関西漁師の進出により、房総は全国有数の鰯漁獲地となりました。特に下総(しもうさ)国から上総(かずさ)国にまたがる九十九里浜は、鰯の名産地として知られています。近世後期には、鰯を加工した肥料である干鰯と〆粕は、九十九里浜から安房国に至る房総半島の東岸地域でおもに生産されていましたが、このうち半分以上を九十九里産がしめていました。また、上総国夷隅(いすみ)郡(現在のいすみ市・勝浦市周辺)も九十九里に次ぐ生産量を誇っていました。
各地域では、地形に見合った漁法を用いて鰯漁を行いました。長大な砂浜が広がる九十九里は、大規模な地引網(じびきあみ)に適しており、百人以上の引き手が必要な大地引網漁は、この地域ならではの光景でした。また、上総国夷隅郡でも地引網漁が行われています。これに対して、夷隅郡のうち勝浦周辺から安房(あわ)国に至る地域は、海岸が岩場となっている場所が多いため、八手網(はちだあみ)がおもに用いられました。八手網漁は、2~3艘の船が沖で張った網を引き揚げる漁法であり、漁の規模によって使用する船の数が異なりました。
安房の鰯漁は、小規模な網が数多く存在していた点に特徴があります。漁法は2艘の船を用いた八手網漁が中心で、一部では小規模の地引網漁も行われました。これらの漁は網1張あたりの漁獲量が少ない分、必要な人手も少なかったため、九十九里のように大規模な網元(あみもと)・網子(あみこ)の組織化は行われませんでした。