(1)古墳時代の豪族

 古墳時代の安房地方では、墳丘のような大きな古墳はあまり造られず、有力な豪族は海食洞穴を古墳のかわりにして葬られたようです。昭和10年に館山の北下台(ぼっけだい)洞穴で人骨や刀が掘り出され、副葬品としての勾玉や菅玉が残されていますが、ほかにも出野尾洞穴・鉈切洞穴・大寺山洞穴が墓として利用されました。

 とりわけ大寺山洞穴には12基の舟形木棺が安置され、三角板革綴(かわとじ)式の甲冑が副葬されていたことが注目されています。5世紀前半に畿内の大王に服属してから、7世紀前半に至るまでの何世代にもわたって、この洞穴墓に舟形木棺を据え続けた豪族がいたということです。古墳を造らず洞穴に葬るところに他界観へのこだわりがみられます。鏡ヶ浦に面したこの墓の主は、東京湾出入口の海上を活動の場とする海人族のリーダーだったようです。その役割をもって大和朝廷の関東進出を支えた勢力になったのだと思われます。「淡水門(あわのみなと)」として海上交通の要衝だった鏡ヶ浦を支配した勢力が、この地域の有力者になったのです。

101.館山北下台(館山市館山)出土遺物 古墳時代
 東京国立博物館蔵 Image:TNM Image Archives Source:http://TnmArchives.jp/
  ※以下101の写真

101.土師器鉢(11)
101.土師器鉢(11)
101.銅釧(10)
101.銅釧(10)
101.瑪瑙勾玉(9)
101.瑪瑙勾玉(9)
101.須恵器広口壺(12)
101.須恵器広口壺(12)
101.碧玉菅玉(8)
101.碧玉菅玉(8)
大寺山洞穴(館山市沼)

大寺山洞穴(館山市沼)

102.大寺山洞穴出土遺物 古墳時代
  ※以下102の写真

102.土師器・須恵器
102.土師器・須恵器
102.よろいの一部(横矧板鋲留短甲片)
102.よろいの一部(横矧板鋲留短甲片)
103.大寺山洞穴船形木棺の出土状況

103.大寺山洞穴船形木棺の出土状況

【7】鏡ヶ浦をめぐる権力

 古代から近世にいたるまで、館山平野には安房国を支配するための政治拠点がおかれてきました。古代の国府にはじまり、戦国時代の里見氏の居城、江戸時代の大名支配の陣屋などは、いずれも鏡ヶ浦の湊につながる場所に位置していました。このことは、安房国では鏡ヶ浦が、海上交通の要衝としての役割を果たし、湊とともに権力が存在していたことを物語っています。

 (3)鏡ヶ浦を行き来する人々

 江戸時代になると、鏡ヶ浦には、そこに生活する人々や輸送や交易で出入りする人々ばかりでなく、社寺への参詣人や見聞を広める文人などの旅人も多く訪れるようになりました。

 右の古文書では、江戸時代の前半には那古寺門前の浜から、江戸へ往く人・観音への参詣者・諸国へ巡礼に出る人など、各地へ行く人々を乗せる船が出ていたことを伝えています。

 安房南部の人々が諸国へ出掛けるときには、鏡ヶ浦の北辺にある那古や船形から船に乗って三浦半島へ渡りました。少しでも三浦半島に近づくために、便船(びんせん)をさがして富山町の高崎や富津市の竹岡から船に乗ることもありました。

 明治になって汽船の時代になると乗船地が指定されたため、湾南辺の館山からも多くの人が乗るようになり、また直接海路で館山へ訪れる旅行者もふえていきました。

96.那古村那古寺境論返答書 寛文11年(1671)

96.那古村那古寺境論返答書 寛文11年(1671)

97.諸国参詣道中日記 天保15年(1844)
97.諸国参詣道中日記 天保15年(1844)<那古から渡海船で浦賀へ向かっている>
98.伊勢参宮中日記 明治42年(1908)
98.伊勢参宮中日記 明治42年(1908)<館山から汽船で横須賀へ向かっている>

 (2)鏡ヶ浦の中世文化

 鎌倉時代・室町時代を通して、鎌倉が関東の政治・文化の中心となると、東京湾を挟んで身近にある安房地方は、強いつながりを持つようになりました。

 近年、房総半島南部にも数多く分布することが確認された「やぐら」も、鏡ヶ浦・館山平野周辺には濃密に分布しています。鎌倉の社寺や北条氏・足利氏のような有力者の所領が多くあったり、鎌倉の律宗寺院の活動が活発に行なわれていたことと関係するのか、在地の武士が鎌倉の強い影響を受けているのか、詳しいことはまだわかっていませんが、鎌倉とのつながりがあることだけは確かです。

 出野尾(いでのお)の小網寺に伝わる鎌倉時代の密教法具も、北条一族の金沢氏の菩提寺称名寺を開いた審海が所有していたものです。小網寺の鎌倉時代の梵鐘も、北条氏ゆかりの寺院の梵鐘をつくった鋳物師物部国光(もののべのくにみつ)の作です。鏡ヶ浦がこうした鎌倉文化をはこんできていたのです。

やぐら(館山市腰越 延命院)

やぐら(館山市腰越 延命院)

94.「金沢 審海」の銘がある羯磨台

94.「金沢 審海」の銘がある羯磨台
(小網寺密教法具)
鎌倉時代

94.五鈷鈴・五鈷杵

94.五鈷鈴・五鈷杵
(小網寺密教法具)
鎌倉時代

95.城山下(館山市館山)出土遺物 ※以下95の写真
 東京国立博物館蔵 Image:TNM Image Archives Source:http://TnmArchives.jp/
 城山公園の南麓にある「ウバガミサマ」(通称八遺臣の墓)に五輪塔が並べられている。明治34年に掘り出されたもので、そのときに「瓶」7個が出土した。それがこれらの陶磁器と思われる。この場所は「やぐら」が崩れて埋もれたところと考えられ、陶磁器はこれを愛用した人物の骨蔵器として利用された。室町時代頃のこの地域の有力武士のものと思われるが、この宋代の白磁や常滑焼は、海上の流通ルートで高の島湊へ運ばれてきたのだろう。

95.白磁四耳壺(2) 南宋~元
95.白磁四耳壺(2) 南宋~元
95.褐釉柏葉文瓶子(4) 14世紀
95.褐釉柏葉文瓶子(4) 14世紀
95.片口鉢(6) 14世紀
95.片口鉢(6) 14世紀
95.白磁四耳壺(3) 南宋~元
95.白磁四耳壺(3) 南宋~元
95.常滑焼自然釉大壺(5) 14世紀
95.常滑焼自然釉大壺(5) 14世紀

 (1)鏡ヶ浦の生活

 海と陸からの自然の恵みが多い鏡ヶ浦周辺では、縄文時代に多くの集落があったことが遺跡の分布から想像できます。鉈切洞穴は漁のためのキャンプだったらしく、土器片錘(へんすい)という網につけるおもりや釣針や銛などの漁撈関連の道具が出土しています。またゴミとして残った貝殻や魚の骨などもあり、その骨からは、かなり沖合いまで出てマダイやマグロなども獲っていたことがわかります。土器は南関東から西に多く分布する称名寺式とよばれる様式の土器が出ています。加賀名遺跡では古墳時代の土師器(はじき)の甕が伊豆から三浦半島にかけて分布する様式のものです。古代の人々は相模湾を中心に、漁や交易のために船に乗って行き来をしていたことがわかります。

 奈良・平安時代になると海産物にめぐまれた安房国では、特産物として納める年貢に「アワビ」が指定されていました。館山平野の奥にある大井・片岡(館山市九重地区)の人たちもアワビを納めていたことが、奈良の平城京から出土した木簡という荷札でわかります。

 江戸時代になると、先進技術としての大規模な網漁をする関西地方の漁師が房総に進出してきました。彼らは漁を自給のためでなく、鰯や鯛を中心に産業として行ないました。やがて江戸やその周辺で鮮魚や干鰯(ほしか)の需要が高まると、江戸中期には房総の沿岸村々でもその技術を習得して、漁業が盛んになっていきます。鏡ヶ浦でも漁や生魚の輸送などで生計をたてる人々が増えていきました。生魚は小買商人が漁師から買い付け、押送船の輸送業者に江戸の魚問屋まで運ばせるというシステムもできあがりました。

鉈切洞穴(館山市浜田)

鉈切洞穴(館山市浜田)

鉈切洞穴出土遺物 縄文時代 ※以下84、4枚の写真

84.骨や角でつくった釣針・ヤス・銛
84.骨や角でつくった釣針・ヤス・銛
84.縄文時代の魚骨
84.縄文時代の魚骨
84.網のおもりにした土器片錘
84.網のおもりにした土器片錘
84.縄文時代の貝類
84.縄文時代の貝類
86.さんま網漁図 勝山調画
86.さんま網漁図 勝山調画
87.かつおの流し鈎図 文化6年(1809)勝山調画
87.かつおの流し鈎図 文化6年(1809)勝山調画
88.那古海岸の漁船(大正時代)

88.那古海岸の漁船(大正時代)

 ドビンカゴという大きな生け簀篭を積んでいる。サバやカツオの一本釣り漁の撒き餌にするイワシを入れて、海に浮かせて生かしておくもの。

89.館山海岸の漁船(昭和初期)

89.館山海岸の漁船(昭和初期)

 北下台下の浜に引き揚げられた漁船。地引網船だろうか。

90.鏡ヶ浦での鯨漁(明治末~大正)
90.鏡ヶ浦での鯨漁(明治末~大正)
91.館山海岸に揚がった鯨(明治末~大正前半)
91.館山海岸に揚がった鯨(明治末~大正前半)

 写真90、91 江戸時代までの鯨漁は勝山(鋸南町)が中心だったが、明治になって館山海岸に東海漁業などの捕鯨基地ができ、鏡ヶ浦に拠点が移ってきた。湾内に鯨の群れが入ることも多く、明治34年には4、5百頭の鯨が入って捕獲され、話題になっている。漁期が海水浴時期とかさなり、解体処理の際には血で海が真っ赤に染まった。会社は大正地震後に白浜へ移転した。

92.地引網漁(昭和初期)

92.地引網漁(昭和初期)

 北条海岸あたりでの地引網。篭をもって近付く人がいる。平久里川・汐入川の河口付近が好漁場で、イワシやアジ・サバ・イナダなどを対象にした。

93.煮干づくり(昭和初期)

93.煮干づくり(昭和初期)

 北条海岸でイワシを簀子にのせて干しているようす。イワシは煮干や干鰯に加工して東京方面へ出荷した。干鰯は江戸時代から田の肥料となる重要な産品だった。

【6】鏡ヶ浦をめぐる生活と文化

 耕地や丘陵を背負う半島の海岸部では陸と海の生活が営まれ、そのなかで鏡ヶ浦は、海の幸を人々にもたらしてくれました。魚貝類や海藻類・塩などは、食料となり、肥料燃料となり、商品ともなって、鏡ヶ浦周辺の人々の生活の糧になっていました。

 また海は道となり、海を越えてさまざまな文物がもたらされ、多くの人々が往き来をしました。長い歴史をとおして、東京湾西岸や東海地方、関西地方などの文化的な影響や交流のなかから、この地域の文化がつくりだされてきました。

  洲崎大明神ゆかりの神社

 横浜市港南区には、安房の洲崎明神が飛来した場所に社を立てたという由緒をもつ安房洲明神社がありました。現在は天照大神社(横浜市港南区江南)に合祀されています。

 三浦半島には、洲崎大明神を祀らなくとも、洲崎との関係をもつ神社があります。浦賀湊の西の丘陵上にある吉井には安房口明神と呼ぶ神社があります。社殿はなく、御神体とする石が祀られています。この石には、竜宮から洲崎大明神へ奉納されたふたつの石のひとつが飛来したとの伝承があります。口のようなくぼみをもった石の正面が、安房の方を向いていることからついた社名だといわれています。もうひとつの石は洲崎神社の浜の鳥居の下の海岸にあります。口を閉じたような形の、同じような大きさの石です。洲崎では、三浦半島にある石とは「阿吽(あうん)」で対になるといわれています。

 また三浦市城ヶ島の安房崎にある洲御前(すのみさき)社は、洲崎明神と対峙することからこの名があるとされ、洲崎と三浦半島が東京湾の出入口にあることが意識されています。

安房洲崎神社浜の鳥居下にある神体石

安房洲崎神社浜の鳥居下にある神体石

安房口神社(横須賀市吉井)の神体石

安房口神社(横須賀市吉井)の神体石

83.相州西浦賀村図(西へ山越えをしたところに吉井明神がある。安房口神社であろう。)
83.相州西浦賀村図(西へ山越えをしたところに吉井明神がある。安房口神社であろう。)

  神奈川の洲崎明神

 横浜駅のすぐ北方向にある洲崎神社も天太玉命(あめのふとだまのみこと)とともに天比理乃咩命(あめのひりのひめのみこと)を祭神にしています。源頼朝が安房から勧請して祀ったと伝えられ、祭礼の浜下りで神輿が海に入るのは、安房の本霊と会合するためだといわれています。神社の前に広がっていた入海が神奈川湊で、ここも中世には品川と並ぶ大きな港湾都市として栄えたところです。神社周辺が湊の中心地で、荷の積み降ろしが行なわれていました。市(いち)の神の性質をもっていたとも考えられています。

現在の洲崎神社(横浜市神奈川区青木)

現在の洲崎神社(横浜市神奈川区青木)

81.神奈川宿洲崎明神(『江戸名所図会』)

81.神奈川宿洲崎明神(『江戸名所図会』) 国立公文書館蔵

82.神奈川台石崎楼上十五景一望之図 安政5年(1585)
82.神奈川台石崎楼上十五景一望之図 安政5年(1585) 神奈川県立歴史博物館蔵

  品川の洲崎明神

 江戸時代には、太田道潅が勧請した牛頭天王の祭礼で知られていましたが、洲崎明神とも呼ばれ、現在の品川神社は天比理乃咩命を祭神にしています。品川は中世には、伊勢や紀伊方面などから多くの物資が運び込まれた東京湾屈指の港湾都市でした。ここには市が立ち、関東平野の河川交通への荷の積み替えが行なわれました。室町時代、この港町に安房から洲崎明神が勧請されたのです。

80.品川神社の御神影 品川神社蔵

80.品川神社の御神影 品川神社蔵

現在の品川神社(品川区北品川)

現在の品川神社(品川区北品川)

  江戸の洲崎明神

 『永享記』には「神田の牛頭天王(ごずてんのう)、洲崎大明神は、安房洲崎明神と一体」とあります。これは神田明神のこととされていますが、現在牛頭天王は祀るものの、天比理乃咩命は祀られていません。太田道潅が洲崎明神を勧請(かんじょう)した頃の神田明神は、入江状になっていた芝崎(大手町付近)にあったといい、そこは海に面した場所でした。

現在の神田神社(千代田区外神田)

現在の神田神社(千代田区外神田)