5 江戸遊学と地域教育

 江戸時代後期の房州には、高いレベルの学問を学ぶため江戸に出る人々もいました。代々、江戸幕府の大学頭(だいがくのかみ)を務めた林家(りんけ)の家塾入門者名簿「升堂記(しょうどうき)」には、4名の房州出身者を確認することができます。このうちの1人、新井文山(ぶんざん)(林潤蔵)は、館山新井浦の漁師の家に生まれ、江戸に遊学した後は、故郷に帰って塾を開き、さらに館山藩稲葉家に儒者(じゅしゃ)として登用されました。また、谷向(やむかい)村(南房総市)に生まれた鱸松塘(すずきしょうとう)は、江戸の詩人梁川星巌(やながわせいがん)に入門した後、林家にも入門。その後、江戸で吟社(ぎんしゃ)(詩作のサークル)を開き、多くの門人がいました。

 彼らの特徴は、自らが最先端の知識を得ただけでなく、それを故郷である房州に伝えたという点です。彼らが江戸で得た知識を故郷に持ち帰り、門人を育てることにより、地域の学問や文化はより豊かになりました。

 また、館山藩4代藩主の稲葉正巳は、林家や佐藤一斎のもとで儒学を学び、さらに国元でも新井文山の登用や、幕府儒官を招いて藩校の設立を行うなど、儒学の学習・普及に積極的でした。江戸遊学を経験した知識人や、藩の方針により、房州の教育環境は整備され、そこで地域の知が育成されていったのです。全国共通の教育制度が成立していない江戸時代においては、こういった取り組みが地域の知を向上させたと言えるでしょう。

45.新井文山木像</br> 江戸時代後期 当館蔵

多くの門人を育てた儒学者
45.新井文山木像
江戸時代後期 当館蔵

館山藩の藩校「敬義館」で使用
52.「白鹿洞書院掲示(はくろくどうしょいんけいじ)」
明治2年(1869) 当館蔵

52.「白鹿洞書院掲示{はくろくどうしょいんけいじ}」</br> 明治2年(1869年) 当館蔵