政府が欧化政策だけでなく、伝統文化の保存と復興に力を入れ始め、維新以来鳴りをひそめていた伝統派の画家たちが、「絵画共進会」をめざして本格的な活動を再開しはじめた時期にあたり、楽山の作品も数多く残されている。また、明治13年(1880)5月に楽山が溺愛していた養子の孝雄が21歳の若さで亡くなっていることに注目したい。このことで楽山はかなり落胆したらしい。前述のとおり明治14年に、はじめて号「楽翁」を使用し、以降数多くの作品にその落款・印章を用いているが、孝雄の死もまた、楽山を本格的に画業に取り組み始めさせた一つの契機になったとも考えられる。
この時期の作品には「八百万神図」(図版19)「日蓮鎌倉帰着之図」(図版22)「草盧三顧図」(図版27)等、緻密な画法を忠実に守り描かれた大画面のものが目立つ。また社寺に残されている作品の大部分はこの時期に描かれたもので、活発な活動を裏付けている。