【6】風俗・生業の図

 風景を描いたものや、縁起のよい初夢を描いたものなど画題は幅広い。生業に関しては漁業や舟運が圧倒的に多いが、漁業を描いた絵馬は、当時の漁撈活動を知る上で貴重なものである。鴨川市白滝山不動教会の「白子村地曳網漁干鰯製造図」(図版44)には、一方の曳き網を岡者に持たせ、舟で沖に漕ぎ出して投網し、他方の曳き網を岸辺まで曳き帰る、片手廻し漁法が描かれている。丸山町安馬谷の八幡神社には「三嶋浦地曳網漁図」(図版45)があり、かつては地曳網が盛んであったことがわかる。また、大正10年に南三原まで開通したばかりの鉄道も描かれている。

 【5】参詣・祭礼・境内の図

 社寺参詣を描いた図で、もっともよく見られるのは、伊勢神宮に関連するものである。村々には、仲間内で資金を積み立てて、何年かごとに伊勢に参る「伊勢講」が結成されていた。鋸南町上佐久間日枝神社の「伊勢太々神楽奉納図」(図版37)・「伊勢神宮参詣図」(図版39)は、伊勢参詣の記念に奉納されたものである。

 安房地方で流鏑馬といえば、鴨川市吉保八幡神社がよく知られているが、「流鏑馬図」(図版38)の残る同市坂東八幡神社でも、戦前まで流鏑馬が行われていた。騎者の名も絵馬に記されている。

 【4】神仏の図

 信仰や祈願の対象である神仏の姿をそのまま画題として選ぶことは、絵画の世界に共通してみられるが、絵馬でも奉納された社寺の祭神や本尊、庶民的な恵比寿・大黒や七福神がよく描かれている。

 【3】動物の図

 小型の絵馬に描かれた数々の動物の図は、祈願内容を考えながら眺めると、絵解きのような趣がある。魔除けの意味を持つ「虎図」(図版24)や、虫害防止を願って、虫を食べてくれるミミズクを描いた「鳥図」(図版27)などは、その動物本来の特性を生かした祈願内容で、比較的推察もしやすいが、絵を見ただけでは何を意味するのか、わかりにくいものもある。例えば「鶏雛図」(図版23)は、鶏が夜に鳴かないことから、子供の夜泣き封じに奉ずるもので、「蛸図」(図版26)は、蛸の吸盤で腫物や疣を吸い出してもらおうという祈願である。また「牛図」(図版25)は、牛が食う草(クサ)を瘡(カサ)になぞらえて、これをきれいに治してもらおうという願いが込められている。このほかに、ある特定の動物が信仰の対象となっている場合もある。鰻は、伊豆三島神社の使いとされているほか、虚空蔵菩薩に関連する土地に住むものは、これを食べないなど、神仏との関わりが深い。鰻を描いた絵馬は、安産や子授けを願ったものであるが、「鰻蟹図」(図版22)には、これに加えて、生まれた子供が蟹のように早く這うことができるようにという成育祈願の意味も含まれている。いずれにしても、個人的な祈願が第三者に容易に悟られないように、まるで謎掛けのような図柄となっているのである。

 【2】祈願の図

 小型の絵馬は、奉納者の個人的な願いを託したものが大半であるため、図柄・内容ともに種類が豊富であるが、そのなかでも最も多く見られるものが、祈願の図である。これは、人物の礼拝姿を描いたもので、構図には一定の形式があるものの、拝む人物の数や衣服、あるいは拝む対象によって数々のバリエーションが生まれ、時代の風俗も読み取ることができる。また、他人に祈願内容を悟られないように、背景の中に祈願の意図を含めるような配慮がなされているものもある。

 眼病平癒祈願の絵馬は、関東地方を中心に薬師様でよく見られるものの一つである。その多くが「め」という字を描いた図柄となっているが、富浦町常光寺の「眼病平癒報謝図」(図版18)は、その祈願の様子を描いたものであり、願いが叶い直ちに治りましたという、薬師様への感謝を意味している。

 幼児を抱えた婦人が乳を絞り出している図柄は、一般に「乳しぼり」と呼ばれているものである。これは、乳のでない人が授かりに、あるいは乳のあり余る人が預けにまいる際に奉ずる絵馬であり、富浦町の真勝寺(図版19)にその数が多い。

 断ち事の祈願には、錠を描いたものがある。江戸時代末に、心という字に錠を掛けた絵馬が掲げられて一躍評判になったことから、この種の絵馬が普及した。賽に錠の図は賭博(図版20)を、樽に錠の図は飲酒(図版21)を、それぞれやめようと誓ったものであろう。

安房地方の絵馬に描かれた画題
 【1】馬の図

 絵馬発生の原点ともいえる馬の図は、数の上ではさほどではないにしろ、描かれる画題のなかではやはりポピュラーな位置を占める。図柄や構図は作者によって様々であり、彩色を施した躍動感あふれるものもあれば、墨一色のシンプルな筆使いのもの、馬を曳く人物を合わせて描いたものなどがある。

安房地方の絵馬

 館山市立博物館が、当企画展に先立ち行った絵馬調査により、安房地方の99ヵ所以上の社寺に、445点以上の絵馬が残されていることが確認できた(「安房地方所在絵馬一覧」参照)。虫神信仰がある和田町宝性院では、おびただしい数のとり図の小絵馬が残されており、一覧にはその一部を示したのみなので、実数は1,000枚以上に達すると思われる。絵馬の残されている社寺の分布をみると、市町村によって数の多少はあるが、安房地方一円に絵馬奉納の風習があったことがわかる。

 調査の過程で大変残念であったことは、盗まれて紛失してしまった絵馬や、あるいは社殿・堂などの改築時に燃やされてしまった絵馬が、数多くあるということであった。絵馬は、それぞれの時代に生きた人々の赤裸な心情や、文献記録には残らない民衆の姿を窺い知ることができる、貴重なふるさとの歴史資料である。現代に生きる私たちが、大切に保存していかなけばいけないことを、あらためて認識した。

 このような状況のなかで、紀年銘から江戸時代の絵馬と特定できるものを、57点確認できた。さらに大きな収穫は、調査前までは安房地方最古の絵馬であった、享保十年(1725)の銘がある館山市那古寺の「古今兄弟兵曽我草摺引図」(図版52)を溯る、17世紀代の絵馬を4点発見したことである。最も古い絵馬は、鴨川市薬王院に奉納されている「武者図」(図版55)で、慶長15年(1610)の銘がある。紀年銘はないが、「武者図」(図版54)と一対になるものと思われ、この「武者図」二面は、里見氏の家臣上野氏に属した富田多兵衛が奉納したものである。さらにこの薬王院には、正保五年(1648)銘の「弁慶と牛若丸図」(図版57)がある。また、鴨川市大山寺の「繋馬図」(図版2)には、承応二年(1653)の銘がある。

 18世紀代の紀年銘のある絵馬は、前述した館山市那古寺の「古今兄弟兵曽我草摺引図」、天津小湊町清澄寺の「韓信の股くぐり図」〔安永三年(1774)〕、富浦町常光寺の「常光寺薬師堂図」〔天明二年(1782)〕、館山市国府寺の「孝子伴直家主図」〔寛政二年(1790)〕(図版61)、寛政十年(1798)の銘がある鋸南町鶴ヶ崎神社の「義経弓流図」(図版58)の5点のみである。文化文政期(1804~1830)以降には、紀年銘のある絵馬は急増する。この傾向は明治時代まで続き、とくに明治時代には薬師や不動への信仰が盛んになった様子が窺えるが、大正時代にはいると絵馬の奉納は激滅する。

 絵馬の奉納者は庶民がほとんどで、武士階級からの奉納はきわめて少ない。また絵師のなかには、安房地区で活躍した人々の名がみえる。鋸山の五百羅漢石像造立に携わった大野英令や、寛政期から天保期の作品を残し、作画の基礎テキストである「画法式」を作成した勝山調、幕末に館山藩の画学教授をつとめた川名楽山、幕末から明治初期を作画期とする市井の画家渡辺雲洋などがそうである。

鴨川市薬王院薬師堂の絵馬奉納風景

鴨川市薬王院薬師堂の絵馬奉納風景

絵馬とは何か

 絵馬奉納の歴史は古い。現在確認しうる最古のものは、奈良県平城京跡から発見された、奈良時代初期の天平年間のものと思われる小型の絵馬である。この絵馬には、鞍をつけ、赤い彩色の施された馬の姿が描かれ、泥障には模様まで見ることができる。まさに、本格的な絵画が描かれている。

 そもそもわが国では、馬は神の乗り物として神聖視されており、生きた馬を神に献上する風習が存在していた。このことは、『常陸国風土記』や『続日本紀』などをはじめ、多くの文献に記されている。

 こうした献馬の風習の一方で、生きた馬の代わりに「馬形」を献上することも行われていた。これは全国各地での土馬の出土例に示されるばかりでなく、『肥前国風土記』や『続日本紀』などにも記されている。馬形は土製のほかに木製のものがあるが、これを簡略化して、馬形の板に彩色を施した「板立馬」を奉納することも行われた。生きた馬の献上は、それに付随する飼育料もあわせるとかなりの負担となり、これに変わるものとして馬形の献上が行われたと考えられている。そして、こうした馬形がさらに略されて、絵に描かれたものとなり、これが「絵馬」の起こりとされているのである。

 平安時代から鎌倉・南北朝期にかけての絵馬奉納の様子は、数多くの絵巻物に描かれた情景によって知ることができる。平安時代末から普及した神仏習合の思想の影響で、神社に対してのみであった絵馬の奉納が、寺院に対しても行われるようになってくる。

 絵馬の形状や画題が大きく変わるのは、室町時代末期のことである。馬が描かれるばかりでなく、仏教的なものや念仏踊りのような風俗も、画題として選ばれるようになる。また形状が大きくなり、画家や専門絵師が自らの名を画面に記すといった、芸術作品の性格を帯びるものも現れる。絵馬の大型化は近世以降さらに顕著になり、神社の拝殿や、絵馬堂に掲げられる扁額形式のものが、急速に広まった。

 この一方で、古代・中世からの流れである小型の吊懸式の絵馬は、個人の手により小さな祠やお堂に奉納されるなど、人々の生活の中に根づいていく。これらの小絵馬には、馬、神仏、干支のほか、拝み姿や祈願内容などが描かれている。個人の願いを託したものであるため、内容、図柄ともに実に様々である。小絵馬の図柄は、民間信仰の広まりとともに江戸時代中期以降、ますますバラエティーに富んだものとなる。

 こうした小絵馬の普及は、大絵馬へも少なからず影響を及ぼした。それまで大絵馬は、大名や豪商といった特定の個人による奉納が主であったが、江戸時代中期以降は、村中や講集団、同業者など庶民による奉納が多く見られるようになる。その内容も農耕、年中行事、社寺参詣といった生活全般に関係するようになる。これらの絵馬は、当時の社会・風俗を知る上で貴重な手がかりを与えてくれるばかりでなく、人々の素朴な祈りの姿を示しているのである。これは、現代に生きる我々にも通じている。

日本ハムファイターズの優勝祈願絵馬

日本ハムファイターズの優勝祈願絵馬
(天津小湊町神明神社)

目次

絵馬とは何か
安房地方の絵馬
安房地方の絵馬に描かれた画題
【1】 馬の図
【2】 祈願の図
【3】 動物の図
【4】 神仏の図
【5】 参詣・祭礼・境内の図
【6】 風俗・生業の図
【7】 芸能・文芸の図
【8】 歴史・故事・伝説の図
安房地方所在絵馬一覧

ごあいさつ

 人々の生活の中には、いつも身近に神や仏の存在を感じ、祈り感謝するという気持ちがあります。神仏に対する信仰は形のないものですが、その祈りや感謝の気持ちを、絵馬という形にして表し、神社やお寺に奉納することがおこなわれました。

 いまも大きな神社や寺院にいくと、受験生の合格祈願を中心に絵馬の奉納がおこなわれています。しかし、身近にあるふるさとの小さな社やお堂にも、かつて救いを求めた人々によって納められた絵馬が、いまもひっそりと息づいています。

 この企画展では、安房地方の社寺や小さなお堂に残されている絵馬を紹介するなかから、人々が絵馬に託した願い、あるいは絵馬に映し出された風俗などをとおして、江戸時代以降の人々の生活を見つめてみたいと思います。

 なお、本展の開催にあたり、多くの方々よりさまざまな情報をいただき、また所蔵者の方々には快く資料の出陳をご承諾いただきました。厚くお礼申し上げます。

 平成4年10月10日
館山市立博物館長 松田昌久