三方を海に囲まれた安房国(房州)は、古くから海上交通によって各地と結ばれていました。慶長8年(1603)に江戸幕府が成立し、江戸が巨大な消費地・集散地になると、関東はさまざまな商品の生産地として成長していきます。房州も魚介類や米などの多くの物資を江戸へ送り、その輸送で活躍したのが五大力(ごだいりき)船や押送船(おしょくりぶね)でした。房総半島から荷物を運ぶ船は、江戸へ直接入っていましたが、享保6年(1721)以降は浦賀奉行所の検査を受けることが義務づけられます。ただし鮮魚は例外で、押送船によって直接江戸へ運ぶことが認められていました。
房州の船乗りたちは、房州で生産された物資だけでなく、房総各地で荷物を積み、江戸や浦賀へ運ぶ営業も行っていました。なかには館山楠見浦の有田屋佐七のように、大型の廻船を持ち、幕府御城米や諸藩の御用薪炭などの輸送を担っていた人物もいます。
明治時代になると、房州と東京の間を結ぶ汽船が就航し、より短い時間で大量の物資や旅客を運ぶことが可能になりました。明治11年(1878)には館山町の辰野安五郎が東京資本で創業した安全社が東京・館山間の汽船を開業し、明治14年(1881)には船形町の正木貞蔵が地元資本の安房共立汽船会社を創立しています。その後、明治22年(1889)には東京湾汽船会社(現東海汽船株式会社)が創立され、房州と東京の間は汽船営業の激戦区となっていきました。
幕府御城米積船のしるし
6.御城米御用船印
江戸時代 当館蔵
北条桟橋と汽船
10.絵はがき「房州鏡ヶ浦北條ノ桟橋」
明治末~大正 当館蔵