宝貝・水岡

古代や中世から地名が確認でき、中世から豪族たちが活動した足跡が残る地域の寺社や道沿いの文化財を訪ねてみましょう。

宝貝(ほうがい)

(1)覚性院(かくしょういん)

真言宗のお寺で、円蔵院(南房総市千倉町)の末寺。本尊は35.4cmの木造地蔵菩薩坐像で江戸時代の作。本堂の中には、安東出身の絵師鈴木寿山による襖絵、天女を書いた絵左右一対、百万遍の数え札が残る。当寺は安房国百八箇所地蔵尊の第六十九番札所、九重・館野地区の地蔵巡りの第四番札所で、元文2年(1737)の御詠歌扁額が残る。境内には、歴代住職の墓、中世の宝篋印塔の笠石、寛政10年(1798)の宝篋印塔、江戸末期の不動明王、関東大震災の復興や昭和20年(1945)の農地法発布の際に農事に尽力した女性の墓がある。境内入口の六地蔵は安政5年(1858)に孫右衛門・庄兵衛らにより奉納。六地蔵の近くに頭部が欠落した安永10年(1781)の石造地蔵菩薩、慶応元年(1865)の高橋元右衛門らによる四百万遍念仏塔がある。墓地から(3)伶人様に上がる途中に享保14年(1729)に井上定右衛門と惣村中による大日様が残る。

(2)覚性院やぐら

覚性院の境内墓地にある南西に開口したやぐら。内部に室町時代末期に作られた嶺岡の蛇紋岩製の阿弥陀如来坐像の他、寛政2年(1790)に宝貝村中によって奉納された6体の地蔵が刻まれた六地蔵や8基の馬頭観音が残る。馬頭観音は文化11年(1814)、天保13年(1842)、嘉永元年(1848)、嘉永4年(1851)、慶応2年(1866)、慶応3年(1867)2基、明治13年(1880)。

(3)伶人様(れいじんさま)

覚性院脇の丘の頂上にある石祠。銘文も年代も記されていないが、地元の人は「れいじんさま」と呼んで祀っている。かつてお寺に他人のものを盗む悪いお坊さんがいたが、あまりに悪事を重ねるので村の人が山奥へ連れて行って生き埋めにした。それ以来、村には悪い風邪が流行して何度も疫病に悩まされるようになったため、お坊さんの祟りと考え祠を作って手厚く供養したところ、疫病がおさまったという。それ以来、宝貝では毎年8月20日を伶人様の日と決め、各家の女性が集まってオコモリをするようになった。

(4)天神様

熊野神社の裏山には、嘉永6年(1853)正月に奉納された天神様(天満宮)が祀られている。かつては1月2日に子どもたちによる天神講が行われ、当番の家々を回った。天神様と金毘羅様の間の手水石は、慶応4年(1868)4月、若者中による奉納。

(5)金毘羅様

(4)天神様から上がったところに、慶応2年(1866)12月に高橋彦右衛門によって奉納された金毘羅様を祀る。

(6)青面金剛像

(5)金毘羅様から上がったところに、享保10年(1725)2月に村講中(庚申講)によって建立された青面金剛像を祀る。

(7)仙元様(浅間様)

熊野神社裏山山頂の石祠「富士仙元宮」は、慶応4年(1868)9月、山三講の講中により建立された。願主は高橋儀右衛門、先達は高橋(久)兵衛、講員は伊藤利八・高橋久左衛門・高橋治良兵衛・松本治左衛門である。

(8)山の神

熊野神社の裏山山頂の石祠は、弘化4年(1847)8月に亀田孫右衛門によって奉納され、かつて木の扉には「山の神」と書かれていた。(7)浅間様と(8)山の神の間にある石祠は、屋根に卍が彫られているが詳細は不明。石祠前の手水石は昭和18年(1943)9月1日に高橋ときによって奉納された。

(9)熊野神社

速玉之男命他二柱を祀る宝貝の鎮守。1月20日頃にオビシャが行われ、五穀豊穣や家内安全を祈る。節分の夜には大火といって厄除けの行事を行い、境内の刈り清めた木を積んで燃やす。明治3年(1870)から昭和50年(1975)の社殿の修復・雨覆葺き替えの棟札や厄除けの梵字が書かれた棟札が残る。社殿前には震災前のものと思われる天水桶が残る。境内には、文化15年(1818)正月に高橋佐五兵衛によって奉納された天王宮(天王様)の石祠や文化14年(1817)9月に若者中によって奉納された手水石が残る。常夜灯は天保9年(1838)、狛犬は昭和13年(1938)5月に本橋寛治・本橋鶴、本殿の彫刻は高橋英二・伊東はま、社号碑は昭和50年(1975)9月に髙橋𠀋志によって奉納された。鳥居は昭和6年(1931)に氏子により建立された。石工は船形の生稲多七。石段は大正5年(1916)12月に氏子により建立された。江戸時代は神社階段下に高札場があり南側に郷倉があった。

(10)道路改修記念碑

館山市と合併する2年前の昭和27年(1952)に九重村が実施した道路改修記念費。同4月に設置された。改修した道路は総長800m、幅員3m80cm、総工費31万円。

安東(あんどう)

(11)日露戦争戦没者碑

日露戦争に出兵し、24才で戦病死した陸軍歩兵一等卒鈴木堯の碑。明治41年(1908)建立。文は『安房志』を編纂した安房中学校教諭の斎藤夏之助、石工は吉田亀石。

(12)安東堰

安東の農業用水。安東堰の突き出たところに立つ銀杏の麓には弁天様が祀られている。

(13)馬頭観音

安東堰近くの墓地内に昭和20年(1945)6月17日の馬頭観音がある。

(14)吾妻大権現

紀州(和歌山県)から熊野権現が各地に分祀される頃に、榎本氏から安東の神主である鈴木氏が布教を依頼され、社殿を建立したと伝えられる。社殿は大正12年(1923)の地震によって半壊したため取り壊されたが、後に鳥居と石宮が作られ鈴木氏と近隣の家々によって毎年正月に祀られてきたという。現在は石宮と手水鉢が残る。

水岡(南台)(みずおか(みなみだい))

(15)日森神社(ひもりじんじゃ)

天照皇大神を祀る南台(南片岡)の鎮守。2月7日(現在は近い土日)にオビシャを行う。社殿に大正6年(1917)の神社名号石板、大正7年(1918)の太鼓、多数の絵馬、花鳥を描いた板絵、地区の人々が作成した神輿が残る。かつては和田の漁船を利用した船型の屋台も作成し、10月10日の祭の際に地区内を引き回したという。社殿前には文久2年(1862)に氏子によって奉納された手水鉢や大正6年10月奉納の狛犬一対がある。狛犬の奉納者は小柴長蔵、書は義(孝)、彫刻は加藤佐兵衛。当社にはお諏訪様(諏訪神社)・弁天様が合祀されているが、境内に石祠3基(中央は宝暦14年(1764)2月)、本殿後に石祠が残る。他に昭和24年に亀田長治によって奉納された出羽三山碑もある。階段途中には、大正6年(1917)3月に施主の秋山桂蔵、石工の長須賀の石勝により建立された鳥居、昭和4年(1929)に建立された地元の俳人・秋山桂山88歳の時の句碑「古池のふかさはしらず鳴蛙」がある。

(16)地蔵堂

南台のお堂で本尊は近世の作と思われる43.3cmの木造地蔵菩薩半跏像。胎内に「善念寺作」の陰刻がある納入仏が入る。また、鎌倉時代に作られた165.5cmの木造地蔵菩薩立像(頭部は南北朝時代)が安置されているが、地蔵の手に底が抜けた袋が掛けられており、安産祈願のために借りてお産が済むと1つ増やして返す風習がある。安房国百八箇所地蔵尊の第七十番札所、九重・館野地区の地蔵巡りの第三番札所であり、元文2年(1737)の御詠歌扁額が残る。8月24日には念仏、2月には百万遍が行われる。堂の前には明治元年(1868)の「ダエ 亀田屋」による手水石、階段横には賽の河原の地蔵像、正徳元年(1711)の廻国供養塔がある。堂右のお釈迦様には、二本松(福島県)出身の若嶋新之丞が再興したと刻まれている。他に室町時代末の十王像頭部も残る。

(17)駒寄通り(こまよせどおり)

千倉の大貫(南房総市)と館山平野を結ぶ旧道。馬を寄せて通るため駒寄通りという。入口に安永6年(1777)11月の村中による三面六臂の馬頭観音と明治15年(1882)3月7日に奉納された馬頭観音がある。尾根の三叉路に文化6年(1806)7月24日に南片岡村の喜右衛門が建立した道標があり、地蔵像の下に「北那古(道)」「南千(倉道)」とある。付近に嘉永3年(1850)9月4日建立の馬頭観音や廻国供養塔が残る。


館山市立博物館(2023.12.9作成)
千葉県館山市館山351-2 TEL 0470-23-5212

白滝山不動教会<鴨川>

白滝山不動教会の概要

(鴨川市上小原477)

真言宗のお寺で、正式名称は白滝山不動教会といい、本尊は不動明王。大同3年(808)弘法大師の開山と伝え、大師自ら不動明王像を刻んで、一宇を建立したといわれています。また、永正年間(1504〜21)に長狭郡山之城(やまのしろ)城主正木大膳太夫時茂が白滝山滝谷寺(ろうこくじ)と称して、再興したと伝えられています。境内に白絹の滝があることから「滝の不動」と呼ばれ、修験の寺でした。明治以降は精神鍛錬の修行をする信徒が宿泊し、明治から昭和初期の川名道念・川上道秀住職の頃は、東京・横浜をはじめ千葉県内から信徒7,000人を集めたといいます。大正10年(1921)には滝を中心とした境内約25町歩(7,500坪)が公園化されました。参道には鳥居があり、裏山には石尊(せきそん)神社があります。境内には句碑・歌碑・記念碑などが多数奉納され、多くの信仰を集めていたことがわかります。昭和43年(1968)に亀田義精住職が「白滝山不動教会」と改称し、現在も祈願霊場として善男善女の信仰を集めています。

(1)滝新道開鑿(かいさく)記念碑

明治43年(1910)4月起工、大正4年(1915)4月に竣工した新設道路802間(約1.5km)の記念碑。発起者は上小原の小田分台(こだけだい)で、住職川名道念他36名が田畑・山林・金銭を寄付している。集落から当寺へ至る道である。

(2)狛犬(こまいぬ)

上小原区長等25名を世話人に、明治23年(1890)に氏子たちが石尊神社に奉納した。講中や他地区の人など約200名から寄付があり、1人50銭の額が多い。

(3)鳥居

石尊神社の鳥居で右柱の裏に「■政戌年九月吉日」とあり、寛政2年(1790)の建立と推測される。願主は亀田新兵衛と氏子中で、世話人は名主等村役人。

(4)姉妹イチョウ

樹高約18m、樹齢300年以上とされ、鴨川市指定天然記念物。一本の幹から出たもう一本の幹を包み込むような姿からこのように名付けられた。

(5)嶋田修一頌徳碑(しょうとくひ)

主基村村議会議長として昭和30年(1955)、主基・吉尾・大山の3村を合併し長狭町誕生に尽力した人物。昭和33年(1958)に57歳で亡くなった。

(6)開運大黒尊

昭和天皇御大典記念に奉納された開運大黒天の記念碑。京都御所での御大典式典を記念して、昭和3年(1928)11月10日に主基村の伊丹友治が奉納した。

(7)俱利伽羅龍王(くりからりゅうおう)

火炎に包まれた黒龍が剣に巻き付き、それを飲み込もうとする様は不動明王の化身である。像前に、水神を祀るために岩をくりぬいた枡(ます)がある。

(8)灯籠

階段の上・中・下段に灯籠がある。下段のみ完形で、竿に「御神燈」・年号・人名が刻されるが、風化で建立年は不明。中段は竿に「御神前」と寛政2年(1790)3月の年号、基礎に村人6名が記される。上段は文字不明。

(9)子安地蔵菩薩と如意輪観世音菩薩

階段登り口の左右に子安地蔵菩薩と如意輪観世音菩薩の石仏がある。子供たちの成長と女性たちの健康を願って、文化元年(1804)に当村の七郎左衛門が願主となり、山王台中と順礼講の女性たちが建立した。

(10)出羽三山碑

山形県の出羽三山は、羽黒山「現在」、月山「過去」、湯殿山「未来」とされ、生まれ変わりの三山として信仰されている。10-1は明治36年(1903)、10-2は昭和37年(1962)、10-3は昭和30年(1955)に地元の人が参拝した記念碑である。

(11)永代護摩(ごま)資料(しりょう)碑

130基程ある階段両脇の石碑は本堂再建の寄付金奉納碑である。明治24年(1891)に始まり大正12年(1923)まで1〜180円の金額が確認できる。碑には市原郡・夷隅郡や横浜などの地名もあり信仰圏の広さがみられる。

(12)堂宇改修公園寄付の碑

堂宇改修と大正時代に行われた白絹の滝を中心に境内を公園化した際の寄付記念碑。久留里町の田中岩吉は大正15年(1926)に100円を寄付した。

(13)本堂再建の碑

上部に不動明王を表す梵字(カーン)が刻まれている。本堂は明治17年(1884)に再建したが莫大な借金が残り、道念を中心に地元や夷隅郡・市原郡・君津郡の弟子18名が講社を結び、永代護摩料を集めて返済した。その記念として明治30年(1897)に上小原区と市原郡白鳥村の宮原新恵紋(しんえもん)が発起人として建立。

(14)芭蕉句碑

「ほろゝゝと山吹ちるか滝の音」。上小原の伊丹凌雲や田村一梅など籬連(まがきれん)の24名により建てられた芭蕉の句碑。明治24年(1891)1月建立。揮毫者は露竹。

(15)厄除大師像・不動明王像

厄除大師を中心に5体の不動明王像が祀られている。厄除大師には「第一番」と刻まれ、弘法大師巡礼の第一番と思われる。大正15年(1926)に伊丹友治が奉納した。隣には不動明王像を配した手水石がある。施主は雄蔵。

(16)本堂(不動堂)

本尊不動明王像は弘法大師自刻霊像とされ、御前立(おまえだち)波切不動像は唐の恵果(けいか)和尚作と伝えられる。不動堂を飾る彫刻は千倉の彫刻師後藤一門によるもので、向拝(ごはい)の龍は明治17年(1884)初代後藤義光70歳の作。海老虹梁(こうりょう)の龍は明治16年(1883)長男紋次郎、木鼻(きばな)や手挟(たばさみ)等は義光の弟子たちの作。施主は安房・上総・長生・浦賀と広域に及んでいる。タイル張りの珍しい天水桶は昭和12年(1937)奉納。

(17)白絹の滝

境内にある加茂川支流に落差30mで県南最大級の滝がある。河床は硬い緑色凝灰岩(ぎょうかいがん)などで形成されている。大正期までは信仰の対象で一般人は入れなかったが、大正5年(1916)に滝を中心とした公園化が始まった。昔話の中に「お鍋が淵」という「番町皿屋敷」にそっくりな物語が伝えられている。

(18)安川文時(やすかわふみとき)歌碑

鴨川市細野出身の歌人安川文時(1865~1944)の歌「あさなゆうな みれともあかす みねをかや みねのまつはら いろとはにして」の歌碑。昭和10年(1935)建立。文時は同郷でアララギ派の歌人古泉千樫(ちかし)の雅号「千樫」を考えた人。江戸時代の国学者で鴨川市寺門(てらかど)出身の山口志道(しどう)の顕彰にも努めた。

(19)田中儀平翁顕彰碑

主基村北小町の貧しい農家に生れたが、身を起して明治期に農業の改良普及に尽力した人。安房を代表する篤農家(とくのうか)で、大日本農会などから表彰された。大正5年(1916)没。碑の題字は交流のあった伯爵(はくしゃく)万里小路通房(までのこうじみちふさ)。撰文は千葉県知事石田馨(いしだかおる)で、昭和6年(1931)に主基村農会が建立した。

(20)夜学会彰徳碑(しょうとくひ)

明治28年(1895)に上小原で青年会によって夜学会という補習教育が始められた。指導は小学校の教員で、通学者は上小原以外に現鴨川市域と富津市天羽地域から集まった。高等教育機関ができた大正8年(1919)に終了し、記念に上小原青年館と同青年夜学同窓会により碑が建てられた。卒業生総数は94人。

(21)庚申塔(こうしんとう)

本尊青面金剛(しょうめんこんごう)と邪鬼(じゃき)・三猿(さんえん)が彫られている。庚申(かのえさる)の日の夜に眠ると、体内の三尸(さんし)の虫が抜け出して、その人の罪状が天帝に告げられると命が縮まるという信仰があり、仲間で本尊に祈り夜が明けるのを待つ行事があった。数回続けた講中が天明6年(1786)に建立した。

(22)石尊(せきそん)神社

浅間山への登山道の途中に石造の天狗面が5面祀られている。脇の碑には宝暦9年(1759)7月とある。相模大山寺を勧請したのであろうか、今も7月に神職と上小原区の役員により雨乞の神事が執り行われている。

◎ 昭和院  鴨川市上小原字滝

真言宗の寺で、本尊は阿弥陀如来。昭和8年(1933)に南小町にあった森蔵寺・密蔵院・来迎寺と成川の等覚院を合併し、新しい寺院を現在地に移転して、翌年昭和院と名付けられた。初代住職は星野義道。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・殿岡崇浩・岡田晃司
(2023.12.25 作)

監修 館山市立博物館
〒294-0036 館山市館山351-2  ℡.0470-23-5212

観音院

杉本山観音院の概要

(館山市西長田372)

真言宗宝珠院末で、本尊は聖観世音菩薩。天平6年(734)、慈覚大師が創建したと伝えられている。本尊と御前立像は平安時代の作で、藤原様式の古い仏像である。准胝(じゅんてい)観音坐像と虚空蔵(こくうぞう)菩薩坐像の2体は、廃仏毀釈の頃に西長田にあった黄檗宗(おうはくしゅう)般若寺が廃寺となり移されてきたもので、その他にも般若寺へ奉納された物が残されている。本尊は観音堂に祀られ、かつては安房国札観音霊場の結願寺であった。安房郡札観音霊場の第一番札所でもあり、杉本山という寺号の由来は、坂東観音霊場の第一番杉本寺にあると伝わる。向拝には後藤義光の彫物が施され、訪れる人を楽しませている。里見家から2石の寺領を寄進されており、慶長11年(1606)の里見忠義からの寺領寄進状が残されている(市立博物館で保管)。

(1)六地蔵

六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道)において、衆生の苦しみを救う地蔵菩薩が入口に安置されている。丸彫りの像で頭部は補修されている。基壇に西長田の願主3名・施主18名・念仏講・千田順礼講・東長田1名の名が刻まれている。造立年代は不明だが江戸時代であろう。覆屋(おおいや)は蔵の風化を防ぐために昭和62年(1987)に寄進された。

(2)地蔵菩薩半跏像(はんかぞう)

像高84cm、右足を曲げ左足を踏み降ろした姿の地蔵尊。宝暦2年(1752)に西長田村の人々が建立した。

(3)地蔵菩薩立像

総高68cm、舟光背型。右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵尊が浮き彫りにされている。施主は九良兵衛と七左衛門。

(4)灯篭(とうろう)

天保4年(1833)に奉納されたもの。地震等で倒れたと思われ、火袋は修理されている。

(5)手水石(ちょうずいし)

正面に「奉納」、右側面に「文政五午(1822)■八月吉人 セワ人」と刻まれているが、人名は風化して読めない。左側面は「順礼」の文字のみが残っている。順礼講が施主に加わっていたのであろう。

(6)観音堂

安房国札観音三十四か所霊場の第三十三番札所で、かつての結願所である。近年まで掛けられていた鰐口(わにぐち)は、南北朝から室町時代のもので、保存のため市立博物館で保管している。

1 向拝柱(ごはいばしら)礎石

獅子の彫刻が施されている。石工は東長田の中山七蔵と西長田の小金市太。

2 欄間(らんま)飛天彫刻

千倉の彫物師後藤義光が87才の最晩年に残した円熟の作品。義光は翌明治35年(1902)に88才で没した。

3 外陣(げじん)

「杉本山」の山号額には、「出流(いずる)山主浩然(こうねん)(釋浩然印)(良雄)」とある。浩然は坂東三十三観音霊場第十七番札所の出流山万願寺(栃木県)で、文化年間に住職を務めた人。

「慈光堂」の扁額には「弘福海流書」とある。東京向島の黄檗宗弘福寺の関係者か。弘福寺は館山藩稲葉氏の菩提寺でもある。

正面の柱に一対で飾られている漢語の板を聯(れん)という。左側に「臨済正伝」とあり、明治時代まで西長田にあった黄檗宗般若寺に納められたと思われる。

安房国札観音の御詠歌額が3枚ある。享保15年(1730)奉納のものは、長狭郡(鴨川市)の佐生勘兵衛が本願人。ほかに明治時代のものが2枚ある。御詠歌は2種類が詠まれている。

安房郡札観音の御詠歌額には、「第壱番杉本」とあり、順礼はこの寺から巡り始める。

4 向拝の彫刻一式

明治28年(1895)のもので、後藤義光81歳の作。浮彫・籠彫りという手法が使われ立体感にあふれている。子引龍、獅子と獏、波に亀、松に鷹、松に山鵲(さんじゃく)と鶴、雲に雁と燕、波に千鳥、波に鯉などが彫られている。

(7)宝篋印塔(ほうきょういんとう)

観音堂左手前のひと際目立つ宝篋印塔は、享和2年(1802)に東長田村・西長田村の人たちが、天長地久・国土泰平・五穀豊穣・両村繁栄を願った供養塔。基壇の銘で住職寛龍ほか願主・村役人・施主等29名と、光明講中・念仏講中・順礼講中・若者中による建立とわかる。石工は元名村(鋸南町)の飯塚吉五良。

(8)如意輪観音像

住職墓地入口に如意輪観音像がある。「寛文八戌申年十二月十五日 安房國安(房)郡西長田村 念佛講衆奉造立之」とあり、寛文8年(1668)に西長田村の念仏講衆が造立している。

(9)四国八十八か所順礼供養塔

1 個人墓地に挟まれて、田中太右衛門が嘉永7年(1854)に四国八十八か所を巡った記念の順礼供養塔がある。

2 寄せ墓の中に、丸彫りの弘法大師像を載せた享和2年(1802)の四国八十八か所順礼供養塔がある。弘法大師霊場を巡った行者長右衛門と角左衛門の名が刻まれている。台座と像は一石造り。

(10)鈴木半左衛門家の墓塔

里見義豊の子長田(おさだ)河内守義房を先祖とする家の墓域が、観音堂右手の一画にある。右手前の墓石に里見家没落の際、4代目義直が館山城で討死したという伝承が記されている。没落後は西長田村に土着し、代々半左衛門と称した。里見時代の先祖4人を供養した塔である。

(11)中世石塔

五輪塔(空・風・火・水・地)の内、空輪・風輪・火輪と宝篋印塔の笠と返花座(かえりばなざ)を組み合わせている。梵字を薬研彫(やげんぼり)で刻む。

(12)馬頭観音

弘化2年(1845)7月造立。六観音のひとつで頭上に馬の頭をいただき、馬口印(ばこういん)を結んでいる。煩悩を食い尽くし、打ち砕く観音菩薩と言われ、馬の無病息災や冥福を祈った。

(13)戦没者忠霊墓碑

日露戦争(明治37年・1904~)、日中戦争(昭和12年・1937~)、太平洋戦争(昭和16年・1941~)で戦病死した西長田の人達の6基の慰霊碑がある。日露戦争と日中戦争の5人の墓は個々にあり、太平洋戦争の忠霊墓碑には岡野利一他12人の名が列記されている。1・2は観音堂の左横、3・4・5・6は右横にある。

1 陸軍歩兵一等卒勲八等中山重太墓

墓石は下半分のみ残されている。日露戦争から凱旋後、明治39年(1906)に死去。

2 陸軍歩兵二等卒早川市太郎墓

大正8年(1919)12月に佐倉歩兵第57連隊に入隊。翌年3月佐倉衛戍病院において22歳で病死している。撰文と書は豊房村長の鈴木周太郎。

3 陸軍歩兵上等兵勲八等功七級小川市五郎墓

明治27年(1894)第1師団歩兵第2連隊に入隊し、明治38年(1905)満洲にて33才で戦死。

4 陸軍歩兵一等卒勲八等石渡幸三郎墓

明治37年(1904)に歩兵第2連隊に入隊し、明治38年(1905)に満洲で戦死。享年24才。

5 陸軍歩兵伍長勲八等功七級鈴木喜太郎之墓

昭和12年(1937)に応召し、昭和14年(1939)に中国で戦死した。享年34才。

6 忠霊墓碑

太平洋戦争で昭和19年(1944)から昭和23年(1948)に戦病死した13人の忠霊墓碑。昭和28年(1953)8月の建立で、豊房村の元村長鈴木貞良の書になる。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・鈴木以久枝
2023.3.15作

監修:館山市立博物館
〒294-0036 館山市館山351-2 TEL0470-23-5212

相濱神社

相濱神社の概要

(館山市相浜42)

相濱神社は明治10年(1877)まで感満寺という不動明王を本尊とする修験道の寺であった。開基は役行者(えんのぎょうじゃ)と言われ、文武3年(699)のこととされる。明治5年(1872)の修験道廃止をうけ、明治10年(1877)の感満寺廃名不動尊改号の届け出によって寺は消滅した。感満寺の修験藤森家が神官に転じて感満寺は旧称を用いた波除(なみよけ)神社となり、さらに大正5年(1916)に村内の梶取(かじとり)神社を合祀して現在の相濱神社となった。感満寺はもと相浜字(あざ)古屋敷(現在の蓮壽院周辺)にあったとされるが、元禄大地震の大津波により本堂や仁王門など全てが流出したため、翌宝永元年(1704)に、現在の二斗田の地に移転し今日に至っている。祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)と宇豆彦命(うずひこのみこと)である。

(1)玉垣(たまがき)

大正天皇の喪が明けた昭和3年(1928)に、旧皇室典範に基づき昭和天皇の即位の礼や大嘗祭(だいじょうさい)などが京都で行われた。一連の儀式を御大礼(御大典)という。全国各地で奉祝行事が行われ、相濱神社では御大典記念として昭和3年11月に玉垣が建設された。

(2)燈籠(とうろう)

文政13年(1830)に建立された「常夜灯」である。相浜を中心に119名の名前が記されている。江戸芝金杉や深川で魚問屋や干鰯(ほしか)問屋を営んでいた5名の名前もみられ、漁業に関する房州と江戸との関わりを示す資料である。

(3)手水鉢(ちょうずばち)

奥行63cm、幅141cm、高さ58cmの小松石で出来ている。右側面には弘化5年(1848)正月に奉納されたこと、左側面には奉納者として相浜の若者中と与兵衛・兵右衛門など計12名の名がある。石工は楠見の田原長左衛門である。

(4)力石

縦長の扁平形をしており、中央の石は32貫目(約120kg)とあり、地元相浜の天野作右衛門が奉納している。その右にある石は30貫目(約112.5kg)で、「平治」の名があるが地名はない。左端にも文字はわからないが力石がある。ほかに博物館本館の屋外展示場に、50貫目(約187.5kg)で江戸深川の不動丸船頭西宮伝七が奉納した力石が借用で展示されている。いずれも奉納年は不明。

(5)出羽三山(でわさんざん)碑

大日如来を表すアーンクと「湯殿山・羽黒山・月山」の号が表面にあり、裏面に「御裏三宝大荒神」と記してある。相浜村安田三右衛門他4名と布良村の吉田嘉右衛門が、文政3年(1820)に奉納した出羽三山碑。御裏三宝大荒神とは出羽三山の守護神である。

(6)基壇(きだん)

43cm角で高さ24cm。上面に丸みを帯びた窪みがある石に、奉納者4名の名と「寛政九年(1797)巳六月吉日」が刻まれている石と、幅42.5cm、奥行17cm、高さ22.5cmで、世話人・村中・安田三右衛門の名がある石がある。何かの基壇ではないかと思われる。

(7)石垣竣工記念碑

神社と道路の境は椎(しい)の大木が茂る石垣であったが、昭和55年(1980)にコンクリートに作り替えられた。それを記念した「石垣竣工記念」の石板が内側の壁に付けられている。椎の大木が、平成15年(2003)に支障木として伐採された。

(8)出羽三山碑(土手の上)

卵形の石の正面中央に湯殿(ゆどの)山、左に羽黒山(はぐろさん)、右に月山(がっさん)と刻まれた出羽三山碑。高さは約76cm。相浜の伊勢屋忠兵衛・村田源次・長谷川久兵衛と滝口村大作場(おおさば)の岡野宗左衛門が、天保11年(1840)8月に奉納したもの。

(9)庚申塔(こうしんとう)(土手の上)

高さ約70cmの青面金剛(しょうめんこんごう)を模(かたど)った庚申塔。青面金剛の腕は左右3本ずつあり、左手は輪宝(りんぽう)及び弓と、ショケラといわれる女人の髪の毛をつかんでいる。右手は剣と三叉(さんさ)槍及び矢を持つ。上部に太陽と月、足元の左右に雄鶏と雌鶏、最下段に三猿が描かれている。奉納者は不明だが、文政5年(1822)に奉納されている。

(10)社殿

昭和29年(1954)2月20日付の宗教法人規則書類には、奥殿・幣殿7坪半(間口3間、奥行4間)の入母屋(いりもや)造りで、拝殿・幣殿(畳敷き)・本殿(幣殿より3段高い)の構造とある。建物は関東大震災によって倒壊した後、現在の社殿が周辺の神社仏閣から資材を集めて再建されたと言われている。社殿前の平屋根も拝殿で、祭礼ではその前に波除丸がつけられ御霊(みたま)移しが行われる。

(11)波除丸(なみよけまる)宝庫

祭礼は感満寺本尊のお不動様の縁日である3月28日に行われていたが、現在は3月最後の土日に行っている。宝庫には旧波除神社の名をつけたお船「波除丸」が納められている。鯨船を模した小早船の形式で漆の朱塗り。水押(みよし)が長く緋毛氈(ひもうせん)が掛けてある。車輪は木製で6個付いており、方向を変えたり止めたりするときには、てこ棒を使う。船に飾られている玉獅子には「国分産後藤喜三郎橘義信」の銘があり、彫刻は明治34年(1901)の製作である。祭礼では簾(すだれ)の前に裃(かみしも)姿の子供が殿様として乗り、屋根の上では女装や仮装をした男衆が御囃子(おはやし)や御船歌に合わせて踊るが、現在曳船(ひきふね)は行っていない。御船の道具箱は文化15年(1818)のものが残されている。

(12)外宮跡

波除丸宝庫裏の空地にある、幅144cm、高さ47cm、奥行97cmのコンクリート基礎は社殿の跡である。社殿があった頃は漁師がよくお供えをしていたという。漁業に関わりのある神様が祀られていたようだ。社殿は昭和時代末の台風で倒壊してしまい、再建されずに今日に至っている。近くに柏崎浦の熊沢氏が享和2年(1802)に奉納した手水鉢と、社殿前から移設された慶応元年(1865)の狛犬がある。

(13)稲荷神社

本殿左奥に多くのお稲荷様が祀られている。近所の人の話では町内でお祀りできなくなったり、家の跡を継ぐ人がいなくなったお稲荷様を、相濱神社の神主にお願いし、ここに集めてお祀りしているそうである。現在も稲荷講が行われている。

(14)楫取(かじとり)神社

楫取神社の旧境内地で、現在ある社殿は1980年代に再建されたもの。かつての祭神は宇豆彦命(うずひこのみこと)で、忌部(いんべ)一族の天富命(あめのとみのみこと)に従って阿波から安房へ渡って、主に漁業を指導した神である。楫取は航海の舵を取る「かじとり」に由来するという言い伝えがあり、江戸時代の書上帳には「鎮守香取(かんどり)大明神」とある。地元の人は楫取神社を「かじとりじんじゃ」とか「みょうじんさま」と呼んでいる。江戸時代には1月15日に湯立(ゆたて)神事が行われていた。

1 楫取神社旧跡碑

合祀された翌年の大正6年(1917)に建てられた「楫取神社旧蹟」の碑が境内入り口にある。

2 石垣寄付記念碑

東京日本橋の魚河岸32軒・地元の区長・漁業取締の役員・氏子らが、明治32年(1899)に石垣を寄付した記念碑である。石垣の石は合祀に伴い、大正5,6年頃(1916,1917)に漁業組合が相浜の弁天様下に建てた氷蔵に使用された。

3 力石

文久2年(1862)に奉納された40貫目(約150kg)の力石である。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
刑部昭一、鈴木正、殿岡崇浩、中屋勝義、山杉博子
2023.3.20 作

監修:館山市立博物館
〒294-0036 館山市館山351-2 TEL 0470-23-5212

上真倉・下真倉

現在は住宅地が広がる上真倉(かみさなぐら)と下真倉(しもさなぐら)は、館山城の西側に位置し、城下の寺町と豊かな農村というふたつの性格を備えていました。古代から開発されてきた穀倉地帯を歩いてみましょう。

上真倉(かみさなぐら)

(1)法蓮寺

法輪山法蓮寺という日蓮宗のお寺。江戸時代までは下真倉村に属していた。天正4年(1576)に記された法蓮寺文書によれば、文永元年(1264)、日蓮聖人が説法した三原(南房総市和田町)の地頭・池田和泉守の館の草庵を元に建立され、永禄7年(1564)に北条氏が館山平野へ攻め込んだ際には、那古寺や三芳(南房総市)の延命寺と共に大きな被害を受けたという。現在の鐘楼堂は天保11年(1840)に青柳出身の34世日童が建立したもので棟札が伝わる。墓地には牛頭観音3基や昭和3年(1928)の汐入川溺死者供養碑、関東大震災で亡くなった女性の墓などがある。牛頭観音は大正14年(1925)に長須賀と塩見の人物が建てた2基と、昭和11年(1936)に府中の人物が建てた1基で、牛の姿が彫られている。このほか、境内には玉姫稲荷社と竜神堂が祀られている。

(2)妙善寺跡

正光山妙善寺という日蓮宗のお寺があった場所。江戸時代までは下真倉村に属していた。法蓮寺31世である正光院日到の隠居寺として建てられたと伝わる。法蓮寺の山門前にある「正光山妙善寺」の石柱は宝暦10年(1760)の建立。その左の題目塔は日到が宝暦7年(1757)に建立したもの。

(3)長泉寺

深広山長泉寺という浄土宗のお寺。江戸時代には下真倉村に属していた。墓地には上真倉・下真倉で商店を営んだ加藤兼松氏の事績を記した、昭和8年(1933)建立の青柳堂開祖記念碑がある。本堂前にある六地蔵は享保3年(1718)の建立。以前は「オコモリ」が行われ、近所の女性がおにぎりなどを持って集まった。この寺の周辺が青柳という字で、下真倉村の中心部だった。

(4)日枝神社本宮跡

日枝神社の旧社地と伝えられ、以前は祭礼の際に幟旗を立てていた。幟旗が劣化したため、平成30年(2018)に「日枝神社本宮跡」と刻まれた現在の石碑を建てた。近くに「オサンノウ」という屋号の家があり、敷地内の椎の木はご神木と伝わる。江戸時代までは下真倉村に属していた。

(5)馬頭観音・牛頭観音

右に馬頭観音、左に大正9年(1920)の牛頭観音が並んでいる。牛頭観音は5頭の牛の名前・命日とともに、牛の姿が刻まれている。

(8)字一向堂(あざ いっこうどう)

下真倉の中にある上真倉地番の飛び地。元和元年(1615)、門雪という僧によってこの地に建立された草庵「一向堂」が、上真倉にある浄土真宗の宗真寺の前身と伝わる。その後、寛永2年(1625)に上真倉村を支配した旗本・石川政次が、門雪に土地を寄進し、現在地に宗真寺が建立されたと伝わる。

(9)辻の堂

辻という字にある墓地で、以前は建物があり「お堂」と呼んでいた。寛政5年(1793)の下真倉村絵図(青柳区蔵)では「地蔵堂」と記されている。敷地内には中世の五輪塔の笠石や宝珠が確認できる。向かって左側に並ぶ地蔵のうち右から2体目は、全国を廻国して大乗妙典という経典を奉納した肥後国玉名郡中村(熊本県)の人物が建立したもの。この他、安政2年(1855)の馬頭観音もある。

(10)ヤマンカミ(山の神)

辻の集会所を「ヤマンカミ(山の神)」と呼んでいる。以前は山の上にあったが、お参りするのが大変なため、昭和の初め頃に現在地へ下ろしたという。

(11)長光寺

富士山長光寺という曹洞宗のお寺。『安房志』によれば、天文元年(1532)に一峰桂寅が開山した。天正17年(1589)に里見義康より高10石を寄進され、江戸時代にも引き続き朱印地10石を有していた。寛政10年(1798)に火災で焼失し、享和2年(1802)に本堂を再建したという。その後、火災により本堂が焼失し、平成5年(1993)に再建された。安房郡札観音巡礼の16番札所。館山市腰越から移転してきたとの伝承もあり、腰越の滝川沿いに長光寺という字がある。寺の向かい側の墓地には「当寺開基」として里見義康と忠義の文政5年(1822)の供養塔があるほか、歴代住職の墓や、延宝元年(1673)の如意輪観音像や延宝8年(1680)の地蔵像などがある。

(12)地蔵堂

お地蔵様を祀るお堂。墓地には文政7年(1824)に観音講中が建てた三面八臂の馬頭観音像や文化年間の廻国供養塔がある。

(13)浅間宮

上真倉のうち戸倉の人々で管理しており、毎年7月1日に山頂までの参道を掃除する。山頂に浅間宮と明治36年(1903)の手水鉢がある。浅間宮の左手に石尊と呼ばれるお宮と天保2年(1831)の手水鉢があり、小御嶽と思われる。鴨川の富士講の行者・栄行真山が明治8年(1875)にまとめた安房国浅間宮百八番の第48番にあたり、拝み歌「三国を皆白妙の身になして今あら玉の富士の山もと」を記した奉納札がお宮に納められている。昭和12年(1937)建立の鳥居があったが、令和元年房総半島台風で倒壊した。

(14)庚申塚(こうしんづか)

戸倉橋の東側にある塚。「オコウシンヤマ」と呼ばれている。塚の上には元禄4年(1691)の庚申塔と月山・湯殿山・羽黒山の出羽三山碑がある。現在は、オマツリなどは行われていないという。

(15)東田遺跡

汐入川南岸の標高10~14mの河岸段丘に位置する古墳時代の遺跡。国道410号バイパス建設工事に先立って調査が行われ、汐入川から用水を引き入れたと思われる溝状の遺構が発掘された。溝状の遺構から大量の土師器(はじき)や土製模造品などが出土し、祭祀が行われたことが分かる。この他、竪穴住居跡や倉庫と考えられる高床建物跡も確認されている。

下真倉(しもさなぐら)

(6)長須賀条里制遺跡

汐入川北方の館山平野に広がる古代律令制に基づいた条里制遺跡で、国道410号バイパス工事に先立って調査が行われた。調査の結果、弥生時代から古墳時代にかけて営まれた水田や、古墳時代後期の水路、木製品を利用した取水口などが見つかった。古墳時代後期の水路やため池からは大量の破砕された土師器や須恵器、小銅鏡、子持勾玉などが出土しており、水辺の祭祀が行われたと考えられている。

(7)日枝神社

下真倉の鎮守で、江戸時代には山王社、明治期には三輪神社と称していた。寛政5年(1793)の下真倉村絵図(青柳区蔵)では現在地に描かれ、同年の下真倉村明細帳(川名家文書)には「氏神山」と記載がある。江戸時代には加藤家が神職を勤め、現在も「ネギドン」という屋号で呼ばれる。境内には文政10年(1827)奉納の手水鉢や大正3年(1914)奉納の狛犬、昭和3年(1928)に広島県西條町の人物が奉納した石灯籠などがある。本殿右裏手の石碑は、関東大震災の被災に対する天皇からの下賜金を感謝し、大正14年(1925)に建立されたもの。裏面に下真倉区の被害状況が記される。この他、境内には稲荷社が祀られている。


館山市立博物館(2022.11.20作成)
千葉県館山市館山351-2 TEL 0470-23-5212

里見家の女性たち

鎌倉公方(かまくらくぼう)足利氏と関東管領(かんとうかんれい)上杉氏の対立の中、鎌倉公方足利成氏(しげうじ)に仕えていた里見義実(よしざね)が15世紀中頃に上杉勢力下の白浜(南房総市)を制圧してから、10代目の忠義(ただよし)が伯耆国(ほうきのくに)倉吉(鳥取県)へ転封(てんぽう)され、元和(げんな)8年(1622)に没するまでの約170年間房総里見氏は続いた。里見氏に関わる女性たちの歴史や伝承も残され、政治に影響力を持った女性がいたという研究成果も出てきた。嫡流と庶流の政権交代となった天文(てんぶん)の内乱(1533~1534)での義豊(よしとよ)の妻たち/第2次国府台(こうのだい)合戦で夫を失い、菩提を弔う義堯(よしたか)の娘/義頼(よしより)に反乱を起こした正木憲時(のりとき)の弟・頼房(よりふさ)の妻になった義弘(よしひろ)の娘/義頼の妻(義康(よしやす)の母)で孫の忠義の時代には「御隠居様」と呼ばれた初代正木時茂の娘/忠義の妻で忠義の33回忌に高野山に供養塔を建てた江戸時代の老中(ろうじゅう)大久保忠隣(ただちか)の孫娘など、里見氏に関わる13人の里見家の女性を紹介する。

房総里見氏家系図

(1)義豊の妻

(鳥山時貞(とりやまときさだ)の娘)
福生寺・姫塚・南条城跡>

義豊の家臣で南条城主鳥山時貞の娘。天文の内乱で義豊が討ち死にした時に自害した。南条城(館山市)の北側にある石積みは姫塚(ひめづか)と呼ばれ、その墓所だという。彼女の霊を弔うために乳母(めのと)が尼僧となりそこに一溪寺(いっけいじ)を建てた。里見氏から2石の寺領を与えられ、その後寺は福生寺として古茂口(館山市)に移転したという。開基は「福生寺殿一溪妙周大姉(ふくしょうじでんいっけいみょうしゅうだいし)」とされ、歴代住職の墓域にある大きな房州石の五輪塔は、義豊の妻の墓と伝えられる。姫塚から移されたのかもしれない。

(2)義豊の妻「倉女(くらじょ)」

(小倉定光(おぐらさだみつ)の娘)

※一般公開は行っていません。

義豊の妻・倉(くら)は倉女と通称される側室。南房総市和田五十蔵(ごじゅうくら)の小倉家には、倉女の墓といわれる供養塔がある。同家に伝わる『黒滝哀史(あいし)』では、天文3年(1534)の滝田城(南房総市下滝田)落城の際、義豊の子を身籠っていた倉女が、兄の定綱(さだつな)に連れられて五十蔵へ逃れ、男児を出産した。文太丸(ぶんたまる)と名付け、義豊の命令通り定綱の実子と言いふらして養育したという。倉女は産後に病死したと伝えられている。

(3)高田(たかだ)姫と梅田(うめだ)姫(双子)

高田寺・妙蓮寺跡>

二子区に里見家双子の娘の話が伝わっている。安養寺(館山市二子)裏山のさらに北側にあった「二子塚」は、高田姫の塚とか双子の塚と伝わっている。「里見髙田姫和讃(さとみたかだひめわさん)」では、高田姫は17才の時に19才の夫と死別したと唄っている。高田姫供養のため建立された高田寺(館山市安東)の谷奥には、姫の墓と伝わる五輪塔がある。位牌には「高田寺殿花室妙香大姉(こうでんじでんかしつみょうこうだいし)」「天文五年(1536)」没とある。梅田姫は、妙長寺(みょうちょうじ)(館山市二子)南にあった妙蓮寺(みょうれんじ)の開基と伝えられてる。高田姫と梅田姫の名から里見家ゆかりの双子の姫と想像されている。

(4)義堯の娘「種姫(たねひめ)」

(正木大太郎(まさきだいたろう)の妻)
<宝林寺・種林寺>

夫の正木大太郎は永禄7年(1564)の国府台合戦で戦死したという。種姫は22歳で出家し、その年、上総国朝生原(あそうばら)(市原市)に宝林寺(ほうりんじ)を建て亡き夫を弔った。数年後、白浜に種林寺(しゅりんじ)を建てたといい、里見氏から寺領15石を与えられた。現在は廃寺となり、地元の人たちが顕彰碑を建てている。晩年、宝林寺に帰り天正17年(1589)48才で没した。同寺では「ふさ姫」と呼び「宝林寺殿慶州妙安大禅定尼(ほうりんじでんけいしゅうみょうあんだいぜんじょうに)」の位牌と供養塔がある。

(5)義弘の妻

(足利晴氏(あしかがはるうじ)の娘)
<琵琶首館・長泉寺>

義弘の後室。古河公方(こがくぼう)足利晴氏の娘で、梅王丸(うめおうまる)の母。「久栄(きゅうえい)」という印文と大黒天像を配した朱印を使用し、独自の権限を持っていた。元亀4年(1573)の朱印状では、長泉寺(ちょうせんじ)(南房総市富浦町原岡)に対し、乳母(めのと)に与えた土地の管理を命じている。梅王丸が義頼との家督争いに敗れた後、彼女は養老川に囲まれた琵琶首館(びわくびやかた)(市原市田淵)に幽閉され、天正11年(1583)に没したという。

(6)義弘の妻「青岳尼」

(足利義明(あしかがよしあき)の娘)
興禅寺・泉慶院跡>

小弓公方(おゆみくぼう)足利義明の娘で、義弘の前室。一族が天文7年(1538)の国府台合戦で戦死し、里見家に保護された。鎌倉尼五山筆頭(かまくらあまごさんひっとう)の太平寺住職となったが、後に還俗して義弘の妻になった。開基である興禅寺(こうぜんじ)(南房総市富浦町原岡)境内の供養塔には、「智光院殿洪嶽梵長大姉(ちこういんでんこうごくぼんちょうだいし)」と天正4年(1576)の没年がある。慶長年間(1596~1615)の寺領56石余。泉慶院(せんけいいん)跡(館山市上真倉)にも、法名・没年が記載された供養塔がある。この寺は梅王丸を開山に青岳尼が開基し、160石余の破格の寺領が与えられていた。

(7)義弘の娘

(正木頼房の妻)
<心巌寺>

「天秀院殿長譽壽慶大姉(てんしゅういんでんちょうよじゅけいだいし)」は義弘の娘で、義頼の姉妹である。小田喜(おだき)の正木憲時(のりとき)が天正8年(1580)に義頼に反乱したとき、憲時の弟・頼房(道俊(どうしゅん))は金山城(鴨川市)を守備したが、落城後は義頼に従い、後に壽慶(じゅけい)を妻にした。壽慶山心巌寺(鴨川市貝渚)には、夫妻の供養塔(左が壽慶)があり、壽慶を義弘の長女と刻んでいる。壽慶は慶長10年(1605)、道俊は慶長16年(1611)に没している。

(8)義弘の娘「佐与姫(さよひめ)」

<源慶院>

源慶院(げんけいいん)(館山市安布里)の境内の右高台に、佐与姫の供養塔がある。姫の追福のために建立された。「源慶院殿一法貞心大姉(げんけいいんでんいっぽうていしんだいし)」「天正七年(1579)」没と刻まれている。同寺の創建は義弘で、開基は佐与姫とされ、本尊の地蔵菩薩の胎内(たいない)に姫の持仏(じぶつ)があると伝えられている。

(9)義頼の妻「鶴姫」

(北条氏政(ほうじょううじまさ)の娘)
<海禅寺>

天正5年(1577)に義弘は北条氏政と和議を結び、氏政の娘を義頼の正室に迎えた。鶴姫は、相模から持参した「十一面観音立像」を、海上通行の安全を祈って岡本城観音山にお祀りした。鶴姫が亡くなり岡本城も廃城となった後、像が「相模に帰りたい」と海を荒らすため、地元の人が海の見えない海禅寺(かいぜんじ)(南房総市富浦町豊岡)に安置したという。天正7年(1579)没、法名「龍寿院殿秀山芳林大姉(りゅうじゅいんでんしゅうざんほうりんだいし)」。

(10)義頼の妻「御隠居様」

(初代正木時茂の娘)
<長安寺>

鶴姫が嫁す前の義頼の妻で、義康の母である。孫の忠義の時代には「御隠居様」と呼ばれ、里見御一門衆で3番目に多い知行高だった。小田喜正木家の菩提寺である冨川山(ふせんざん)龍雲院長安寺(鴨川市宮山)の中興開基で、同寺は里見氏より115石の寺領を与えられた。慶長15年(1610)に没した御隠居様「龍雲院殿桂窓久昌大姉(りゅううんいんでんけいそうきゅうしょうだいし)」の供養塔が、延宝6年(1678)に建てられている。他にも開基初代時茂の宝篋印塔(ほうきょういんとう)や御隠居様御局(おつぼね)の墓、2代目時茂(義康の弟)の妻の五輪塔と宝篋印塔がある。

(11)義頼の娘

(正木某の妻)
<真楽院>

義頼の娘が正木某に嫁ぎ15才で初産の時、伯母の嫁ぎ先・東条家の医師戸倉玄安(とくらげんあん)が調薬を行ない、光厳寺(南房総市富浦町青木)の禅妙(ぜんみょう)が祈願した安産札と腹帯を与えられ無事に出産したと伝わる。真楽院(館山市上真倉)は玄安が安産守護の三神を勧請(かんじょう)して禅妙が開いた寺である。

(12)忠義の妻「東丸様(ひがしまるさま)」

(大久保忠隣の孫娘)
<高野山>

徳川幕府の有力者で小田原城主大久保忠隣の孫娘。徳川家康の長女亀姫の孫でもある。夫・忠義は慶長19年(1614)倉吉(鳥取県)に国替(くにがえ)を言い渡され、元和8年(1622)この世を去った。彼女は弟・大久保忠職(ただもと)のもとへ身を寄せ、岐阜・明石・唐津の転封先ごとに、忠義の菩提を弔う寺院を建立した。唐津で東丸様と呼ばれていた頃の、忠義33回忌にあたる承応3年(1654)には、高野山奥の院にも供養塔を建立している。その翌年里見家の再興を願いながら56才で没した。法名は「桃源院殿仙應妙寿大姉(とうげんいんでんせんのうみょうじゅだいし)」。墓は唐津の大久保家の墓地にある。その7回忌の万治4年(1661)に、忠職が高野山の忠義父娘とならべて供養塔を建立。博物館に忠義塔の複製がある。

(13)姫宮様(ひめみやさま)

館山市正木の西郷(にしごう)集落の田んぼの畔(あぜ)に、いくつかの中世の石塔がまとまって祀られている。五輪塔や宝篋印塔の一部で、地元では里見氏の姫を葬ったものと伝えられ、姫宮様とよばれている。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・殿岡崇浩
R4.7.7

監修 館山市立博物館
〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

山本 御嶽神社

御嶽(みたけ)神社の概要

御嶽神社は館山市山本の山本区の氏神で、日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭神とする。歴史は古く、社殿に残る棟札から何回となく再建修復が続けられてきたことがわかる。最古の札は万治3年(1660)に五穀成就を願った祈祷札である。宝永7年(1710)の棟札は、元禄地震(元禄16年=1703)で被災した社殿を再建したものだろう。さらに寛政12年(1800)に拝殿の再建、文化8年(1811)にも拝殿を再建、安政2年(1855)に本殿の再建、明治5年(1872)に拝殿の再建、大正4年(1915)に本殿の修理と拝殿の再建、昭和3年(1928)に本殿の屋根瓦葺替(ふきかえ)がなされている。なお、現在は本殿・拝殿共に銅板葺に改修されて、拝殿には向拝を増築して精巧な彫刻も施された。本殿の龍などの彫刻は、安房の3名工の一人初代後藤義光の師・後藤三次郎恒俊(つねとし)の作である。

(1)神号碑

地元の山岸新造が願主となり、山岡鉄太郎(鉄舟(てっしゅう))の書いた書を基に神号碑として大正元年(1912)11月に建立した。碑文は表面中央に大きく「御嶽大神」、左に小さく「正四位山岡鉄太郎謹書」「願主山岸新造」、裏面に「大正元年十一月建之」と刻まれる。

山岡鉄太郎(1836~1888)は幕末・明治期の剣術家・政治家。鉄舟と号して、勝海舟・高橋泥舟(でいしゅう)と並ぶ幕末の三舟(さんしゅう)のひとり。明治維新後は明治天皇の侍従等を歴任した。

(2)手水鉢(ちょうずばち)

「文化九(1812)壬申天六月吉日」に、地元の谷貝(やがい)久右衛門が願主となって奉納したもの。

(3)伊勢神宮参拝記念碑

当社の氏子は神への信仰心が篤(あつ)く、毎年のように伊勢神宮参拝に出かけるとのこと。この地すべり防止を兼ねた石版(縦36cm、横幅93cm、厚さ16cm)は、昭和55年(1980)の参拝者が寄進したものだが、これ以外にも平成時代の第61回と第62回の式年遷宮(しきねんせんぐう)時に参拝した記念として、社号碑・狛犬・拝礼鈴などが奉納されている。

(4)石灯篭

昭和3年(1928)の御大典記念に、氏子の山岸ハナが77歳の喜寿を記念して奉納したもの。

(5)手水鉢

明治18年(1885)に、地元の素封家(そほうか)・小原謹一郎が願主となって奉納したもの。手水鉢正面には篆書(てんしょ)で「奉献」の文字と巴紋が彫られ、土台石の四隅には亀の彫刻が施されている。

(6)鬼瓦

昭和61年(1986)の社殿修復工事の際、屋根瓦の葺替えが行われ銅板葺となったため、旧来の瓦が降ろされた。その際、鬼瓦一基を記念として境内の一画に、「社殿修復記念碑」と共に置かれたもの。

(7)本殿彫刻

本殿には多くの彫刻が施され、虹梁(こうりょう)には菊の花を添えた鮮やかな若芽彫り、その上に向き合う躍動的な二頭の龍。木鼻(きばな)の獅子、肘木(ひじき)は波に飛龍、手挟(たばさみ)には鶴に松、海老虹梁(えびこうりょう)の若芽彫りと大瓶束(たいへいづか)を挟んで波に菊。脇障子(わきしょうじ)の上り龍と下り龍。何れをとっても緻密で精巧、見事な出来栄えである。作者は初代後藤義光の師匠・後藤三次郎橘恒俊(江戸京橋)。制作年の記載はないが、残された棟札によれば本殿は安政2年(1855)に再建されているので、その時期に作られたと考えられる。

(8)狛犬(こまいぬ)

裏参道にかわいい狛犬がいる。「寛政十二(1800)庚申(かのえさる)九月大吉日」の文字がある。台座には、奉納者22名の名があり、女性3名の名もみえる。願主は当初の小原善兵衛と井上五兵衛、石工は元名村(鋸南町)の大野常五郎である。社殿前の狛犬が第62回神宮司記念遷宮参拝記念の平成25年10月に奉納され、この年にも拝殿も新築されているので、それを契機に現在の場所へ移動したものと思われる。

(9)堂の下の石塔群

●大日如来石像

A…智拳印(ちけんいん)を結ぶ金剛界(こんごうかい)大日如来である。文化13年(1816)の造立。5名の名があり、出羽三山供養塔と考えられる。

C…地蔵菩薩の体に大日如来の頭が接合されたものと思われる。

●出羽三山供養塔

出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)参詣のため、各村では講を組織し、江戸中期からは供養塔の造立が盛んになった。DEHJは出羽三山と胎蔵界(たいぞうかい)大日如来の種字(しゅじ)アーンクを刻む。

B…「浄真拝」とある。浄真という僧が近隣の大戸村の1名を含む15名の村人を先導したと思われる。

E…村人23名と「円成」の名が記され、同じ基台に寛政2年(1790)と寛政11年(1799)の年号がある。

G…享保8年(1723)の造立。種字アーンクと村人15名が確認できる。湯殿山はアーンクで表され、出羽三山供養塔と考えられる。

H…村人10名が安永2年(1773)に造立。

J…塔身に安永8年(1779)の年号と2名の名、基台には延享元年(1744)の年号と11名の名がある。別物が積み重ねられた供養塔である。

●六十六部廻国塔

全国66か国の寺社に大乗妙典(だいじょうみょうてん)(法華経)を納めるために霊場を廻る人を六十六部(六部(ろくぶ))という。塔には「天下泰平」「国土安全」などの願いが刻まれることが多い。KLMは、上部に阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)の種字を刻む。

I…山本村の鈴木長左衛門(同阿弥)が父母の冥福を祈って廻国し、享保15年(1730)に造立。

K…山本村の谷貝久右衛門が享保14年(1729)に造立。風化で造立目的が判読できない。廻国塔ではない可能性もある。

L…江戸中期の造立と思われる。両側面に大日如来報身真言(アビラウンケン)が梵字(ぼんじ)で刻まれる。

M…山岸八左衛門が享保14年(1729)に建立。金剛界大日如来(バザラダトバン)と胎蔵界大日如来(アビラウンケン)の梵字がある。両側面に、代々の親族縁者の成仏や、幸福で長命なことの願いを記す。

●金剛界四方仏層塔(そうとう) F

大日如来の智の世界を金剛界という。塔身中央を大日如来と見なし、四方に不空(ふくう)成就如来(北)・阿閦(あしゅく)如来(東)・宝生(ほうしょう)如来(南)・阿弥陀如来(西)を配し、金剛界五仏を表す。この塔身の梵字は、南北の位置が反対である。

●聖(しょう)観音菩薩石像 N

念仏講の16名により、延宝7年(1679)10月15日に造立された。聖観音は特定の月齢(げつれい)の夜に月を拝む月待(つきまち)や念仏供養などの主尊とされることがある。

●虚空蔵(こくうぞう)菩薩石像 O

右手に宝剣、左手に宝珠(ほうじゅ)を持つことから虚空蔵菩薩と思われる。知恵や記憶力を授ける菩薩として信仰されるが、十三夜待や十五夜待の主尊とされることもある。「村仲」とあり村で奉納しているので、月待塔の可能性がある。

(10)幟立(のぼりたて)と力石

幟立は平成9年(1997)8月に青年館前の現在地に移動した。昭和39年(1964)の農業構造改善事業により幟を建てる土地が無くなったためである。幟の柱は21mもある。幟の大きさは以前のものと同じで、祭りの日には大きな吹き流しの幟が勇壮に舞っている。

幟立の横には三つの力石がある。1個は大日如来(胎蔵界)の梵字と月山・湯殿山・羽黒山の文字が刻まれている。他の2個には文字がない。3個とも重さは不明である。文字があるものは三山碑であるが、力石としていた様である。また力石を持って社殿前まで登っていったという古老の話も残されている。


作成;ミュージアムサポーター「絵図士」
川崎一・鈴木正・殿岡崇浩・中屋勝義・山杉博子
2022.3.1 作

監修 館山市立博物館
〒294-0036 館山市館山351-2
TEL 0470-23-5212

神余・日吉神社と安楽院跡

日吉(ひよし)神社の概要

旧豊房村の村社。延暦23年(804)、神余(かなまり)に居城を構えていた金丸(かなまる)氏により創建されたという。祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)で、国土建設・酒造・五穀豊穣などの神様として知られる。2月8日が勧請(かんじょう)の日とされ、毎年安房神社から社人が来て神楽を奏し、平郡亀ヶ原村(館山市亀ヶ原)の神余田(かなまりだ)から供米が献じられていたという。明治41年(1908)頃に村内にあった8社が合祀された。境内は広く、石灯篭・手水石・力石などがある。例祭は7月19日・20日で、初日に繰り出す神輿の屋根には三つの「二葉葵」の神紋がつけられ、黒の漆と金箔の飾り物の中から、美しく彩色された彫刻が映える。例祭日に奉納される「かっこ舞」は雨乞を目的としている。笛のお囃子に合わせて親獅子・雌(め)獅子・中獅子のカッコ3人とササラ4人が踊る。平成8年(1996)6月26日に館山市無形民俗文化財に指定された。神余の「かっこ舞」の歴史は古く約200年前からと伝えられている。

(1)社号碑

安山岩の基壇に「表徳」、その上の花崗岩(幅39cm・高さ204.5cm)に「日吉神社鎮座」と表した社号碑は、地元の青木禎二郎と東京本所の根来松治が明治31年(1898)に奉納した。尚、昭和50年(1975)頃にダンプカーが衝突し折損。その後、内容をそのままに今の石柱に取替えた。

(2)石灯篭

安山岩と思われる高さ約196cmの石灯篭は、左右の上部基壇に「奉」と「納」。右側歌舞伎壇の正面に「明治二十五年(1892) 旧辰二月 建立」「願主氏子中」と刻まれ、左側下部基壇の右側面には「石工 加藤松治」の銘が刻まれている。

(3)手水石

正面に「奉納」と大きく表し、左隅に当時の神余村名主である金丸家第41代「茂臼」の落款が刻まれている。この手水鉢は村内の加左衛門家の利助と氏子中が大願主で、裏面にある寄進者は金丸・和頴(わがい)はじめ総数54名にのぼる。世話人は若者中。奉納は天保9年(1838)正月。石工は滝口村の吉田亀吉。石は同村横須賀の久太郎の船で運ばれた。

(4)二の鳥居

右柱に「紀元二千五百九十一年」、左柱に「昭和六年(1931)八月建立」「願主 和田 喜左衛門」とあり、神余区加藤組字(あざ)和田の喜左衛門が奉納した。

(5)力石

石段を登り切った左脇に力石が2つある。お祭りの際に力自慢をして楽しんだものだろう。左側の力石には「■十六■」、正面には「奉納 願主 利助 ■兵衛」の文字が刻まれている。右側の力石も正面にも「奉納三百七貫目(約150kg) 願主 利助 久五郎」の文字がある。

(6)石灯篭

江戸中期、寛保2年(1742)3月吉日に若者仲間が奉納したもの。現状の灯篭は火袋が外れ、返花(かえりばな)土台と受花台が二段に積み上げられ竿石に笠石が積まれている。豊作を祈願して奉納されたと思われる。

(7)石灯篭

嘉永7年(1854)に願主として与左衛門と源蔵が奉納したもの。世話人は氏子中。火袋が欠損している。祠(ほこら)の跡地と思われる場所に設置されている。かつて境内には末社八坂神社があったという記録がある。

(8)地蔵菩薩坐像

六地蔵の左側に竿の上に座ったお地蔵様がいる。竿の右側面には「文化十一(1814)戌」とあり、日付は欠損している。正面には右から9人の戒名が刻まれており、玉雪童子・秋露童女・妙玉童女・智浄童女・明音童女などと子供の戒名が多く刻まれている。左側面には、「聖霊菩薩 一切聖霊」の文字がみえる。下部に続くが切断されている可能性がある。

安楽院跡(自称院 恵眠坊墓地)の概要

安楽院は嘉吉2年(1442)に金丸茂詮により創建されたとされる新義真言宗の寺だった。開山は文安5年(1448)、頼智法印(金丸景貞の第2実弟で茂詮の叔父)。本尊は薬師如来だった。創建の後は明治の神仏分離令が発布されるまで、日吉神社の別当寺であった。大正12年(1923)の関東大震災で潰れ、昭和3年(1928)に同区の自称院(じしょういん)に合併された。応永24年(1417)、金丸26代景貞が家臣の謀反により切腹滅亡した後、27代茂詮が金丸家を復興し、金丸家一族及び忠臣戦死者のたtめに菩提寺を村内平田(旧居城・神余城の一角)に建て、医王山安楽院と号したのが始まり。墓地には、江戸時代に神余村の名主を勤めた金丸氏子孫の伊佐(いすけ)(金丸)家、医師や学者を出した和頴(わがい)家など旧家累代の墓がある。

(9)聖観音菩薩立像

墓地の入口右手の六地蔵の裏側に、高さ140cm程の聖観音像の供養塔がある。念仏講仲間の造立で、安山岩の石材に肉厚な立像が彫られている。年号が欠損しているが、像の姿から寛文(1660年代)以前の建立と考えられている。銘文中には茶女・熊女・鶴女・猿女等17人の女性の名ばかりが刻まれている。

(10)戦没者碑

墓地の入口左脇に4基の戦没者の碑が建っている。

田中松之助

神余出身の陸軍歩兵一等兵。明治34年(1901)に歩兵第二連隊に入隊。日露戦争で台湾・樺太(からふと)を転戦して凱旋し、明治39年(1906)1月に除隊した。4月に勲章を賜るが、明治45年(1912)に26歳で病没した。鈴木周太郎の撰文を弟・浅次郎が刻んでいる。

田中幸治

神余出身の陸軍歩兵上等兵で田中三良の弟。明治35年(1902)に入隊。明治37年(1904)に日露戦争で遼東(りょうとう)へ出征し、5月清国南山で伝令の任務中に弾丸が胸部を貫き23歳で戦死した。豊房村長の鈴木周太郎が撰文。

田中茂

陸軍伍長。昭和13年(1938)に陸軍に入隊。昭和16年(1941)に日中戦争に参戦した。昭和19年(1944)3月に硫黄島に転戦したが、昭和20年(1945)3月に30歳で戦死。碑は父・田中三良が建立した。

伊介(いかい)政治

陸軍兵長。重要任務を行う赤羽工兵隊に入隊した。満洲へ出兵し、黒河(こくが)所属部隊で敵中に入り本体を有利に導く挻進隊に所属した。昭和20年(1945)3月20日に44歳で戦病死した。

(11)金丸茂堯(神余村最後の名主)の墓

墓地の中程に最後の神余村名主金丸六右衛門茂堯(しげたか)の墓がある。母子には金丸(江戸時代は伊佐と称した)家の歴史が次のように刻まれている。

「我家の祖先は、藤原鎌足のひ孫魚名(うおな)の第三子巨麻金麿(こまのかなまろ)宗光である。宗光は東夷で功をたて、甲斐よりこの土地に来て、金丸を名乗った。江戸時代になって部門から下り、帰農(きのう)して名主を勤め、代々子孫が受継いだ。宗光から43代目にあたる茂堯は天保13年(1842)2月5日生まれ。幼名は土用太郎。のち六右衛門に改名した。安政6年(1859)に18歳で名主を継ぎ、明治の王政維新で長尾藩本多公の租税局に勤めたが、廃藩置県となり全ての職を辞して隠居。明治26年(1893)7月28日に53歳で病没した。今、わが家のあらましをここに刻み、碑を建てる。神世より連綿と続いて、藤原氏の大臣(おとど)として4世、その後武勇の士を30世代にわたって出し、名主10代を務めて、村に徳をなした。いやしき身ながらも家名を再び興す責が子孫にある」と。

明治32年(1899)11月に子息の金丸家44代金丸雄太郎(茂昌)が建立した。


<作成;ミュージアム・サポーター「絵図士」
刑部昭一・川崎 一・鈴木 正・中屋勝義・山杉博子>
2021.12.15 作

監修 館山市立博物館
〒294-0036 館山市館山351-2
℡.0470-23-5212

田原長左衛門と石工俵家の世界

田原長左衛門と石工俵家の概要

館山市館山の楠見区にある俵石材店は、江戸時代の田原長左衛門から200年以上続く石屋です。明治初期に田原から俵姓となり、現当主は8代目になります。屋号は「長左衛門」といいます。

古い帳簿類は災害でなくなり、また、制作・奉納の年代が記されていない石造物もあり、詳しいことが判明しない作品もあります。江戸から明治初期の長左衛門の作品は、長左衛門を襲名した複数人の作品の可能性も考えられます。5代目の「俵光石」については別紙で紹介しています。ここに取り上げた作品の不明点については、今後、資料等が新たに見つかって修正されることを願っています。

長左衛門の記銘例

  • 長(3)1839年…楠見村石工 田原長左衛門
  • 長(5)1841年…館山楠見石工 田原長左衛門
  • 長(4)1848年…館山楠見石工 田原長左衛門
  • 長(7)1853年…館山町石工 長左衛門
  • 長(2)1860年…願主館山 石屋長左衛門
  • 長(6)1864年…楠見浦石工 長左衛門
  • 長(8)1881年…細工人立山町 俵長左衛門
  • 長(9)1884年…細工人当国館山町 俵長左衛門

長(1)石灯籠

高皇産霊(たかみむすび)神社 高井175

石灯籠一対のうち左側灯籠の竿に「嘉永二酉年」、右側灯籠の台座に「館山楠見 石工長左衛門」と刻まれている。総高240cm。嘉永2年(1849)、田原長左衛門の作。氏子中で奉納した。

長(2)阿弥陀仏百度石

善栄寺 塩見1051

お百度石は門前の左側、梅の木の根元にあり、高さ82cm、幅25cm。表面に「■弥陀仏百度石」とある。石塔の上部が欠けているが、残された「庚申(かのえさる)」の干支(えと)から万延元年(1860)6月のものであり、館山の石屋長左衛門が願主となって、阿弥陀様へのお百度参りのために建てたことが分かる。善栄寺の本尊は「あざとり阿弥陀」として信仰される阿弥陀如来である。

長(3)狛犬

海南刀切(なたぎり)神社 見物788

総高194cm、狛犬と台座の高さは126cm。天保10年(1839)、田原長左衛門が江戸京橋石川岸の彫工兼吉とともに彫ったもので、見物村世話人5名と若者たちが奉納した。左狛犬の台座正面に白虎(びゃっこ)、右側面に朱雀(すざく)、右の狛犬台座正面に青竜(せいりゅう)、左側面に玄武(げんぶ)の四神(しじん)が彫刻されている。神社の祭神は刀切(なたぎり)大神で、元は浜田の船越鉈切(なたぎり)神社と一神で海神の豊玉姫命(とよたまひめのみこと)を祀っていた。

長(4)手水石

相浜神社 相浜42

弘化5年(1848)奉納。高さ59cm、幅141cm、奥行63cmで、石材は小松石。「当所若者中」と世話人12名の名と「館山楠見 石工田原長左衛門」の銘がある。修験の感満寺(かんまんじ)の時代に奉納されたが、明治5年(1872)の修験道廃止令により相浜神社になった。

長(5)手水石

智恩寺 神余2785

天保12年(1841)奉納。高さ45cm、幅108cm。正面「奉献」の文字の間に「丸に二引き」の里見の家紋。背面に「願主氏子中」とあり、上の台組の熊野神社から移したものか。世話人6名・氏子12名と、「館山楠見 石工長左衛門」の銘がある。里見義康開基の寺。

長(6)一字一石大乗法華塔

源慶院 安布里647

元治元年(1864)建立。総高225cm。法華経の経典を一文字ずつ小石に書いて、極楽往生・追善供養などを願って埋納したもの。台座左側面に願主2名・世話人3名と「楠見浦 石工長左衛門」の銘が記されている。源慶院は天正元年(1573)に、里見義弘の娘佐与姫(さよひめ)によって創建された曹洞宗の寺。

長(7)光明真言供養塔

小松寺 南房総市千倉町大貫1057

嘉永6年(1853)に建立。総高350cm。格狭間(こうざま)に「桐の葉」紋様が施されている。願主は「大貫村中」。光明真言(こうみょうしんごん)を唱えると一切の罪障(ざいしょう)が除かれるとされ、百万遍唱えた記念に建立されることが多い。「館山町 石工長左衛門」の銘がある。

長(8)地蔵菩薩坐像

小松寺 南房総市千倉町大貫1057

明治14年(1881)に建立。台座の「万霊」は、あらゆる生き物の霊を供養する意味で、当寺43世隆澄(りゅうちょう)が発願主(ほつがんしゅ)となり、近隣の真言宗寺院の住職を中心に220名余の寄進で建立された。基壇の格狭間には象使いが彫られている。「細工人立山町 俵長左衛門」の銘がある。

長(9)子安地蔵

慈眼寺 南房総市西原883-1

境内の入口に子安地蔵が祀られている。正面に「三界萬霊(さんがいばんれい)」と記されている。先祖・両親の霊をはじめ、いきとし生ける者達の供養として建立された。願主28名・天台宗僧侶12名と「細工人 俵長左衛門」の名が記されている。明治17年(1884)2月24日の地蔵縁日に建立された。

俵(1)里見氏旧跡碑

延命寺 南房総市本織2014-1

参道入口の里見氏旧跡碑は、明治41年(1908)に、荒廃していた安房郡内の里見氏墓域整備事業が行われた記念に建てられた。総高225cm。正面の題字は埼玉県出身の書家諸井春畦(もろいしゅんけい)の書。裏面は33世大嶽(だいがく)和尚の撰文を春畦の妻で書家の諸井華畦(もろいかけい)が書いている。「俵豊石刻字」とあるのは、俵光石の実弟鈴木豊吉のこと。他に安房国分寺の「安房郡三名主之碑」や旧富崎小学校の「神田君碑」と六軒町諏訪神社の「表誠」の各碑の刻字もしている。

俵(2)狛犬

日枝神社 竹原850

楠見の俵徳次(俵光石の娘婿)の作で、総高160cm。狛犬の高さは62cm。昭和11年(1936)10月の祭礼月に地元竹原の小倉ますが寄進した。日枝神社は、仁寿2年(852)の創建と伝えられている。

俵(3)狛犬

六軒町諏訪神社 北条1980

彫工は、俵房嗣(俵家一族か)と記されている。総高163cmで、狛犬の高さ63cm。大正6年(1917)6月に御大典記念として、地元六軒町の崇敬者により建設された。境内にある大正10年(1921)の「表誠」碑は、俵(1)にある俵豊石こと鈴木豊吉の刻字。

俵(4)旧八坂神社参道横の碑

市立博物館本館南通用出口

かつて城山公園中腹に祀られていた八坂神社は、大正12年(1923)の関東大震災後に館山神社に合祀された上須賀区の神社。博物館西側に参道があり、その傍らに上部を欠損した石碑がある。16名の寄進者の中には「石工 俵」とみえる。震災以前の参道改修の際に寄付されたものと推察される。

俵(5)狛犬

山宮神社 東長田106

県道86号から観音院方向に分岐して約900m上流、長田川源流域にある。由緒によると、悪疫を鎮めるために「大山津見命(おおやまづみのみこと)」をお祀りした。境内の狛犬「吽像(うんぞう)」の台座に、「館山楠見石屋 俵刻」の銘がある。狛犬の高和は約85cm。基壇に、昭和10年(1935)1月に諏訪仙太・妻はるが、銀婚と母の喜寿を祈念して奉納したとある。

俵(6)狛犬

熊野神社 佐野1826

社殿前の一対の狛犬は、昭和13年(1938)に奉納された。地元の小林五郎左衛門が、近衛(このえ)歩兵と海軍機関兵として出征する双子の子息の無事を祈願したものである。「神ありて 願いは久し 二十年」と刻んである。頭部の角(つの)は欠損している。「石彫館山町楠見 俵」の刻印がある。後年、光石の縁者が銘を入れたと言われている。

俵(7)弘法大師千百年遠忌(おんき)灯籠

小松寺参道 南房総市千倉町1057

参道入口の灯籠は昭和12年(1937)、当寺46世鈴木隆照の時に、地元出身で東京在住の加藤正司が弘法大師千百年遠忌供養記念に建立した。総高285cm。石工は館山の俵徳次(俵光石の娘婿)。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ
佐藤博秋・佐藤靖子・鈴木以久枝
2021.11.10 作

監修:館山市立博物館
〒294-0036 館山市館山351-2
℡.0470-23-5212

石彫家 俵光石の作品を訪ねて

俵 光石(こうせき)の概要

俵房吉(光石)は、明治元年(1868)に楠見浦(館山市)の鈴木家で生まれました。明治24年(1891)23歳の時に、馬の彫刻家として有名な後藤貞行にみいだされて上京し、石彫の仕事をします。やがて高村光雲(こううん)の所へ移り、明治27年(1894)、東京美術学校最初の石彫教官として彫刻科石彫教場助手に任命され、光雲から一字をもらい「光石」の号を名乗りました。明治28年(1895)には第4回内国勧業博覧会に「石彫三羊置物」を出品して表彰されています。明治30年(1897)頃に館山に帰って、同所の石工(いしく)俵家の養嗣子として5代目の家業を継ぎ、寺や神社などに数多くの作品を残しました。大正3年(1914)には「安房陶器」を創業し、陶作も試みています。多くの知識人や文化人とかかわりをもっており、俳句もたしなんでいたほか、大正8年(1919)頃には民衆の道徳教化をめざす「安房大道会(あわだいどうかい)」にも加わり活動していました。昭和10年(1935)2月に68歳で没します。地方の職人ながら近代彫刻家の一人として評価をされている人物です。

(1)線香立

渚銀座震災反省地蔵尊 北条2549-4

地蔵堂前の線香立は「光石 刻」とあり、昭和2年(1927)7月の作品。屋根付きで総高は57cm。正面に「無縁地蔵尊」とあり、施主は北条の伊東松之助。反省地蔵尊は安房郡内で多くの犠牲者を出した関東大震災をうけ、地震への備えに対する反省を込めて、震災の翌年に延命寺の佐々木珍龍と安房倶楽部の音尾松蔵を中心に建設された。本尊は鴨川の彫刻家 戸村誠治の作品。

(2)順天丸(じゅんてんまる)遭難紀念碑

館山 北下台(ぼっけだい)

高さ約210cm、幅100cm。書は明治期の書家 従七位(じゅうしちい) 市河三兼(さんけん)で、光石が文字を刻んだ碑。明治36年(1903)建設。館山にあった房総遠洋漁業株式会社の漁船順天丸が明治35年(1902)2月に朝鮮海域で沈没し、船長等22名が遭難したことをうけた記念碑である。同社は遠洋漁業奨励法を受けて明治32年(1899)に設立され、捕鯨や高級毛皮・漢方薬剤になるオットセイやラッコを捕獲していた。

(3)日露戦役記念碑

館山 北下台

金比羅神社の前にあり、明治37-38年(1904-1905)の日露戦争で館山町から従軍した100名近くの名前が刻まれている。高さ285cm、幅125cm。明治39年(1906)4月建設。光石の銘はないが、『千葉県内碑石一覧』(千葉県図書館叢書(そうしょ)第五輯(しゅう))に光石の作品として掲載されている。表面は元帥(げんすい)大山巖(おおやまいわお)の書。裏面の書は地元石の高木勇次郎。

(4)青木為治墓碑

館山 北下台

明治19年(1886)の鈴木房吉の刻で、全体の高さは190cm。光石が俵家に入る前の18才の作品。神余の青木為治は千葉師範学校出身で布良小学校の訓導(くんどう)だったが、明治18年(1885)に21歳で没した。

(5)釈迦如来(しゃかにょらい)三尊像

三福寺 館山1195

参道の左に釈迦三尊像がある。基壇を含めた総高は385cm、像高95cm。光背に葉の茂る菩提樹(ぼだいじゅ)、釈迦坐像の両脇には小さな脇侍(わきじ)が立ち、台座には手を合わせた人物と獅子が彫られている。裏面に「高村光雲門下俵光石彫刻」と刻してある。明治36年(1903)11月、三福寺29世頂譽圓順(ちょうよえんじゅん)と発起人16名により建立された。発起人の中には光石の義父「俵喜平」もいる。基壇の前には、明治38年(1905)の日露戦役奉天陥落(ほうてんかんらく)記念の花立てがあり、寄進者4名の中に俵房吉の名がある。三福寺は俵家の菩提寺。

(6)狛犬(こまいぬ)

館山神社 館山252

社殿前を一段上がったところに祀られている阿像(あぞう)の狛犬台座に「石彫 俵 光石」と刻まれ、光石の刻印になっている。総高165cm、像の高さは75cm。大正6年(1917)に地元上町の島田幸蔵により上町・仲町の諏訪神社に奉納された。関東大震災後、館山地区の7社を合祀(ごうし)し館山神社として創建された際に移設。

(7)宮木翁(みやきおう)碑

熊野神社 宮城172

総高167cm、幅135cm。碑には伯爵(はくしゃく)万里小路通房(までのこうじみちふさ)の篆額(てんがく)、文部官僚桧垣直右(ひがきなおすけ)の撰文と書による銘文が刻まれている。大正7年(1918)に山井寅吉など地元10名の有志により建立され、裏面に「俵光石刻」とある。宮木翁は宮木久左衛門といい、明治12年(1879)から明治17年(1884)にかけて、宮城村などの戸長(こちょう)を勤め地租改正(ちそかいせい)に尽力した人物。明治29年(1896)没。70才。

(8)楽山翁(らくざんおう)之碑

天満神社 沼1160

総高188cm、幅92cm。碑は伯爵万里小路通房の篆額で、地元教員の鈴木義章撰文による川名楽山を顕彰した銘文が刻まれている。刻銘はないが、『千葉県内碑石一覧』に明治33年(1900)の俵房吉の作品として掲載されている。楽山は安房郡沼村の名主の家に生まれ、江戸の御用絵師狩野探龍(かのうたんりゅう)のもとで絵を学んだ人物。やがて館山藩士となり、のち安房神社の権禰宜(ごんねぎ)・館山戸長(こちょう)等を勤めた。地域への奉仕貢献に努め、明治25年(1892)に没。61才。

(9)南陽(なんよう)坪野先生之墓

慈恩院 上真倉1709-1

慈恩院入口の一段高い所に地蔵菩薩坐像が彫刻された墓がある。総高224cm。俵家ではこれを光石の作とと伝えている。お墓は遺言により大正15年(1926)に慈恩院境内で北向きに設けられてた。坪野平太郎(号 南陽)は東京帝大法科を卒業し、神戸市長などを勤めた後、東京高等商業学校(現一橋大学)学長を最後の勤めとし、大正3年(1914)より大正12年(1923)の大震災まで静養のため北条に来住した。保養の傍ら北条に英語学塾を開いて安房の青年たちを指導したほか、安房出身の在京学生のため、東京小石川に寮舎「安房育英舎」を建設、また安房中・安房高女の操行優良な生徒に授与する南陽賞を創設した。大正14年(1925)没、67才。

(10)不動明王立像・不動明王坐像

妙音院 上真倉1689

明治29年(1896)に開設された「弘法大師八十八ヶ所霊場」への階段両脇に不動明王坐像と立像(波切不動)があり、ともに左側面に「明治卅年春 俵光石刻」と刻まれる。開設翌年の製作である。像高50cm。寄進者の中の「館山町楠見 俵かね」は光石の義母。

(11)地蔵菩薩坐像

観音寺 南条21

明治33年(1900)建立。総高393cm。地蔵菩薩坐像台座の正面には「法界万霊位(ほっかいばんれいい)」、左側面に「大願主当所 小原(おはら)国太郎」と記されている。頭光(ずこう)と錫杖(しゃくじょう)は欠損している。中壇には、六道輪廻(ろくどうりんね)が表現され、正面には天道、右回りに人道・修羅(しゅら)道・畜生(ちくしょう)道・餓鬼(がき)道・地獄道の様子が刻まれている。脇侍には掌善童子(しょうぜんどうじ)と掌悪童子(しょうあくどうじ)が居り、希少な作品である。銘は、「俵光石之作」とある。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋
佐藤靖子・鈴木以久枝
2021.11.10 作

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