<安房の俳人たち>

 江戸時代中期以降の安房地域の俳人は、複数の作者の句が掲載される選集などで確認することが出来ます。また奉額と呼ばれる社寺への奉納俳諧額にも、地域の俳人が大勢顔を揃え、俳諧の広がりをうかがい知ることができます。そうしたなかから宗匠として地域リーダーの役割を果たしていた人々を中心に、昭和初期までの俳人たちを紹介します。

56.奉納俳諧額 文政8年(1825)  湯浴堂蔵
56.奉納俳諧額 文政8年(1825)  湯浴堂蔵

《湯浴堂の奉額》 不入斗村(富山町)の心画という俳人が催主となり、村内の友人8人が補助として奉納した。船形村大福寺の臥猪庵露守が撰者を務めている。近隣の友人24人のほか、安房地域の広範囲にわたって主要な地域宗匠の名が見られる。伊勢桑名に転居した井上杉長はじめ、磯村の尾崎鳥周・平館の石井平雄・下滝田の智恩院台重・宮下の素共・山下の無量院百羅・本織の関口馬適・谷向の鈴木木章・金尾谷の吉田文茂・勝山の武田風至・大崩の満蔵寺買風などであるが、江戸の俳人も小林一茶をはじめ、信州出身の月院舎何丸・八巣庵蕉雨、何丸の庇護者小青軒抱儀、一茶と師を同じくする夢々庵玄阿が句を寄せていて、一茶との関わりのある俳人が多い。

56.同上奉額頌(奉納由来記)

56.同上奉額頌(奉納由来記)

 湯浴堂の額を奉納した由来を書いたもの。催主の心画が思い病の床にあったとき、夢に薬師が現れ俳句を捧げている自分の姿を見たところ、病が癒えたとして感謝している。高崎の湯浴堂は温泉を備える薬師堂だった。

57.『房陽郡郷考』 嘉永3年(1850)  千葉県立中央図書館蔵

57.『房陽郡郷考』 嘉永3年(1850)  千葉県立中央図書館蔵
 国学者であり俳人である木更津の鳥海酔車が著した安房国の地誌。巻末の付録には安房の俳人151人の作品が郡別に並んでいる。

58.『国分集 安房之部』 弘化3年(1846年)  船橋市西図書館蔵(無断転載禁止)
58.『国分集 安房之部』 弘化3年(1846)  船橋市西図書館蔵(無断転載禁止)

《国分集安房之部》 安房の俳人208人が作品を寄せている選集で、弘化3年(1846)に笠栖素行という俳人が刊行した。素行については不明。安房国正木村(館山市)の桂庵高梨文酬の書で、江戸の為誰庵由誓の序が記されている。「人名録」があり、俳人の村名ほか別号や姓の記載がある俳人もいる。

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38.万里『旦暮帖』(宗拱三節)   加藤定彦氏蔵

38.万里『旦暮帖』(宗拱三節)   加藤定彦氏蔵

【摩尼窟宗拱】 法印寛榮。朝夷郡平磯村(千倉町)坂本家に、宝暦8年(1785)に生まれる。平磯村観養院十四世住職。江戸の二世採荼庵梅人の門人。特冑庵。享和2年(1802)に境内へ梅人塚を造立。文化14年(1817)11月3日没。60歳。宗拱編の『摩尼屑』が山口郁賀の校正によって文政6年(1823)に刊行されている。

54.杉長短冊   座間恒氏蔵

54.杉長短冊   座間恒氏蔵

【瓢庵杉長】 井上良珉。明和7年(1770)、朝夷郡久保村(千倉町)生まれ。井上四郎兵衛の子。医師。二世採荼庵梅人の門人。別号九華。一茶の二度の訪問をうける。享和3年(1803)、梅人の三回忌集『水の音』編。文化4年(1807)、『梅人句集』編。文化8年に隠居し、房総海岸警備の任にあった白河藩の梅ヶ丘陣屋(千倉町白子)に医師として出仕、文政3年(1820)に家臣となり、文政6年の桑名移封に従う。文政11年(1828)2月15日に桑名で没。59歳。戒定院解脱良恵居士。文政5年、安馬谷の福性院に門人竹由による杉長句碑、天保4年(1833)には野島崎に門人宇明・平雄・方壺・杉奴らによる杉長墳と句碑が建てられている。辞世「蝶を追ふこころもちたしいつまても」。墓は雲龍寺。

59.井上杉長肖像画   井上薫夫氏蔵

59.井上杉長肖像画   井上薫夫氏蔵

60.臥猪庵露守宛井上杉長書状  常光寺蔵

60.臥猪庵露守宛井上杉長書状
 常光寺蔵

42.『梅人句集』(都賀の序)  加藤定彦氏蔵

42.『梅人句集』(都賀の序)  加藤定彦氏蔵

【野松庵郁賀】 山口善右衛門。朝夷軍平磯村(千倉町)の人。和田義盛の末裔を称す。二世採荼庵梅人の門人。文化4年(1807)、『梅人句集』を杉長と共編。同年に宗拱と『花声集』を共編刊行。文政10年(1827)6月3日没。實智明範居士。

54.莫非短冊   座間恒氏蔵

54.莫非短冊   座間恒氏蔵

【芝英園莫非】 安馬谷村(丸山町)の人。二世採荼庵梅人の門人。『梅人句集』の跋文を書いている。詳細不詳。

61.也草遺句集『昨露集』  加藤定彦氏蔵
61.也草遺句集『昨露集』  加藤定彦氏蔵

【昨露庵也草】 法印良戒。天明元年(1781)生まれ。朝夷郡川合村(千倉町)地蔵院十一世。権大僧都。字は孝順。文化13年2月6日没。36歳。同年、岡田村の其則・井上杉長によって追善の遺句集『昨露集』が刊行されている。門人に竹由・三斎・等輯。辞世「夕暮のかねも命もつきはてヽなりたきまヽになる我身かな」

和田町沼.沼蓮寺の三斎句碑

和田町沼.沼蓮寺の三斎句碑

【七浦庵三斎】 法印道瑜。朝夷分川戸(千倉町)生まれ。鈴木安左衛門の子。字は智洞。朝夷郡沼村(和田町)の赤坂山沼蓮寺十四世。川合村地蔵院の也草門人。天保10年(1839)11月17日没。翌年8月に尾崎鳥周・石井平雄・井上宇明らにより浜波太村に句碑が建立される。三回忌には小戸連・沼連が催主となり、沼蓮寺境内に句碑を建立。「隔たるや月には山のよい程に」

62.元亥追善集『月嶋集』   正木高明氏蔵

62.元亥追善集『月嶋集』   正木高明氏蔵

【二世瓢庵元亥】 朝夷郡平館村(千倉町)の人。二世瓢庵を名乗る。のち牧野菊由に譲って月嶋舎と称す。菊由が七回忌に追善句集『月嶋集』を刊行。平館の石井平雄が改名したと思われるが、不詳。

63.元亥の採点帖   当館蔵

63.元亥の採点帖   当館蔵

54.元亥短冊   座間恒氏蔵

54.元亥短冊   座間恒氏蔵

【瓢庵平雄】 石井宇門。朝夷郡平館村(千倉町)生まれ。石井新兵衛の子。医師で、画・彫刻にも長じる。井上杉長の門人。杉長の瓢庵を継いでいる。文政6年(1823)、同門竹由の『竹由発句集』編。元治2年(1865)2月21日没。仁徳平雄居士。畑(館山市)の瑞龍院には孫乙次郎が明治33年(1900)に建立した句碑がある。「澄かきりすむや河鹿のゆふ流」

64.閑々追善集『月の名残』万延元年(1860)  吉田毅氏蔵
64.閑々追善集『月の名残』万延元年(1860)  吉田毅氏蔵

【澹泊園閑々】 法印栄道。天明7年(1787)、朝夷郡川戸村(千倉町)生まれ。本名は吉田勘左衛門。井上杉長の門人。二世瓢庵元亥より澹泊園の号を贈られる。のち剃髪して瀬戸村(千倉町)建仁寺の住職となる。権大僧都。万延元年(1860)3月19日没、74歳。同年、門人の二世澹泊園川原竹坡が追善集『月の名残』を編む。辞世「西さしてたち江の舟や月明り」

丸山町西原.慈眼寺の福原素兆句碑

丸山町西原.慈眼寺の福原素兆句碑

【昂々堂素兆】 福原長兵衛。寛政2年(1790)、朝夷郡西原村(丸山町)生まれ。井上杉長の門人。杉長より昂々堂を継ぐ。安政2年(1855)1月22日没、66歳。本行院篤曼常阿居士。同年6月、西原の慈眼寺に四方連によって句碑が建てられた。「朧夜と見る間に竹の雫かな」

鴨川市磯村.石見堂の尾崎鳥周句碑

鴨川市磯村.石見堂の尾崎鳥周句碑

【日々房鳥周】 尾崎太玄。昭和7年(1770)長狭郡磯村(鴨川市)生まれ。医師。二世武橘菴橘叟、また如此菴とも称す。常盤連主宰。文化8年に常盤連で『春帖』を刊行。天保7年(1836)に北風原村安国寺、天保11年(1840)に仁右衛門島へ芭蕉句碑を建立し、天保15年に選集『松蔭集』を刊行。磯村の石見堂に自らの句碑を建立「此里の春や鴎が波の花」。嘉永4年(1851)没。82歳。

65.『松蔭集』天保15年(1844)

65.『松蔭集』天保15年(1844)
 船橋市西図書館蔵(無断転載禁止)

54.鳥周短冊   座間恒氏蔵

54.鳥周短冊   座間恒氏蔵

66.常盤連『春帖』   加藤定彦氏蔵

66.常盤連『春帖』   加藤定彦氏蔵

48.鈴木亀甲短冊   山口国男氏蔵

48.鈴木亀甲短冊   山口国男氏蔵

【万歳舎亀甲】 鈴木勘兵衛。平郡大崩村(鋸南町)、寛政10年(1798)生まれ。柚の本とも号す。明治10年に大崩村の西根へ芭蕉句碑を建立。裏面に自句を刻む。明治23年(1890)10月30日没、93歳。顕道亀甲信士。辞世「幸のよい天気になり秋の旅」

鋸南町大崩.満蔵寺の買風句碑

鋸南町大崩.満蔵寺の買風句碑

【北極庵買風】 法印圓蹄。平郡滝田村(三芳村)生まれ。平郡大崩村(鋸南町)の満蔵寺住職。権大僧都。其日庵三世溝口素丸の門人。北極連主宰。文政10年(1827)、北極連中により境内に素丸の句碑を建立し、裏面に自句を刻む。天保2年(1831)7月2日没。辞世「借ものの骸は置て秋は立」

67.鈴木あや雄夫妻肖像画   鈴木方子氏蔵

【老楳居あや雄(文雄)】 鈴木謙助。安房郡西長田村(館山市)、鈴木半左衛門家に生まれ、のち館山藩の稲葉正巳に仕える。初め伝市郎、のち謙助と称す。名は直方、のち敬義(のりよし)。江戸藩邸にも勤番。俳諧は梅閑人(月之本)為山の門人。別号は愛梅居、のち老梅居。江戸で夫人とともにコレラに罹って没したと伝えられる。文久3年(1863)7月28日没。恵眼院為覚浄眼信士。翌年7月に老梅居社中が館山仲町の長福寺で追善の句会を開催、および追善集「おしまつき」を刊行。

 68.鈴木あや雄追善集『おしまつき』

68.鈴木あや雄追善集『おしまつき』
元治元年(1864)  当館蔵

44.あや雄の布良連採点帖   当館蔵

44.あや雄の布良連採点帖   当館蔵

46.あや雄短冊   安西明生氏蔵

46.あや雄短冊   安西明生氏蔵

45.安西谷水宛鈴木あや雄書状  安西明生氏蔵
45.安西谷水宛鈴木あや雄書状  安西明生氏蔵

 江戸呉服町の館山藩上屋敷に勤番をしていたときの、藩内での俳諧流行の様子を伝えている。「お屋敷には点取俳人が二三十人もいて、夜中でも即点をやるといって句を取りに回って来るのが流行だ。みんな雪門風の取るに足らない者ばかりで、相談相手にもならない」と不満を述べている。

45.安西谷水宛鈴木あや雄書状(部分)  安西明生氏蔵
45.安西谷水宛鈴木あや雄書状(部分)  安西明生氏蔵

 安房の俳人について評を伝えている。「長須賀の涼甫は発句は上手だが盗句を第一にして身を入れない。担々は才能はあるが情がでない。一鳴は才能がなくにぶい。伯茂は物事に疎い。波佐間の波静はまだ駆け出しで取りどころがない。熱心に続ければ谷水に老梅居を譲ることも考えている」とある。

45.畑村(館山市)の鶯梅が谷水に加点を依頼している書状

45.畑村(館山市)の鶯梅が谷水に加点を依頼している書状
 安西明生氏蔵

【菫菴谷水】 安西甚右衛門。天保4年(1833)、安房郡東長田村(館山市)生まれ。明治4年家督を継ぎ、名主・区長・戸長を歴任。豊房村村長、西岬村村長。明治32年に引退して関西を遊杖する。俳諧は鈴木あや雄に師事して、のち北条の森岡木鵞・江戸の月之本為山・月之本素水・穂積永機に学ぶ。菫(すみれ)庵と号す。明治35年(1902)11月13日没、70歳。浄徳甚位居士。辞世「さし引いて総勘定や年の昏」

46.谷水短冊   安西明生氏蔵

46.谷水短冊   安西明生氏蔵

69.すみれ庵谷水の清狂社連採点帖   安西明生氏蔵

69.すみれ庵谷水の清狂社連採点帖   安西明生氏蔵

【稽古堂木鵞】 森岡半圭。文化11年(1814)、武州浅川在の小川村に生まれるという。天保年間から北条村(館山市)に住み、「房州方言歌仙」を編む。百拙とも号す。漢学者として知られる。明治36年(1903)10月4日没、90歳。大道院磨光半圭居士。墓は龍淵寺。

46.木鵞短冊   安西明生氏蔵

46.木鵞短冊   安西明生氏蔵

70.森岡木鵞の御庄連採点帖   岡崎淳氏蔵

70.森岡木鵞の御庄連採点帖   岡崎淳氏蔵

久保椿山肖像

【雲水堂椿山】 久保七左衛門。文政7年(1824)、長狭郡広場村上人塚(鴨川市)生まれ。仙寿斎とも号す。江戸で刊行される俳家番付にもしばしば顔を出し、知名度が高い。明治31年(1898)8月24日没。75歳。宝林院良軌椿山居士。三回忌に男久保扶桑が追善集を刊行。辞世「我の外旅人見えす秋のくれ」

45.久保椿山による返草

45.久保椿山による返草
 安西明生氏蔵

71.久保椿山追善集 明治33年(1900年)

71.久保椿山追善集 明治33年(1900)
 鈴木孝雄氏蔵

45.安西谷水宛久保椿山書状   安西明生氏蔵

45.安西谷水宛久保椿山書状   安西明生氏蔵

 谷水から椿山に作品の加点を依頼したところ、忙しいので遊歴人に選んでもらったことを伝えている。

72.山口梅寿古希選集「梅烟集」 明治20年(1887年)  鈴木孝雄氏蔵
72.山口梅寿古希選集「梅烟集」 明治20年(1887)  鈴木孝雄氏蔵

【松竹園梅寿】 山口五兵衛。文政元年(1818)、安房郡稲村(館山市)生まれ。村の筆取りを勤めた。算術(師は高橋幽斎)・筆法(熊沢猶龍)・歌道(上総伊藤正胤)・挿花(上総旭松菴一澄)・謡(福知山士族)を修め、俳諧は月之本為山に師事。諸国遊歴三十三か国に及ぶ。香月園ともいい、のち御庄の遠藤逸民に譲る。古希祝の選集『梅烟集』刊行。明治40年(1907)10月12日没、90歳。墓は稲村院。

48.梅寿短冊   山口国男氏蔵

48.梅寿短冊   山口国男氏蔵

73.角田江斎の寺谷連採点帖  鈴木孝雄氏蔵

【二世七浦庵江斎】 角田勘作。文政4年(1821)、朝夷郡下三原村(和田町)渡辺家に生まれ、のち中三原村角田勘四郎の養子となり、名主を継ぐ。俳諧は沼蓮寺の三斎に師事。60歳で隠居し、師の七浦庵を嗣ぐ。のち正文寺の座間●山に譲る。明治26年(1893)7月8日没、73歳。中道院甘露日住。次男佳一が明治28年に追善集『ちなみ集』刊行。墓は御塚。墓碑に『河豚しるやいきても鶴の十分一」

74.角田江斎追善集『ちなみ集』   鈴木孝雄氏蔵

74.角田江斎追善集『ちなみ集』   鈴木孝雄氏蔵

48.江斎短冊 山口国男氏蔵

48.江斎短冊 山口国男氏蔵

48.菊由短冊   山口国男氏蔵

48.菊由短冊   山口国男氏蔵

【三世瓢庵菊由】 牧野万右衛門。朝夷郡小戸村(丸山町)の人。平館の元亥より井上杉長の別号瓢庵を継ぐ。のち前田(丸山町)の小柴文園に譲って千歳庵と称す。弘化年間より作品がみえる。大正元年(1912)12月13日没。瓢庵菊由日然信士。

75.牧野菊由撰句扇面  岡崎淳氏蔵
75.牧野菊由撰句扇面  岡崎淳氏蔵
73.牧野菊由の寺谷連採点帖  鈴木孝雄氏蔵
73.牧野菊由の寺谷連採点帖  鈴木孝雄氏蔵
75.平島占魁扇面  岡崎淳氏蔵
75.平島占魁扇面  岡崎淳氏蔵

【自在菴占魁】 平島氏。平郡宮本村(富浦町)の人。江戸で豊後国岡藩の中川久昭に仕えながら、惺菴西馬に師事して俳諧を学ぶ。松島へ行脚。兄の死により帰郷し家督を継ぐ。明治26年(1893)11月25日没。自在庵翁占魁。辞世「しら蓮や一ツ二ツの明からす」

76.占魁句聯   生稲謹爾氏蔵

76.占魁句聯   生稲謹爾氏蔵

76.占魁短冊   生稲謹爾氏蔵

76.占魁短冊   生稲謹爾氏蔵

48.菱湾短冊   山口国男氏蔵

48.菱湾短冊   山口国男氏蔵

【甘実園菱湾】 田村園右衛門。平郡那古村(館山市)の人。屋号小新宅。江戸に出て孤山堂卓郎の書生として俳諧を学ぶ。椿山・占魁・百拙の句を含む『水かがみ集』を編む。幕末から明治中期に作品がある。

70.加瀬成文の御庄連採点帖   岡崎淳氏蔵

70.加瀬成文の御庄連採点帖   岡崎淳氏蔵

【三世昂々堂成文】 加瀬治郎右衛門。天保7年(1836)、朝夷郡西原村(丸山町)生まれ。井上杉長の別号昂々堂を岩糸(丸山町)の丸白磨から継ぐ。のち岩糸の和田杉甫に譲って蠖堂と号す。また美とり庵とも称す。明治43年(1910)12月31日没、75歳。和楽院顕道成文信士。

48.成文短冊   山口国男氏蔵

48.成文短冊   山口国男氏蔵

46.狸白短冊   安西明生氏蔵

46.狸白短冊   安西明生氏蔵

【晩翠居狸白】 小谷玄真。朝夷郡南朝夷村寺庭(千倉町)の人。明治30年代に作品がある。

63.小谷狸白の古茂口連採点帖   当館蔵

63.小谷狸白の古茂口連採点帖   当館蔵

 <安房を訪れた俳人>

 安房へ遊歴してきた俳人は数多くいたはずです。そのなかには安房の人々と広く風交を重ねた上総行川(夷隅町)の半場里丸と有名人の小林一茶がいました。

53.里丸選集『杉間集』 文政9年(1826年)  千葉県立中央図書館蔵
53.里丸選集『杉間集』 文政9年(1826)  千葉県立中央図書館蔵

【半場里丸】 上総国行川村(夷隅町)の人。宝暦6年(1756)生まれ。夷隅の梅丸・二世採荼庵梅人の門人で、海人の旧号第一園を継ぐ。化政期には夏目成美・鈴木道彦・谷川護物・小林一茶などの有力俳人と親交をもち、安房でも杉長・郁賀・宗拱などの門友をはじめ鳥周・買風などと連句を行っている。文政4年(1821)に判者披露を兼ねた選集『雪のかづら』を刊行し、文政9年(1826)には清水寺(岬町)に芭蕉句碑を建立した記念選集『杉間集』を刊行した。ともに100人を超える安房の俳人の作品が入っている。天保元年(1830)没。75歳。

54.半場里丸短冊   座間恒氏蔵

54.半場里丸短冊   座間恒氏蔵

54.小林一茶短冊   座間恒氏蔵

54.小林一茶短冊   座間恒氏蔵
【小林一茶】 信濃国柏原村(長野県上水内郡信濃町)の人。宝暦13年(1763)生まれ。江戸へ出て其日庵素丸や今日庵元夢・二六庵竹阿などの葛飾派に師事した。宗匠として一家をなさず、蔵前の札差で大物俳人の夏目成美を後援者とし、葛飾派の房総の知人などのもとを行脚しながら生計をたてた。安房では葛飾派が浸透した元名・保田・勝山などの鋸南地域をたびたび訪れている。文化12年(1815)11月と文化14年4月には本織・久保まで足をのばし、井上杉長などと連句を行なっている。文政10年(1827)没。65歳。写真55は、当時柞枝と号していた安馬谷村(丸山町)名主の座間善三郎家に残されていた発句の書留帖で、文化9年(1812)と文化14年作の一茶の句が記録されている。

55.発句書留帖  座間恒氏蔵
55.発句書留帖  座間恒氏蔵

 <安房を出た俳人>

箱根町芦之湯.東光庵薬師堂の芭蕉句碑 雉啄建立
箱根町芦之湯.東光庵薬師堂の芭蕉句碑 雉啄建立

【鴨立庵雉啄】 長狭郡天津村(天津小湊町)の人。宝暦11年(1761)生まれ。遠藤氏。春秋庵系の露柱庵春鴻・鴨立庵葛三の門人。しらら坊とも称す。文化12年(1815)に箱根東光庵に芭蕉句碑を建立。葛三を継いで、文政元年(1818)より相模大磯の俳諧道場鴨立庵の九世庵主となる。文政2年に『葛三句集』を刊行。天保15年(1844)6月24日没。82歳。辞世「心ほと世は経かたくも散桜」

49.遠藤雉啄短冊   当館蔵

49.遠藤雉啄短冊   当館蔵

50.里見左白宛孤山堂卓郎短冊   鈴木孝雄氏蔵

50.里見左白宛孤山堂卓郎短冊   鈴木孝雄氏蔵

【右黒庵左白】 夷隅郡中三原村(和田町)、文政8年(1825)生まれ。里見氏の末裔を称する鈴木次郎兵衛義幸の長子。嘉永4年(1851)に家督を弟に譲って、中三原村の旧領主上総鶴牧藩の水野忠順に仕官し、里見唯一と名乗り、江戸深川に住む。孤山堂卓郎の門人で、安政3年(1856)に立机し、江戸の宗匠として活動する。慶応3年(1867)12月18日没。43歳。浄連院左白日清。墓は下野国真岡の戒広寺。

51.里見左白撰の月次句合返草  鈴木孝雄氏蔵

51.里見左白撰の月次句合返草  鈴木孝雄氏蔵

52.立机披露の一枚摺り   鈴木孝雄氏蔵

52.立机披露の一枚摺り   鈴木孝雄氏蔵

【3】俳諧ネットワーク -安房の俳人たち-
 <江戸の宗匠たち>

 江戸には立机をして宗匠となり、作品に点をつけて謝礼(点料)を取り生活をする、業俳というプロの俳人が大勢いました。一門を経営するためには指導を乞う人々を大勢確保することが必要であり、行脚をしながら地方へその勢力をひろげていく宗匠たちもいました。

 江戸の宗匠に師事した俳人は、地域のリーダーとして連を率いたり、後継者を育てる役割などを担いました。彼らは地域宗匠として安房地域各地で広範囲に月次句合などの撰者として活動することで、安房の地域を政治や経済だけでなく、文芸文化を通して地域のまとまりをつくりあげていきました。

鋸南町大崩.満蔵寺の素丸句碑

鋸南町大崩.満蔵寺の素丸句碑

40.素丸『歳旦帖』 昭和3年(1766)  加藤定彦氏蔵
40.素丸『歳旦帖』 昭和3年(1766年)  加藤定彦氏蔵

【其日庵素丸】 溝口素丸は葛飾派の蕉門で其日庵三世を称した。葛飾派は芭蕉の友人山口素堂の流れで、其日庵はその本流。文政10年(1827)にこの句碑を建てた大崩村満蔵寺の住職買風や、寛政2年(1790)に鋸山日本寺に素丸の師である其日庵二世長谷川馬光の句碑を建てた元名村の岩崎児石も門人。『歳旦帖』には、鋸南地域の元名連・市井原連・小保田連・吉浜連・勝山連と、那古・正木を含む千代(三芳村)連が句を寄せており、広く内房に勢力を浸透させた。寛政7年(1795)没。

41.田喜庵護物書状(部分)  常光寺蔵
41.田喜庵護物書状(部分)  常光寺蔵

【田喜庵護物】 田喜庵は谷川護物といい、春秋庵白雄門の鈴木道彦の門人。芭蕉の門人岩田涼菟の伊勢派の流れを汲む。宛名の露守は船形村大福寺(崖観音)の住職。護物の門人露取が安房方面へ行脚に出たので、心置きなく風交してほしいと奨めている。また文政5年(1822)から刊行をはじめた田喜庵の春帖『梅文庫』が、例年どおりに刊行されたことを伝えている。弘化元年(1844)没。

2.『梅人句集』 文化4年(1807)  加藤定彦氏蔵
2.『梅人句集』 文化4年(1807)  加藤定彦氏蔵

【採荼庵梅人】 平山梅人は芭蕉の門人杉山杉風からの流れで、二世白兎園宗瑞の門人。二世採荼庵と称す。久保村(千倉町)の井上杉長はじめ、平磯(千倉町)・安馬谷(丸山町)など朝夷地域に門人を抱えていた。この句集も安房の門人たちの編集で刊行されている。享和元年(1801)没。
 また本織村(三芳村)には二世白兎園宗瑞の門人関口瑞石がいた。

千倉町平磯.観養院の梅人塚 享和2年(1802)

千倉町平磯.観養院の梅人塚 享和2年(1802)

 この梅人塚は門人である観養院住職の宗拱が梅人の一周忌に建立した。<蜀魂(ほととぎす)鳥の声皆老にけり>の句が刻まれている。

43.『芳春帖』 寛政10年(1798)  当館蔵

43.『芳春帖』 寛政10年(1798)  当館蔵
【雪中庵】 雪中庵で年頭の句を披露した春帖。雪中庵は芭蕉の門人服部嵐雪を祖とする雪門の主流。門下の房州麓浦連10名がみえる。どの地域の連であるかは不明だが、雪門も安房に入り込んでいたことがわかる。

38.万里『旦暮帖』 文化12年(1815)

38.万里『旦暮帖』 文化12年(1815)
 加藤定彦氏蔵
【採荼庵万里】 採荼庵の四世を継いだ太田万里は、二世梅人の人脈を受け継いだ。『旦暮帖』には杉長や宗拱などの門友のほか、天津小湊町域の天津連や朝夷地域を中心とした安房連の俳人たちが句を寄せている。

44.布良連月次句合採点帖  当館蔵
44.布良連月次句合採点帖  当館蔵

【為誰庵由誓】 撰者の豊島由誓は其角門の稲津祗空の流れにある四時観派夏目成美の門人。天保期の江戸俳壇の一角を担った宗匠で、安政6年(1859)没。
 この採点帖は神戸富崎地域を中心とした布良連による、牛頭天王奉灯句合の撰者を務めているもの。参加者の中には魚問屋が軒を並べる江戸本船町の一輪という人物がいる。漁村である布良と江戸の宗匠を結びつける人物であろうか。布良連には江戸の宗匠に撰を依頼した月次句合が多い。

45.安西谷水宛関為山書状

45.安西谷水宛関為山書状 安西明生氏蔵

44.布良崎神社奉灯句合採点帖 明治10年(1877)  当館蔵

44.布良崎神社奉灯句合採点帖 明治10年(1877)  当館蔵
【月之本為山】 伊勢派の小寺希因の流れである関西の桜井梅室の門人。館山藩の鈴木あや雄の師であり、あや雄に師事する東長田村の安西谷水もあや雄なきあとは為山の教えを受ける。上の書状は添削した詠草を返却するという内容。明治11年(1878)没。

 46.関為山短冊  安西明生氏蔵

46.関為山短冊  安西明生氏蔵

46.岸弘美短冊  安西明生氏蔵

46.岸弘美短冊  安西明生氏蔵

45.安西谷水宛岸弘美書状  安西明生氏蔵
45.安西谷水宛岸弘美書状  安西明生氏蔵

【檉斎弘美】 為山の門人。上の書状は、遊歴の俳人が季語の使い方で谷水に異論を言ったことで相談を受けた返答「つまらぬ事申し立て人をおどかす当世の遊歴がままある」とのこと。 明治28年(1895)没。

46.三森幹雄短冊  安西明生氏蔵

46.三森幹雄短冊  安西明生氏蔵
【春秋庵幹雄】 春秋庵は伊勢派のうち加舎白雄が安永9年(1780)におこした俳諧流派で、幹雄は十一世。明治期の旧派俳諧の中心的人物として知られる。明治期には安房でも指導をうける俳人が多く、月次句合の選者に依頼したケースも多い。明治43年(1910)没。

47.安房郡八幡神社祭礼奉灯発句集引札  安西明生氏蔵
47.安房郡八幡神社祭礼奉灯発句集引札  安西明生氏蔵
47.大懸賞田原村不動明王永代奉額俳句募集引札 明治34年(1901)
47.大懸賞田原村不動明王永代奉額俳句募集引札 明治34年(1901)
48.四世近藤金羅短冊  山口国男氏蔵

48.四世近藤金羅短冊  山口国男氏蔵
【夜雪庵金羅】 夜雪庵は其角門の稲津祗空の系統で、18世紀後半から夜雪庵金羅として続く。夜雪庵四世近藤金羅は幹雄とならぶ勢力をもち、月次句合の撰者として活躍した。

 <俳句でコミュニケーション>

 元旦に新年を祝って句を詠むことを歳旦といい、暮に詠んだ歳暮吟や春を詠んだ春興吟と合わせて春興帖が刊行されました。俳句で新年の挨拶をし、古稀などの賀寿や立机の祝いを述べ、追悼の意を伝えることも行なわれました。また江戸・東京から有名宗匠が来ると、指導を受ける機会もつくられました。

37.一枚摺り(明治年間)  堀口角三氏蔵

37.一枚摺り(明治年間)
 堀口角三氏蔵
 挨拶代わりの句を載せた絵入りの刷り物が盛んに作られた。これは館山に移住してきた前田伯志が歳暮・歳旦・春興の三節の句を詠んだもの。

38.『旦暮帖』 文化12年(1815)   加藤定彦氏蔵

38.『旦暮帖』 文化12年(1815)   加藤定彦氏蔵
 江戸の採荼庵万里が門人などの歳旦句を編んだもの。房州出野尾村(館山市)小網寺の一阿窓空居の歳旦句もある。

31.月次句合引札 慶応元年(1865)  鈴木孝雄氏蔵
31.月次句合引札 慶応元年(1865)  鈴木孝雄氏蔵

 上総遊歴に出ている江戸の宗匠狐山堂卓郎が勝浦へ来る機会に月次句合が企画された。広場村(鴨川市)の久保椿山など房州のひとびとも補助として参加している。

39.短冊 明治32年(1899)   安西明生氏蔵

39.短冊 明治32年(1899)   安西明生氏蔵
前田伯志の古稀を祝う山根路行の短冊。

 <記念俳句>

34.瀬戸学校新築并瀬戸川橋開橋式集句引札  安西明生氏蔵

34.瀬戸学校新築并瀬戸川橋開橋式集句引札  安西明生氏蔵
 明治14年(1881)に瀬戸学校(千倉町健田小学校)の新築と橋の開通を記念して句が集められた。

35.御大典記念奉納句額 昭和3年(1928)  国司神社蔵
35.御大典記念奉納句額 昭和3年(1928)  国司神社蔵

 柏崎(館山市)浄閑寺住職だった屋代吟風が主宰した俳諧結社「吟風舎」のメンバーが昭和の大典を記念して奉納した。

20.光雲堂医院開業五周年紀念俳句募集広告  正木高明氏蔵
20.光雲堂医院開業五周年紀念俳句募集広告  正木高明氏蔵

 大正6年(1917)、俳人斎藤光雲は自身で経営する光雲堂医院の五周年を記念して俳句を募集した。

36.山本小学校校舎増築記念俳句聯 明治17年(1884)   館山市立館野小学校蔵

36.山本小学校校舎増築記念俳句聯 明治17年(1884)   館山市立館野小学校蔵
 学区改正にともなう山本小学校(館山市立館野小学校)の校舎増築を記念して、本校の教員鈴木孝と思われる養老舎孝風が詠んだ句。「山国や稲つむ上の大安堵」は学区の地名(山本・国分・稲・上野原・大網・安布里)を詠み込んでいる。

 <奉納俳諧>

 神仏への祈願や供養のために社寺で句会を催し、額や行灯に作品を書いて奉納することも行なわれました。奉額・奉灯と呼ばれ、多くの人の目に触れることから、月次句合の興行として行なわれ、たくさんの句が応募されてきました。それらは撰者によって選ばれ、高点の秀句が掲載されることで、投句者の名誉欲をくすぐりました。

31.房州天津龍神宮奉灯月並会引札

31.房州天津龍神宮奉灯月並会引札
 鈴木孝雄氏蔵

17.安西谷水へ宛てた渡辺雲洋の書状  安西明生氏蔵
17.安西谷水へ宛てた渡辺雲洋の書状  安西明生氏蔵

 北条村の絵師渡辺雲洋が、安西谷水の地元東長田村の山宮神社へ奉納する額に入れる画を依頼されていたが、大工からの額の仕上がりが遅れ、期日に遅延しそうな様子を伝えている。

32.手力雄神社奉納俳諧額 明治3年(1870年)  手力雄神社蔵
32.手力雄神社奉納俳諧額 明治3年(1870)  手力雄神社蔵

 小原村(館山市)の山根路行が主催となって大井村(館山市)手力雄神社へ奉納した額。那古村(館山市)の田村菱湾・宮本村(富浦町)の平島占魁・北条村(館山市)の盛岡木鵞・小戸村(丸山町)の牧野菊由など安房地方南部の中心的な俳人が名を連ねている。縁には後藤流の竜の彫り物がめぐらされ、北条村の絵師渡辺雲洋の梅の図を添えて、有力宗匠の歳旦句を集め2月に奉納されている。

33.布良崎神社例祭奉灯集句選抜句表 明治31年(1898)  安西明生氏蔵
33.布良崎神社例祭奉灯集句選抜句表 明治31年(1898)  安西明生氏蔵

 布良(館山市)の布良崎神社の例祭にあわせて行なわれた奉灯句会で、1420の作品を集め、京都の花の本聴秋宗匠と東京の雪中庵雀志宗匠によって選ばれた秀句を書き上げた一覧表。館山・北条・那古・船形・館野・九重・豊田・千歳・千倉・白浜・豊房・神戸、そして地元富崎の一般の俳句を嗜む人たちが参加している。

 <句会>

 指導者である宗匠を中心に連と呼ばれるグループの仲間(連衆)が集る句会を月次(つきなみ)俳諧といい、定例的に行なうものがありました。また企画ものとして、宗匠などが催主となって句題を出し、一般から句を募集して宗匠が点をつけ結果を公開する、月次句合と呼ばれる興行も頻繁に開かれ、そのときにも運座という句会がもたれました。出句者の作品は清書された詠草本となって宗匠に点を付けられ、高点者には景品、最高点の者には採点された詠草本も褒美になりました。

 宗匠は地域にもいましたが、江戸の有名宗匠に依頼する地域もありました。

19.布良連の採点帖    当館蔵

19.布良連の採点帖    当館蔵

17.東長田(館山市)福寿院の堂守山本浅次郎こと如狂が安西谷水へ宛てた書状
17.東長田(館山市)福寿院の堂守山本浅次郎こと如狂が安西谷水へ宛てた書状   安西明生氏蔵

豊房地域周辺の人々が参加している初心連の月次句合での、撰者を依頼した挨拶状。明治年間。

20.北条町(館山市)の俳句結社北条蛙会での月次俳句会の連絡チラシ(明治年間)
20.北条町(館山市)の俳句結社北条蛙会での月次俳句会の連絡チラシ(明治年間)   正木高明氏蔵
21.点印   川原晋氏蔵

21.点印   川原晋氏蔵
 点者・判者とよばれる宗匠が、作品を評価する点をつけるときにつかった印鑑を点印という。写真21は澹泊園のすみれの点印。
 写真22で評点を加えた澹泊園竹坡が中央に使っているのがこの点印。

22.雪香の詠草 安政2年(1855) 川原晋氏蔵

22.雪香の詠草 安政2年(1855) 川原晋氏蔵

21.澹泊園竹坡の雅印   川原晋氏蔵

21.澹泊園竹坡の雅印   川原晋氏蔵

23.安西谷水の詠草 幕末   安西明生氏蔵

23.安西谷水の詠草 幕末   安西明生氏蔵

 写真23は愛梅居鈴木あや雄宗匠に添削を依頼した安西谷水の詠草。表紙に質問が書いてある。

24.清狂社句合詠草(明治年間)

24.清狂社句合詠草(明治年間)  
 安西明生氏蔵
 東長田周辺の俳句結社「清狂社」が北条の稽古堂盛岡木鵞に加点と批評を依頼し、返送されてきた詠草。

42.『梅人句集』   加藤定彦氏蔵

42.『梅人句集』   加藤定彦氏蔵

 芭蕉の門人杉風の流れを汲む江戸の採茶庵平山梅人の遺句集。文化4年(1807)に久保村(千倉町)の井上杉長、平磯村(千倉町)の山口郁賀・観養院宗拱、安馬谷村(丸山町)の芝英園莫非はじめ安房の門人たちが編集刊行した。

60.『昨露集』   加藤定彦氏蔵

60.『昨露集』   加藤定彦氏蔵
 川合村(千倉町)地蔵院の也草の遺句集。文化13年(1816)に友人の井上杉長・岡田村(館山市)の其則が著した。門人に沼村(和田町)沼蓮寺三斎・安馬谷村(丸山町)の竹由などがいる。

25.免判嗣号免状(下書)明治32年(1899年)  安西明生氏蔵
25.免判嗣号免状(下書)明治32年(1899年)  安西明生氏蔵

 芭蕉の門人嵐雪にはじまる雪門から分かれた一派<東都一家嵐雪門>を継ぐ蹄雪庵前田伯志が、門人雨宮卓堂を宗匠として認め、伯志の師匠が使用していた不黒庵の号を与えた免状。安房地方でも昭和のはじめまでは多くの俳系で師の庵号が引き継がれていた。

26.『本式俳諧則』  座間恒氏蔵
26.『本式俳諧則』  座間恒氏蔵

 天保4年(1833)2月、沼村(和田町)沼蓮寺の七浦庵で、武蔵行脚に赴く俳人素隠のせん別のため、正式俳諧の連歌会が興行された。平館村の石井平雄を宗匠にさまざまな役割に分かれ、16名の連衆が参加している。
 地方では発句のみの点取り俳諧が好まれたが、複数で句を詠み合う連句が正式な俳諧。そうした連句の会席では進行の作法や連衆の心得などが決められており、それにのっとって表向きはのどやかに実体は速やかに会が進行された。

27.『一家嵐雪門文台式』 明治19年(1886年)  堀口角三氏蔵
27.『一家嵐雪門文台式』 明治19年(1886年)  堀口角三氏蔵

 会席での座席、文台や硯箱・盆香炉などの道具の置き方にも作法がある。上の図は前田伯志の<東都一家嵐雪門>が伝える二条流の俳則。

28.天神名号   当館蔵

28.天神名号   当館蔵

 俳諧の会席では、連歌の神である菅原道真の画像か「天満大自在天神」などの神号を床に掛ける。写真の掛物は布良村で使われたもの。天保8年(1873)、館山藩儒者新井文山の書。

29.文台   安西明生氏蔵

29.文台   安西明生氏蔵

30.文台伝来記   安西明生氏蔵

30.文台伝来記   安西明生氏蔵
 俳諧の宗匠として認められると文台を与えられる。これを立机といった。文台は宗匠の位を象徴する道具で、俳席では執筆の前におかれて進行上の中心的な役割をする。写真30は江戸の葎雪庵午心から甘雨亭介我、蹄雪庵伯志へと受け継がれた文台を、河上風子へ譲った際の伝来記である。

19.布良連の詠草 幕末~明治  当館蔵
19.布良連の詠草 幕末~明治  当館蔵

 布良連(館山市)で催した月次句合の採点帖。布良崎神社や感満寺不動尊・蔵王権現などの奉灯を名目にしたものが多いが、採点をしているのは館山から江戸へ出た老梅居あや雄・朝夷郡の瓢庵・北条の稽古堂木鵞・鋸山の無漏庵無漏など安房の宗匠だけでなく、為誰庵由誓・狐山堂卓郎・月之本為山などの江戸宗匠に依頼しているものもある。

 <遊歴と風交>

 修行のために諸国を遍歴して歩く雲水僧のように、江戸時代には諸国を行脚しながら各地の俳人と交流することが盛んに行なわれました。旅に明け暮れた芭蕉にならい、蕉風の俳諧はこの行脚によって地方に広がり、多くの人々に浸透していきました。

 遍歴しながら地方の宗匠クラスの俳人を訪ねて句作を交わし、生活の糧を得ながら実力をつけていく俳人は行脚(あんぎゃ)とか雲水と呼ばれました。そして俳人同士の交流を「風交」と呼びます。

 地方の俳人も伊勢参宮などの寺社参詣の機会に、名所を巡りながら句作をかさねたり、松島行などの芭蕉の足跡をたどる旅を盛んに行ないました。

11.『行脚掟』   安西明生氏蔵

11.『行脚掟』   安西明生氏蔵
 己を慎み他を思う、行脚の心得17か条が記された『行脚の掟』の写。芭蕉の作と伝えられている。

12.房総旅日記 弘化4年(1847年)  当館蔵
12.房総旅日記 弘化4年(1847)  当館蔵

 芝山町近辺の耕庵鶴寿という69歳の俳人が、小湊誕生寺へ参詣をしたときの旅日記。内房から那古寺を経て外房へ廻り、清澄・小湊から北上して帰郷した20日間の旅だが、諸所で句を作っている。

13.俳人先次亭が東長田(館山市)の安西洗心に宛てた手紙(明治年間)  安西明生氏蔵
13.俳人先次亭が東長田(館山市)の安西洗心に宛てた手紙(明治年間)  安西明生氏蔵

 先次亭のもとへ信州松代から訪問して来た俳人白兆老人を紹介する文面。「もしあなたのもとへ立ち寄ったらよろしく風交してください。着衣は汚れ頭髪も束ねて驚くような風体なので門前払いをしたくなるが、心根は見かけと違うようだ。」と伝えている。

15.『総角集』  船橋市西図書館蔵(無断転載禁止)
15.『総角集』  船橋市西図書館蔵(無断転載禁止)

 雪中庵蓼太の門人で化政期に江戸の重鎮だった八朶園蓼松に師事した江戸の俳人一円窓欣月の句集。安房に住むようになって房総三国を遊歴、安房をはじめ風交した各地の俳人の句を集めている。序文は江戸の小青軒抱儀、跋文は大津(富浦町)の白梅居平島香雪が記している。安政3年(1856)刊。

16.老鼠堂永機句幅 明治32年(1899)   安西明生氏蔵

16.老鼠堂永機句幅 明治32年(1899)   安西明生氏蔵
 東長田(館山市)の安西谷水は隠居をした67歳のとき、関西を遊歴して京・大坂の俳家を訪い、見聞を広めてきた。写真16は帰途東京の俳家穂積永機のもとを訪れて揮毫してもらった遊歴記念の書。写真17は江戸材木町で庵を結んだ梅之本為山の門人其葉が、はじめて谷水に風交を求めてきた挨拶状。

17.谷水宛其葉書状  安西明生氏蔵
17.谷水宛其葉書状  安西明生氏蔵
18.道中日記帳 安政3年(1856)  川原晋氏蔵
18.道中日記帳 安政3年(1856)  川原晋氏蔵

 川戸(千倉町)の修験僧文殊院頼充こと俳人竹坡が、30歳のとき京都を中心に関西を遊歴した日記。各所旧跡を訪ねて句をつくり、また各地の句碑などを記録している。

【2】俳句でコミュニケーション ―俳諧を楽しむ―

 作った句は人に知らせたいもの、先生や友人から評価を聞きたいもの。そしてよりよい句を作れるように精進したいものです。そのために句会に参加したり、公の場に作品を公開するというのも楽しみ方です。多くの俳人と切磋琢磨するため旅に出たり、探勝の旅をするものまた楽しみ方のひとつでした。