3 産地と商い

 江戸時代の初め、急速に人口が増加した江戸の鮮魚消費を見込んで、関西の漁師や商人たちが関東に渡ってきました。彼らによって地引網や鯛桂網(たいかつらあみ)などの先進的な漁法が伝えられ、房州も江戸向けの鮮魚や塩魚・干物(ひもの)の供給地として成長します。特にさんまや鰹(かつお)の産地として知られていました。

 諸国から江戸に運ばれた魚介類は、日本橋の魚河岸(うおがし)で荷揚げされます。集荷した魚問屋は江戸城への御用魚上納を務め、残りの大部分を本小田原町他の魚市場で売りました。また、彼らの独占的な集荷に対抗し、近くの本材木町にも新肴場(しんさかなば)と呼ばれる魚市場が現れました。

 関西から房州に伝えられたのは漁法だけでなく、鰹節や干鰯(ほしか)など魚介類の加工生産も関西出身の人々によって始められ、地元の人々によって生産が続けられました。特に鰹節は外房の各地で生産され、江戸の番付にも載っています。このほか、磨き粉として使用される白土は「房州砂(ぼうしゅうずな)」と呼ばれ、江戸時代から特産品として知られていました。

 房州の人々は、生産した商品を江戸・東京に出荷するだけでなく、反対に商品を仕入れて地元で販売することも行っていました。明治時代の汽船の就航は大量な物資の迅速な輸送を可能にし、東京の問屋からの商品仕入れをより活発にしたものと考えられます。

27.歌川国芳画「山海めで度{た}い図会{ずえ}一枝{ひとえだ}もらいたい 安房かつを」</br> 嘉永5年(1852年) 当館蔵

人気の美人画にも描かれた鰹
27.歌川国芳画「山海めで度(た)い図会(ずえ)一枝(ひとえだ)もらいたい 安房かつを」
嘉永5年(1852) 当館蔵

35.三代歌川広重画「大日本物産図会 安房国水仙花・同さんま網之図」</br> 明治10年(1877年) 当館蔵

東京に出荷された水仙花とさんま
35.三代歌川広重画「大日本物産図会 安房国水仙花・同さんま網之図」
明治10年(1877) 当館蔵