【3】殖産興業への準備2 ―交通・通信の変革―

 明治時代の様々な変革を支えたものには、交通・通信などの産業・生活基盤の整備もありました。館山では明治11年(1878)の東京汽船航路の開航により、安全で安定した物資の輸送が短時間で行えるようになりました。東京湾で最速の生魚輸送船「押送船(おしょくりぶね)」でも館山―東京間は一昼夜、最速で10時間でしたが、汽船はおよそ5時間で航行しました。館山湾の汽船場が海陸流通の拠点になると、峠越えが多い陸上交通路に隧道(ずいどう)や切割(きりわり)工事が施され、道の平坦化と荷車が通行できる道幅への改良工事が進められていきました。

 江戸時代から市街地を形成していた館山・北条・那古・船形を擁する館山湾は、それぞれに汽船が到着することで、房総半島南部の物資集散地としての役割が大きくなりました。そのため館山平野と周辺地域を結んでいた丘陵超えルートは、荷車で通行できる輸送路として改善することが必要になりました。安房平朝夷長狭の四群長を勤めた吉田謹爾(きんじ)は道路改良を推進し、明治10年代から明治20年代に丘陵超えの難路克服に積極的に取り組みました。外房の布良村と内房の館山町を結ぶ道路はとくに重要性を増し、明治17年(1884)に振動を完成させ、布良・相浜(あいのはま)の海産物を館山から東京へ輸送するための効率的な荷運びルートとしました。運送用の荷車が通行できる道幅の確保と坂道の緩傾斜化のために、巨大な切割工事をともなう新道開設でした。

 また遠隔地との通信手段として、館山での郵便局開設は明治5年(1872)で、明治10年代に那古・見物(西岬)・布良が開局、明治25年に北条、明治42年に船形で開局しました。郵便局を通じて迅速な商用通信として利用できる電報の利用が可能になったのは明治22年(1889)、電話の開設は大正2年(1913)のことでした。

21.鏡ヶ浦図絵馬</br> 大正4年(1915年) 下真倉日枝神社蔵
21.鏡ヶ浦図絵馬
大正4年(1915) 下真倉日枝神社蔵
28.館山海岸に集まった大八車</br> 明治時代末か 当館蔵
28.館山海岸に集まった大八車
明治時代末か 当館蔵
館山町布良村間の丘陵に掘られた切割。
館山町布良村間の丘陵に掘られた切割。
40.電話開通式祝辞</br> 昭和2年(1927年) 当館蔵
40.電話開通式祝辞
昭和2年(1927年) 当館蔵