられているが、現在は自然林に阻まれている。

(8)芭蕉句碑

(8)芭蕉句碑

「此(この)神も いく世か経なむ まつの花 芭蕉翁 文酬(ぶんしゅう)敬書」とある。裏面には、文久3年(1863)3月に建立とあり、地元の宗匠雨葎庵(うりつあん)三世・高梨文酬が率いる正木村の丘連(おかれん)中の俳人、諏訪神社の神主関風羅(ふうら)を含む18名の俳号が記されている。

(9)手水石(ちょうずいし)

 神社に参拝する前にお清めの手洗いをするために作られたもので、多くは手水屋(ちょうずや)という建物に覆われている。寛政11年(1799)に奉納された手水石で、前面には「奉納」、裏面には11名の世話人の名前が右より、「篠瀬藤蔵・平野左五兵衛・遠藤安兵衛・鈴木忠蔵・戸倉忠七・黒川喜平次・羽山常七・羽山長八・佐野半七・戸黒又四郎・嵯峨屋武兵衛」と刻まれている。

(10)石灯篭

(10)石灯篭

 文化7年(1810)、正木村の下組・鈴木甚左衛門、向組・篠瀬丈助、上組・庄司長兵衛の各名主が、一対で奉納したもの。左基礎裏面には、「江戸芝切通 富山町 石工与七」の名がある。当時すでに伊豆石などの石材は江戸に集められ、全国に発送できるシステムができていた。石工も江戸に開業して各地からの注文が江戸に集中していたが、やがて各地に石工が誕生していった。

(11)狛犬(こまいぬ)

(11)狛犬(こまいぬ)

 二匹一対で阿形(あぎょう)、吽形(うんぎょう)の形で廟の守護神として置かれる。阿形の前面には「奉納」、左面に「明和9年(1772)壬辰2月吉祥日」とある。吽形の前面には「宝前(神前の意)」の文字が、後面には谷田(ヤタ)の「平助・長兵ヘ」の名が刻まれている。

(12)震災復興記念碑

 大正12年9月1日の関東大震災の災害から、氏子一同が諏訪神社復興に尽力したことを記念して、昭和2年(1927)に建立された。記念碑の篆額(てんがく)・撰文(せんぶん)・書ともに、旧長尾藩出身の書家・熊澤直見(なおみ)である。長尾藩の前身である田中藩のころ、祖父は幕府の最高学府である昌平校で学んだ人物。父猶竜(ゆうりゅう)は武芸の師範であり、明治時代に大成した書家小野鵞堂(がどう)に多くの影響を与えた書家でもある。その子が直見で新しい近代社会で活躍した。

(13)諏訪神社自然林  市指定天然記念物 (平成14年指定)

(13)諏訪神社自然林 市指定天然記念物 (平成14年指定)

 標高74mの諏訪山山頂にある社殿を取りまく諏訪神社自然林は、鎮守の森として保護されてきた。この自然林のスダジイは、幹回り約3m30cm・樹高約20mのものをはじめ、板根(ばんこん)が大きく張り出したものや、幹周り3m・樹高25mに届きそうな巨木が多い。このほかオガタマノキやヒメユズリハなど樹種が多く、鳥類・昆虫類も豊富で、房総半島を北限とする暖地性植物が多いことが特徴である。

(14)狐塚(きつねづか)の石

(14)狐塚(きつねづか)の石

 昔、諏訪神社と那古寺がケンカしたときに、諏訪神社が那古寺に向けて投げつけたが途中で落ちた石だという伝説が語り継がれている。もとは山寄りに位置していたが、圃場(ほじょう)整備のため現在地に移転安置された。近くの那古小学校西側にある白岩弁天の前には、那古寺が投げた石もあったという。狐塚とは農業神である田の神の祭場として信仰される場所につけられた呼び名だとされている。

裏参道周辺

 社名碑にある裏参道は「女坂」と呼ばれ、二の鳥居から車道中間の法面(のりめん)の高い所までその一部が残っている。周辺には、「かんじん様」と呼ばれる江戸時代までの神主さんの墓所や、屋敷跡が残っている。現在、「女坂」は車道整備の際に分断されたため通行できない。車道が出来るまでは、神輿は表参道の階段を上り、帰りは裏参道を下りていた。


<作成:ふるさと講座受講生 佐藤博秋・佐藤靖子・中屋勝義>
監修 館山市立博物館 

那古山

文化財ガイド 補陀洛山那古寺

(館山市那古1125)

養老元年(717)に僧行基が建てたとされる。江戸時代に元禄大地震で倒壊したが安房全域におよぶ万人講勧進によって再建された。坂東三十三番巡礼札所の結願寺として知られ、本尊の千手観音像、阿弥陀如来像、多宝塔など多くの文化財がある。寺の裏山は自然林が保存され、山頂か那古1125らは市街や対岸がよく見わたせる。

 (※補陀洛:観音信仰の中心地で、眺望がよく、海に臨み、花咲き鳥囀る極楽の境地)

本坊エリア

(1)大蘇鉄

(1)大蘇鉄

 嘉永7年(1854)に、茨城出身の江戸の力士、一力長五郎が石垣を奉納している。本坊に向かって左側の方に、長五郎の名前が彫られた石がみえる

(2)日露戦争記念碑 明治39年(1906)

 那古から日露戦争に従軍した人の名前を記した碑。表の題字は、陸軍大将の大山巖の書。

(3)三尾重定先生墓 明治43年(1910)

 三尾重定は尾張出身の漢学者で、『房陽奇聞』を著した人。その弟子たちによって建てられた墓。晩年は鏡ケ浦の景色を好み、那古山の式部堂によく立ち寄ったという。

多宝塔エリア

(4)巡拝記念碑 昭和46年(1971)

 那古寺は、観音札所坂東三十三カ所の結願寺。この碑は、東京や横浜、青森などの人が奉納したもの。

(5)庄司雅二郎君之稗 昭和5年(1930)

 豊田村の村長を務めた。安房政友同士会を創設し、明治末から鉄道敷設に力を尽くした。

(6)阿弥陀堂

 県指定文化財の木造阿弥陀如来坐像が安置されている。この阿弥陀像は、鎌倉時代の作とされる。

(7)多宝塔

(7)多宝塔

 県指定文化財。江戸時代の宝暦11年(1761)に、那古の伊勢屋甚右衛門が願主となり、地元の大工たちが再建した。

(8)力石

(8)力石

 昔の人が力比べのために持ち上げた石。一番重いのは、左にある那古の森田治兵衛と江戸湯島の内田金蔵・佐助が奉納した75貫(約281kg)のもの。

(9)石灯籠

 元禄7年(1694)に、那古の人が両親の供養のため建てた。

(10)石灯籠

 江戸時代の延享2年(1745)に奉納されたもの。

(11)百万遍念仏塔 天保7年(1836)

 百万遍とは、大勢で念仏を唱えながら大きな数珠を回す風習のこと。この塔は、唱えた念仏の数があわせて百億回に達したという記念に、正木村や那古村の仲間が建てたもの。

観音堂エリア

(12)手洗石 天保15年(1844)

 上総国勝浦の人が願主となって奉納したもの。

(13)針塚 昭和41年(1966)

 使い古した針を納める針供養のための塚。全和裁団体連合会・安房郡市和裁教授会ほか、約百もの団体や個人によって奉納されている。

(14)納札塚 大正4年(1915)

(14)納札塚 大正4年(1915)

 観音霊場を巡礼する東京納札会によって奉納されたもの。

(15)観音堂 宝暦8年(1758)再建

(15)観音堂 宝暦8年(1758)再建

 那古寺の本堂にあたる県指定文化財の建物で、銅造千手観音立像(重要文化財)がある。入口に掲げられた「円通閣」の額は、江戸時代末の幕府老中松平定信の書によるものである。

(16)白衣観音 寛政6年(1794)

(16)白衣観音 寛政6年(1794)

 本堂の修理が終わったことを記念して建てられた。修理に関わった地元の世話人や大工の名前が記されている。

(17)地蔵菩薩 宝暦4年(1754)

 地元の念仏講中が奉納したもの。像のみが宝暦の作で、その他は寛政3年(1791)に再建された。

(18)芭蕉の句碑 文政6年(1823)

(18)芭蕉の句碑 文政6年(1823)

 「このあたり 目に見ゆるもの みなすずし」という松尾芭蕉の句が記されている。

(19)岡本純考墓

 明治8年(1875)に17歳で病死した元多田良村名主家の人の墓。

(20)岩船地蔵

(20)岩船地蔵

 漁業の安全祈願のために、那古の人たちが奉納したもの。約50個の岩船がある。

(21)八大龍王碑 安政3年(1856)

(21)八大龍王碑 安政3年(1856)

 仙台石の碑で、石巻の高橋屋作右衛門らが那古の船仲間とともに廻船の海上安全を願って奉納したもの。

(22)日枝神社

 安永4年(1775)奉納の石燈籠などがある。

(23)手洗石

 寛政5年(1793)に奉納されたもの。

(24)石段袖石

 石段の右側は明治22年(1889)に作られ、左は大正6年(1917)に改築されたときのもの。神社をとり囲んでいる玉垣は大正11年に作られた。

(25)廻国巡礼塔

 全国を廻る修行者六十六部が建てた供養等。

(26)芭蕉の句碑 明治22年(1889)

 松尾芭蕉の二百回忌を追悼して、館山周辺の俳句仲間が建てた。記されているのは「春もやや 気色ととのふ 月と梅」という芭蕉の句。

(27)和田翁記念碑 明治25年(1892)

 農業の振興につくした地元の和田信造をたたえた碑。

(32)閼伽井(あかい)

(32)閼伽井(あかい)

 仏様へ供える水を汲む井戸のこと。元禄地震で倒壊した那古寺が再建されていた宝暦11年の石組みが使われている。となりは弁天様。

式部エリア

(28)紫式部供養塚

 紫式部の墓があるという伝説が残る。ここは古屋敷とよばれるところで、元禄16年(1703)の大地震まで、那古寺の本堂があったところだといわれる。

(29)富士講祠 文化14年(1817)

(29)富士講祠 文化14年(1817)

 富士講とは、富士の神様を信仰する仲間のことで、江戸時代の末に江戸を中心に大流行した。これは地元の山三(ヤマサン)講が祀ったもの。

(30)和泉式部供養塚 明治32年(1899)

(30)和泉式部供養塚 明治32年(1899)

 平安時代の女流歌人、和泉式部の墓といわれる。こうした伝説の地は全国各地にあるが、明治32年頃にここで病気が治ったとのうわさが広まり、大勢の参詣者が来るようになった。塚は、中世の宝篋印塔の基礎を積み上げてつくったもの。

(31)小式部供養塚 明治32年(1899)

 和泉式部の娘、小式部の供養塚。(30)の和泉式部供養塚と同時に建てられた。

(33)和泉式部塚道しるべ

(33)和泉式部塚道しるべ

 潮音台の和泉式部塚への参拝が増えていた明治34年のもの。船形から登る道にも道しるべがあった。


制作:平成9年度博物館実習生
監修 館山市立博物館

崖観音

文化財ガイド 崖の観音 概要

(館山市船形835)

「崖の観音」で有名な大福寺は船形山の中腹にあります。断崖の途中に張り付いて見える赤い舞台造りの観音堂に、「崖の観音様」はいらっしゃいます。

 お寺の由緒では、「崖の観音様」は養老元年(717)に行基がこの地へ来たとき、崖に刻んだと伝えています。その姿からは平安時代中頃に造られたと考えられているようです。船底を臥せた形をしている船形山の観音様は、漁師などが海上安全の守護仏として信仰しています。また安房三十四か所観音霊場のひとつとしても知られています。

 隣には船形の鎮守諏訪神社が鎮座していて、江戸時代までは大福寺が諏訪神社の別当を務めていました。

大福寺エリア

(1)大福寺本堂 昭和2年(1927)

(1)大福寺本堂 昭和2年(1927)

 関東大震災で倒壊して、4年後に再建したもの。正面には獅子と龍の向拝彫刻がある。昭和3年、国分(館山市国分)の彫工後藤義房の作品。

(2)南無大師遍照金剛塔 明治17年(1884)

(2)南無大師遍照金剛塔 明治17年(1884)

 陽宜の書。弘法大師の1050年遠忌に、船形の醍醐新三郎が先祖供養のために建てた碑。

(3)弘法大師供養塔 文政5年(1822)

(3)弘法大師供養塔 文政5年(1822)

 台座に10名の法名が刻まれていて、海難事故の被災者と考えられる。その供養を祈念している塔で、高野山の木食観正に書いてもらった正面の「遍照金剛」とは弘法大師のこと。

(4)川名宗寿墓表 明治40年(1907)

 船形町川名の素封家で、俳人だった川名惣十郎(俳号:梅窓・宗寿)の碑。明治36年没。69歳。撰文は安房中教師の斉藤東湾で、俳句の弟子たちが建てたもの。

(5)日露戦争記念碑 明治39年(1906)

 船形地区から日露戦争に出兵した人の名前を記した碑。出征者87名、戦病死者5名の名前が刻まれている。

(6)延命地蔵尊 寛延3年(1750)

 弘法大師を信仰する船形の大師講の人達(女性が中心)によって作られた丸彫りの像。

(7)津波被災者供養塔 元禄16年(1703)

(7)津波被災者供養塔 元禄16年(1703)

 津波による被災者の供養塔。言い伝えによると、元禄16年11月23日の大地震のとき、船形浦の海上で船を仮泊していて、津波の犠牲になった乗組員7人の供養塔。7人のうち4人 は西宮(兵庫県)出身者である。それぞれの出身地が刻まれている。

(8)廻国供養塔 安永5年(1776)

 日本全国を修行して廻る行者だった船形の顕阿蓮入が、日本廻国を達成して建てた供養塔。

崖の観音堂エリア

(9)石段親柱 明治28年(1895)

 船形の小林小平治が中心になり、神社の氏子中によって神社の階段が整備されたときの親柱。もとは神社にあったと思われる。

(10)石段記念碑

 東京魚河岸有志・船形町魚商組合によって石段が寄進されたときの碑。この地域は漁業に関わりが深いので、海上安全と豊漁を祈願し感謝するためであろう。

(11)石燈籠 明治34年(1901)

(11)石燈籠 明治34年(1901)

 船形の魚商座古六が発起人となり、東京魚河岸の魚問屋によって寄進されたもの。

(12)手水石 文政元年(1818)

 手水石とは神仏を拝むとき、手や口を清める水の入っている石である。船形中宿の6人の女性たちが中心となって寄進したもの。

(13)観音堂 大正14年(1925)

(13)観音堂 大正14年(1925)

 崖から張り出すような堂ができたのは、江戸時代の元禄地震後の復興のときで、大正地震のあとも同じように再建された。観音堂内には、明治39年に船形の人々が寄進した賽銭箱、昭和33年に船形潮俳句会から改築記念に贈られた14作品 の俳句、享保15年(1730)に長狭の佐生勘兵衛によって寄進された御詠歌(船形へ参りてみれば崖作り磯打つ波は千代の数々)の額などがある。観音堂の縁先に立つと、鏡のように波静かな館山湾を一望におさめ、伊豆大島・天城の山々がそ びえる海は、実に風光明媚な眺めである。

諏訪神社エリア

(14)古峯神社 明治14年(1881)

 船形の古峯講の人達によって、火伏せの神(火の用心の神様)として祀られた。石宮は地元船形の石工大和地新兵衛が製作。

(15)諏訪神社

(15)諏訪神社

 この神社は、船形地区の総鎮守で、船形住民の氏神としてあがめられている。各町内の住民は、自分の町内の神社のほかに、ここにもお参りに来る。言いかえれば、船形住民のシンボルであり、地区民の連帯意識を支える重要な役割を果たしている。船形地区で神主さんがいるのはここだけで、各町内の祭典は諏訪神社の神主が儀式を司る。社殿は関東大震災後の昭和2年の再建で、向拝の彫刻も後藤義房による大正15年の作。神号額はその師匠の後藤義信の作。

(16)手水石 元治元年(1864)

石段の下に置かれていたが、関東大震災後の昭和3年10月10日、ここに移された。

(17)狛犬 安政2年(1855)

(17)狛犬 安政2年(1855)

 板屋助三郎・柴田平七が本願主となり寄進された。安房の名工と謳われた元名村(鋸南町元名)石工の武田石翁の作とする棟札が保存されている。傑作と伝わる。

(18)石灯籠 文政10年(1827)

(18)石灯籠 文政10年(1827)

 江戸と内房の魚問屋が奉納した石灯籠で、獅子などの彫刻もある。元名村(鋸南町元名)の金蔵という石工の作品。


平成14年度博物館実習生制作
監修 館山市立博物館