江戸の干鰯問屋は、近世初期に関西出身の者たちによって始められたと伝えられます。房総で生産された干鰯・〆粕を江戸に集荷し、その上で関西に積み送ることが目的でした。さらに元禄8年(1695)以降、深川(現東京都江東区)に干鰯揚場(あげば)が整備されていきます。干鰯揚場は、集荷した干鰯を船から荷揚げし、仲買人に市売りする場で、江戸にあった4ヶ所の干鰯揚場(銚子場・永代場・元場・江川場)はすべて深川にありました。
商売の核となる干鰯揚場が整備されて以降、江戸の集荷量は急増していきます。さらに、元文4年(1739)には、幕府によって問屋仲間として公認されました。江戸問屋の軒数は一定ではなく、仲間公認時の43軒をピークとし、近世後期には15軒となっています。
安房の干鰯が江戸問屋に積み送られたのは、元禄年間(1688年~1704年)に行われた和田浦(現南房総市和田町)の庄司氏による出荷が最初と伝えられています(「関東鰯網来由記」)。詳細は明らかではありませんが、恐らくそれまでは浦賀問屋が安房の干鰯を独占しており、元禄頃から江戸問屋の安房における営業活動が活発になっていったのでしょう。
51.干鰯仕入金取立て出入りにつき願書
天保6年(1835)
館山市・正木訓子氏蔵