【2】通房の生涯

 通房は正二位中納言博房の長男として、嘉永元年(1848)5月27日に京都で生まれた。安政4年に元服して従五位となり、慶応元年に18歳で家格にしたがって右少弁に任じられる。ちなみに右弁官局は兵部・刑部・大蔵・宮内の四省の事務担当機関である。

 大政奉還で倒幕運動も最終局面を迎えた慶応3年(1867)、12月の王政復古にともない摂政・関白といった古い職制は廃止され、天皇親政の新政権として職制も新設された。そのなかで父博房は新政府の指導層である、三職のひとつ参与となり、通房も書記御用掛となって、新政権に本格的に参画することとなった。

 翌年の戊辰戦争が展開するなかで、2月には参与に昇進し、軍防事務局に新たに編成された親兵掛に任じられる。その後閏4月に、副総裁三条実美が関東監察使として徳川家の処分決定と人心慰撫のため関東へ下ると、それに随行して江戸に入り、7月に駿河以東の東国を管理する鎮将府がおかれるとその行政官である弁事に任じられた。その間にも佐幕派追討を進める東征大総督有栖川宮熾仁親王の錦旗奉行加勢、御旗本を歴任、8月には東征大総督府の参謀となり、抵抗を続ける奥羽諸藩の追討のため東北へ出征する。10月には帰順した会津の残党が水戸城を襲撃する事件が起こり、その鎮定の命をうけるなど、維新の真っ只中に身を置いたのである。この月東北平定慰労する賞賜があり天皇より品を賜わった。伝えられる話に、東北出征中に銃創を負い、その時の弾痕が腹部にあったという。

 明治2年(1869)2月には勅使として山口へ派遣され、山口藩(長州藩)主毛利敬親の積年の勤王を賞し、上京して政府への協力を命じる宸翰を伝えている。その際山口藩の軍事調練の視察をしている。6月には戊辰の戦功の褒賞が行われ、「戊辰の夏東京に到り、御旗を監し、また大総督に参議し、職務勉励の段、叡感あらせらる、よってその賞として百石下賜そうろうこと。」と、通房も軍功により賞典禄として高百石を永世下賜された。

 その後明治7年(1875)7月までイギリスへの官費留学を命じられる。明治2年11月のこととされるが、翌3年3月に内番として天皇の講学に陪持している記録があるので、3年11月の誤りかもしれない。いずれにしても新政府の華族留学生としては早い例である。23歳の渡欧であった。通房の叔父正秀も明治4年にロシアへ留学するため岩倉使節団に同行して離日、14年までロシア貴族について学んでいる。また文久3年に暗殺された急進的尊皇攘夷派の姉小路公知の嗣子となった弟の公義も同使節団とともに渡米、そのままドイツ留学をして、のち外交官になっており、身近な人々が同様の留学経験をもっている。

 通房がイギリスで学んだ内容は不明だが、代々弁官の家柄であり、自らも鎮将府弁事に任じられているように、行政事務には精通していたであろう。帰国後は工部省の御用掛となり、先進知識を活かしたものと思われる。やがて宮内省御用掛に転じ、明治15年(1882)11月に侍従に任じられて、23年(1890)9月に職を退くまで天皇に近侍することとなる。

 15年5月には宮内省御用掛として、天皇に随行して千葉県下八街での近衛小演習を視察、地雷爆破跡の巡検・作図を行っている。その後も侍従として、神奈川県・千葉県などへの遠乗り、岩倉具視など高官の病気見舞い、高官の葬儀への勅使、故皇族式祭での代拝、外国公使館への弔問、北海道の御料牧場視察、北九州への陸軍参謀旅行視察の出張など、その職務を行っている。しばしば天皇の食事の相伴をゆるされ、乗馬一頭を下賜されたこともある。

 通房の周辺には宮中に仕えるものが多い。父博房が宮内大輔・皇太后宮大夫を歴任したのをはじめ、叔父正秀も式部寮・大膳寮などで一貫して宮内省官吏を務めているほか、祖父正房の妹である幸子も典侍として英照皇太后や嘉仁親王(大正天皇)に仕えている。また通房と同僚の侍従であった藤波言忠も縁戚で、言忠の大叔母は通房の祖母である。

 私的には、帰国の翌8年八重子夫人とのあいだに長男直房が生まれる。旧佐倉藩主堀田正倫の夫人となった長女伴子が慶応3年生れである。明治17年(1884)37歳のときに父博房が没して家督を継ぎ、その年の華族令発布によって伯爵を授けられた。

 退官後は貴族院議員となった。明治23年(1890)11月に開設されたばかりの帝国議会で、第1回議会の途中ながら翌24年(1891)2月に伯爵団の互選によって有爵議員となり、政党政治に強く反対する研究会という院内会派に所属して、水産調査会委員や生産調査会委員を務め、大正13年(1924)9月の引退まで五期にわたって活動した。大正4年(1915)の第37回通常議会では貴族院の資格審査委員会委員長を務めている。

 そうした議員活動の一方、退官後ほどなく安房郡北条町(館山市北条)に別荘を構え、議会のない時期はほとんど北条で過ごすようになる。それはまさに隠棲ともいえるものであった。働き盛りの43歳での隠棲はいかにも早いが、退官の背景には、宮中での綱紀粛正があり、のちに宮中政治家として大きな勢力をもった田中光顕との確執があったという証言がある(通房の甥川邊三郎氏)。通房が退官した23年9月には、田中光顕は警視総監であった。

 通房は北条での生活をはじめてほどなく農業へ関心を寄せ始めた。27年(1894)には耕地を取得して促成栽培を中心とした家庭園芸をはじめるが、設立されたばかりの安房郡農会にも肩入れして、農業牧師の紹介や蔬菜品評会の主催など積極的に農業指導にかかわっていく。そして31年(1898)には北条町へ本籍を移してしまうのである。

 また21年に設立された社会教化団体である安房大道会の活動にも引き入れられ、36年(1903)に会長職を懇請される。地方風教の改善をかかげる会の運動のなかにも、会の幹事である秋山弘道に勧めて産業奨励という活動方針を盛り込むのである。こうした通房の活動は農業の技術水準向上と換金作物の普及をめざしたもので、政府のかかげる殖産興業政策の地方における実践ともとることができる。ヨーロッパの先進技術を見聞してきた経験が、地方の現実を見て近代化の必要性を痛感させたのであろうか。

 一方、権威を表象する華族を迎えた北条町や安房郡では、日清戦争の凱旋兵士出迎えをはじめさまざまな集まりへの出席依頼や皇族などへの揮毫斡旋依頼、記念碑や本の題字の揮毫依頼、寄付金依頼、名誉職への就任要請など、さまざまに地域とかかわることを要求してきた。通房はこれに多く応えていったと思われる。むしろそうした機会を捉えて地域の人々と交流していった。厳しいと表される一方気さくだったという評価もよく聞く。出入りの人々を可愛がり、また泊まり掛けで田舎まで指導にいったという。親しみやすい人だったともいう。

 退官後もっとも名誉を賜ったのは明治天皇の大喪にあたり宮中に大喪使がおかれたときに祭官長鷹司熙通のもとで祭官副長を務めたことであろう。祭事を直接つかさどったのである。明治30年(1897)には英照皇太后の葬祭斎官をつとめたこともある。

 貴族院議員を退官してからは東京との行き来も少なくなり、地域の人々との交流もますます増えていく。しかし高齢のため昭和7年(1932)3月4日、北条海岸にあった屋敷で死去した。85歳であった。葬儀は北条南町の金台寺でいとなまれたが、これを見た人の話によると、屋敷には勅使が訪れ、金台寺までの長い行列には座布団や荷物を持つ人が大勢いて、棺のまわりには白装束・白足袋の棺側がつき、寺ではつがいの鳩が放たれる放鳥が行われたという。沿道でも大勢の人が見送ったということである。墓所は東京芝公園の妙定院にある。

右:52.通房(5)(晩年)

52.通房(5)(晩年)
個人蔵