東京湾の主導権をめぐり、里見氏と小田原北条氏との長い戦いが始まります。大永6年(1526)、里見義豊は鶴岡八幡宮に乱入したといわれ、鶴岡八幡宮の社僧に非難されています。この義豊については、鎌倉の禅宗の僧侶との交流が知られていて、さまざまな賛辞をもらっています。
また、東京湾を挟んで里見氏と北条氏の対立が続くなか、里見義弘が鎌倉へ侵入した際、尼五山筆頭の太平寺住職青岳尼が房総にわたり、義弘の室になる事件が起きました。鎌倉でのこの事件に対し、北条氏康は青岳尼の妹である東慶寺の住職旭山尼に書状を送り、怒りをあらわにしています。
現在、円覚寺にある舎利殿は永禄6年(1563)の大火後、旧太平寺から移建したものとして知られ、東慶寺に客仏として残る聖観音菩薩立像も旧太平寺の本尊であったと伝えられています。