房州と江戸・東京間における人の移動は、旅や遊学など一時的なものだけではありません。出稼ぎや奉公、結婚などによって移り住む人々もいました。
房州に限らず、江戸には諸国から多くの人々が集まりました。特に江戸時代中期以降は、農村でも農業離れや消費の活発化が進み、都市部での豊かな暮らしを求めた人口流出がおこります。江戸への人口流入の拡大は、貧困や治安などさまざまな都市問題を増加させるだけでなく、幕府財政の基盤である農業生産量の減少をもたらすものでした。幕府老中の水野忠邦が主導した天保の改革では、この状況に対応するため「人返しの法」を発令し、江戸に住む地方出身者を帰国させようとしました。安房郡八幡村(館山市)の文書によれば、人返しの法が出された時点で同村から江戸に移り住んでいた人は少なくとも17人確認できます。江戸に出た理由は結婚や奉公が多く、その他材木商売や船宿を開業した人物もいました。
江戸・東京から房州に移住した人々もいました。特に明治以降、東京からほど近い避暑避寒の地として注目されると、官僚や政治家、財界人などが引退後の生活や余暇を穏やかに過ごす場所として選ぶようになります。また、海に囲まれた景勝地であることから、俳人や画家などの芸術家にも好まれました。
八幡村から江戸へ嫁入り
66.ふさ江戸居住につき国元人別除外願
天保14年(1843) 当館蔵
事件に巻き込まれた館山出身の女性
70.東京日日新聞431号
明治6年(1873) 当館蔵