寛政3年(1791)、江戸幕府は日本海沿岸で航行する異国船が発見されたのを契機として全国の大名に海岸防備を命じました。翌年にはロシア使節ラクスマンが来航して日本に通商を求め、外国船への対策は急務となっていきます。特に江戸湾防備の重要性が指摘され、文化7年(1810)には会津藩と白河藩が江戸湾防備を命じられます。
その後、江戸湾防備はいったん縮小されましたが、天保8年(1837)には日本人漂流民を連れて浦賀に渡来したアメリカ船モリソン号を、異国船打払い令に基づき砲撃して退去させる事件が起こります。さらに、天保11年(1840)に開戦したアヘン戦争の情報を得て危機感を強めた幕府は、武力衝突を避けるため異国船打払い令を撤回して薪水給与令を出すとともに、江戸湾をはじめ全国的な海防態勢を強化しました。
江戸湾の入口に位置する房州では、諸藩によって強固な沿岸防備が行われました。文化7年~文政6年(1810~1823)の間は奥州白河藩が担当し、警備強化後は天保13年~嘉永6年(1842~1853)が武州忍(おし)藩、嘉永6年(1853)にアメリカのペリーが来航すると安政5年(1858)まで備前岡山藩が務めました。また、大房(たいぶさ)・滝口・忽戸(こっと)(すべて南房総市)や洲崎・伊戸・布良(めら)(すべて館山市)には台場が置かれ、異国船の江戸湾到来に備えました。安政5年(1858)にアメリカをはじめ、オランダ・ロシア等と修好通商条約を結ぶと、房州の海防施設はすべて廃止となります。
忍藩陣屋で使われた
41.忍藩陣鐘
天保13年(1842) 当館蔵
房州にあった台場
44.「房総御台場略図」
北条陣屋と浜台場(館山市)
江戸時代末期 当館蔵