白土
白土(はくど)は房州砂とも呼ばれ、江戸時代から磨き砂として歯磨き粉に使用され房州の産物だった。市内では江戸時代後期から館野地区加戸や豊房地区飯沼・古茂口・南条などで採掘された。明治10年(1877)の内国勧業博覧会で大網村採取の白土や飯沼村採取の自然灰・製陶用年度が出品されると、農商務省農務局長の田中芳男が注目し、同省のお雇いドイツ人科学者オスカー・コルシェルトに工業用途での活用について諮問している。やがて研磨剤としての用途が広がり、精米での利用が増えると、明治10年代には白土の無秩序な採掘が始まった。
採掘地域は大網村の東側にある安布里・山本・飯沼・古茂口の丘陵や、その南側にある山萩・長田・出野尾・岡田・谷藤原・上真倉などの丘陵に集中した。
やがてストレート・セメントなどの建築材料や製壜(せいびん)原料などとして成立するようになった。採掘すると地下水が出るため、排水用の汲水機の導入や、白土搬出のためのトロッコレールの敷設など設備の近代化も進み、大正時代には乱立した業者の組合組織化も進んだ。関東大震災で坑道が潰れ、続く科学洗剤の登場や精米の機械化もあって、昭和初期には腐れるものの、明治34年(1901)の産出額は3万円余、明治末期には10万円、大正10年度(1921年度)は52万円余に上り、館山の一大産業に成長していた。
石材
鋸山の房州石は古代から利用され、江戸時代でも切出されている。横浜の築港でも使用され、明治初期には建築土木資材として増産された。明治10年(1877)の第一回内国勧業博覧会で元名・岩井袋・下佐久間(鋸南町)などの砂岩が建築用として褒状を受けて注目されると、耐火性が強い房州石は、かまどや石塀・石蔵・水路の資材として京浜方面での需要が増した。金谷や元名だけでなく、富浦や船形でも房州石の切出しが行われている。市内でも石材の切出し跡が随所で見られる。