房州の寺社には江戸や東京の人々による奉納物(ほうのうぶつ)が多くあり、物資流通などを通じて両地域の人々が交流していたことを示しています。また、寺社は多くの旅人が訪れる名所でもあり、那古寺(館山市)では江戸での出開帳(でがいちょう)も行っています。
それだけでなく、房州の寺社では江戸の職人に建物や彫刻の制作を発注しています。館山市大井の手力雄(たぢからお)神社では、元禄の大地震によって大破した本殿を宝永6年(1709)に再建していますが、この彫刻は江戸の高松又八が行いました。高松又八は、江戸の彫工・嶋村家の元祖である俊元の弟子で、4代将軍家綱や5代将軍綱吉の霊廟(れいびょう)の彫刻も担当した人物です。さらに、又八の弟子の植村弥五左衛門が制作した獅子と獏(ばく)の彫刻が、鴨川市の寺院に伝わっています。彫刻だけではなく、南房総市久保の真野寺では、宝暦6年(1756)に再建した観音堂の大工棟梁(とうりょう)を江戸京橋新肴町の2名が務めています。
房州の寺社における江戸職人の活動は、最先端の作品をもたらしただけでなく、技術を伝える機会にもなりました。上に紹介した真野寺の再建では、江戸大工棟梁の門弟として真野寺周辺の宮下村や珠師ヶ谷(しゅしがやつ)村の大工が参加しています。また、近年人気を集めている後藤義光も、鴨川市の寺社建築に関わっていた江戸の彫工・後藤恒俊と出会ったのを契機として入門したと言われています。
那古寺観音堂に掲げられている扁額「円通閣」
文政2年(1819)の江戸出開帳に際して、江戸商人が奉納した。
江戸彫工に入門した後藤義光
83.後藤義光作「天照大神像」「伊弉諾尊像」
明治29年(1896) 当館蔵