【5】干鰯(ほしか)争奪戦

 関東で生産された干鰯・〆粕は、幕府公認の問屋である江戸と浦賀の干鰯問屋に出荷されました。両問屋は、生産地の漁師たちへ高額の資金貸付を行い、生産物での支払いを契約することで、入荷を確保しました。干鰯・〆粕の集荷をめぐり、両者の間で争奪戦が繰り広げられたのです。

 このような競合のなか、元禄末期(1700年頃)以降、江戸問屋の集荷量が急増し、浦賀問屋の集荷量は減少していきます。幕府に納めるべき運上金(うんじょうきん)も滞納が続いた浦賀問屋は、経営を再興するため、江戸へ出荷される干鰯類の一部を浦賀へ回送することを幕府に求めました。その結果、延享4年(1747 )には、安房・上総・下総の3か国から江戸に出荷される干鰯について、その十分の一を浦賀に回送することが定められています。

 また、近世中期以降、干鰯・〆粕の需要が増加すると、集荷をめぐる競合相手がさらに増えていきます。耕作地拡大の限界や、商品作物生産の発達を背景に、従来は山野の下草・落葉や海藻、牛馬の糞など身の回りの肥料を用いてきた村々でも、金銭を支払って肥料を手に入れるようになりました。需要の拡大は、江戸・浦賀の問屋を介さない流通を活発化させ、江戸・浦賀への輸送途中で直売(じかう)りや、他の商人による生産地での買付けが内々に行われるようになってきたのです。

 さらに、天保の改革で株仲間・問屋組合の解散が打ち出されたことにより、天保14年(1843)以降、干鰯問屋にのみ認められていた独占集荷権が廃止されました。嘉永4年(1851)には問屋の再興が命じられるものの、新興の商人を含めた争奪戦はますます激しくなっていきました。

49.東浦賀干鰯問屋再興につき荷物積送方依頼状
安政5年(1858)当館蔵