【1】万里小路家

 明治中期から昭和初期まで40年余り北条に住していた伯爵万里小路通房という人物の名前は、現時点であれば耳にしている方は大勢いる。しかしこの人物がこの地域で何をしたのか、いったいどのような経歴をもつ人物なのかを知る方はもはやごくわずかにすぎない。いや、当時ですらもその経歴まで知る人は多くはなかったかもしれない。

 通房は明治天皇に仕えた人物なのである。明治天皇に近侍するには家柄なり、維新での業績が必要である。しかし万里小路家というこの耳慣れない姓から連想するのはやはり京都だろうか。いかにも公家らしい姓である。やはり家柄から背景をたどってみよう。

 万里小路家の系譜は、平安時代に栄華を極めた藤原氏にいきつく。藤原北家の一流である勧修寺(かしゅうじ)家の一門であり、名家と呼ばれるランクに属する。つまり京都の公家である。鎌倉時代中期に甘露寺(かんろじ)資経の四男資通が万里小路を称して以来つづく家で、行政事務を取り扱う弁官(べんかん)や蔵人(くろうど)という重職をつかさどる家格である。資通に子宣房は、後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕計画が発覚した正中の変(正中2年=1325)で勅使として鎌倉へ釈明にゆき天皇を救った人物で、建武新政では北畠親房らとともに重用された。大納言まで昇進している。同じく討幕計画が発覚した元弘の乱(元弘元年=1331)でも、その子藤房が後醍醐天皇を護って笠置山へ逃れた話は有名であり、父子ともに後醍醐天皇に従った忠臣として活躍している。藤房の弟季房も元弘の乱で中宮をかくまい、幕府方に捕えられ殺されている。

 季房の子仲房が宣房の家督を継ぎ、その後は内大臣へ進んだ時房や、後奈良天皇の後宮に入り、正親町天皇を産んだ栄子などがでている。歴代の多くが大納言や内大臣まで進んだ。通房の祖父正房は議奏・武家伝奏として安政5年(1858)の日米通商条約の勅許をめぐる外交問題や14代将軍の継嗣問題などで、朝廷と幕府の間で交渉にあたった経歴がある。父博房は幕末・維新期に活躍した尊皇攘夷派の公家で、尊攘気運の高まるなか文久3年(1863)に国事参政となるが、公武合体派による8月18日の政変で一時失脚する。しかし慶応4年(1868)の王政復古では参与に就任し、以後は、後醍醐天皇の親政下で活躍した宣房・藤房のように明治天皇の新政府で制度事務局輔・議定・京都裁判所総督・会計官知事・山陵総管・宮内卿・宮内大輔・皇太后宮大夫などの要職を歴任した。通房の祖父・父ともに変革する時代の表舞台にたったのである。

万里小路家系譜
万里小路家系譜