【1】鏡ヶ浦の立地と景観
 (1)鏡ヶ浦の姿

 房総半島の先端が西へ鈎の手状に曲ったところが洲崎の岬。その岬によって太平洋と隔てられている館山湾の通称が鏡ヶ浦です。まるい形をしたこの湾が、対岸の富士山を映し出すほど平らに波静かなことから名付けられた美称です。まるで鏡のようだということです。波の荒い外海からこの湾へ入ってくると、その穏やかさをなおさら感じたことでしょう。

 地形をみると、湾を包む腕のようにのびている北の大房岬と南の洲崎は、海に面して急峻な崖肌をみせ、両岬から東に向かって岩礁と砂浜が交互していき、湾の奥が4kmにおよぶ弓なりの砂浜になっています。かつては船形から柏崎までいたる6kmにおよぶ砂浜がありました。また海上自衛隊の隅にある高の島と沖の島は、かつては湾上に並び浮かんで、鏡ヶ浦の景観をひきしめていました。

 地図でみると、鏡ヶ浦は東京湾の出入口にあることがよくわかります。三浦半島の三浦三崎と房総半島の洲崎が東京湾の門となり、鏡ヶ浦は東京湾へ入って一息つく玄関の位置にあるといえます。東京湾は古代から交通路として重要な役割をもっていました。その東京湾の出入口に位置する鏡ヶ浦は、そこに暮らす人々の生活がある一方で、安房地方の玄関口として、人や物や文化などの行き来がありました。

1.関東八ヶ国絵図(部分)
1.関東八ヶ国絵図(部分)
当館蔵
2.享保6年写館山湾沿岸絵図
2.享保6年写館山湾沿岸絵図
個人蔵

 1721年に写された絵図だが、原図は元禄16年(1703)の大地震以前に描かれたとされている。地震による隆起が起こる前の図で、那古山や館山の北下台・大賀のビリドの鼻などが、岬状になって海へ突き出している様子がわかる。

3.房州鏡浦略図 明治22年(1889年)
3.房州鏡浦略図 明治22年(1889年)
当館蔵
4.絵はがき「房州 鏡ヶ浦湾ノ全景」(明治末~大正初期)
4.絵はがき「房州 鏡ヶ浦湾ノ全景」(明治末~大正初期)
個人蔵

 城山から見た鏡ヶ浦。写真右側手前の家並みは楠見、写真左側の家並みが上須賀(現在のバス通り沿い)。中央で海岸に接している森は北下台。観音堂と墓地がみえる。右端の海寄りは新井から北条の海辺。桟橋は汐入川河口の北条桟橋である左端に浮かぶのは高の島で、館山地区寄りの湾の東南に数多くの船が係留している。二本の帆柱を立てている船は、東京湾内の廻船として東京と行き来していたトーケイ船(五大力船)。

5.絵はがき「(安房名所)鏡ヶ浦全景」(大正震災前)
5.絵はがき「(安房名所)鏡ヶ浦全景」(大正震災前)
個人蔵

 沼の大寺山から見た鏡ヶ浦。町並みは柏崎で、手前の畑は海岸段丘のひとつ。中央に三階建ての建物がある。明治22年の紀行文に料理屋の佐野屋(宿屋)が三層とあるが、位置が違う。料理屋の島見桜であろうか。高の島の東、柏崎から館山にかけての海域に船が輻湊している。右側に見える桟橋は館山桟橋であろう。

ごあいさつ

 わたしたちが住む安房地方は、海に囲まれた海の国です。半島の先端は、かつて海を介してさまざまな地域と交流をしてきました。半島には海の駅ともいうべき湊があり、そこに人・物・情報そして富が集まり、権力がうみだされました。安房の権力は湊とともに存在していました。それが安房の歴史的な特性だったといえます。安房では海上を主要な交通路にして、海とともに歴史が展開してきているのです。

 とりわけ、鏡ヶ浦とよばれる館山湾がもつ歴史的な役割には大きなものがありました。歴史上、館山平野に安房地方の政治の中心地が集中しているのは、鏡ヶ浦があるからだといえるでしょう。

 かつて鏡ヶ浦には多くの人々が行き交い、周辺地域の人々の生活もさまざまなかたちでつながりをもっていました。

 現在鏡ヶ浦では、ビーチ利用促進モデル事業が進められ、さらに館山港が特定地域振興重要港湾に選定されるなど、新たな注目を集めてきています。また館山市では、平成13年度を初年度として策定された館山市総合計画で、「館山新世紀発展プラン」のなかで「交流・交易のまちづくりと館山湾の活用」と位置付け、海辺のまちづくりを進めていくようになっています。

 そこで今回の企画展では、わたしたちが住む地域が、海を介してさまざまな地域と交流をしてきた歴史と、海とともに展開してきた歴史を、鏡ヶ浦の周辺から見つめ、館山市の歴史のなかで果たした鏡ヶ浦の役割を考えてみたいと思います。

 なお、本展の開催にあたり、多くの方々よりさまざまな情報をいただき、また貴重な資料をご出品いただきました。ご協力を賜りました皆様に、厚くお礼申し上げます。


平成14年2月9日
館山市立博物館長 吉田信明

凡例

  • この図録は、平成14年2月9日から3月24日までを会期とし、館山市立博物館が主催する企画展「鏡ヶ浦をめぐる歴史」の展示図録である。
  • 本書の図版番号と展示室の陳列構成は、レイアウトの都合上必ずしも一致しない。
  • 本展の企画および、図録の編集執筆は、学芸係長岡田晃司が担当した。