【3】通房と北条

 通房が北条町に別荘をもつのは明治20年代の中頃のことである。すでに明治25年(1892)1月には北条海岸に土地を取得しており、それ以前のことであるから、退官まもなくであろう。

 そのころはすでに北条と東京との間には汽船が就航しており、東京人士の来房も多くなってきた頃である。明治22年(1889)には避暑と称して東京に流行するチョウチフスを避け、18日間の滞在を楽しんだものもいる。隣接する館山町の海岸近くには山口県の士族金近虎之丞なるものが静養のため来住し、汐湯と称して海水の浴場を開放していたり、また北条海岸には実業家岩谷松平や男爵高崎某の別荘もあった。通房が北条へやってきたのは避暑や保養・静養の地として北条や房総が注目されてきた時期なのである。

 通房が北条を選んだ理由については、北条の万里小路家の家令をつとめていた高山恒三郎がその手記で、「明治21年、宮内省の御用で房州峯岡の牧場視察のため、館山海岸へ和船に乗られ、草鞋脚絆懸けで上陸され、視察を終えて、その時から房州は暖かい良い所だと思い、爾後北条に仮住宅または御別荘を建設され」と記している。また宮内省の主馬頭であった親類の藤波言忠が御用で安房へ秣(まぐさ)を見付けにきていたことから紹介されたとの証言(前出の川邊氏)もあるが、いずれにしても自身による来房か紹介かを別にすれば似た話が伝わっている。

 北条での通房の屋敷については、地元では海岸にあった屋敷がよく知られているが、当時の北条の中心街に近い新塩場に本邸があった(写真80)。海岸の屋敷は茶室と夏季用の別荘で、通房の娘婿である堀田正倫の孫堀田正久氏も、震災前に海岸の屋敷へ毎夏遊びにいったという。また普段は人気がなかったとの証言もある。本邸が大正12年(1923)の関東大震災で潰れると、一時駅前の昭和通りに面した地に移り、やがて倒壊をまぬがれた海岸の別荘が本邸として使われるようになった。そのため多くの方はこの海岸の屋敷を記憶されているのである。この屋敷は現在も松林と建物の一部が当時のまま残され、その中には通房が自身で「静松庵」としるした額が掲げられている。

 当初北条での生活は、まさに隠棲とよべるものだったのではないだろうか。早い時期の落款にみられる「鏡浦漁翁」と名乗って釣を楽しみ、「蘭生園」と称して家庭園芸にいそしむ姿が想像される。しかし侍従をつとめた人物が住み始めたとなれば、地元の名士たちが放っておくはずもなく、さまざまな要請が舞い込むこととなった。明治25年に沓見(丸山町)の莫越山神社から時の郡長吉田謹爾が皇族の揮毫を依頼されたときに、通房が吉田から仲介を依頼されているのはその例である。そのようにして身の回りは騒がしくなっていき、大正2年(1913)に北条町で議会が対立したとき、事態の収拾のために町長に選出されたこともある。これは1週間だけのことで、通房が後任を指名することで議会をなだめ町政安定を図ったものであった。それは通房の発言があるいは行動が、この地域で大きな影響力をもっていたことを意味している。

 その他地域で背負わされた役割は数え切れない。明治28年に安房地方の日清戦争従軍兵士が凱旋したときには、出迎えの大旗に揮毫を頼まれ、煙草5000本を寄贈し、日露戦争の凱旋兵士にも記念の盃を配布している。戦没者の記念碑への揮毫も多く依頼された。安房中学校(現千葉県立安房高校)の開校にあたっては祝いに歌を送り、安房高等女学校(現千葉県立安房南高校)からは依頼されて校歌の作詞をしている。安房大道会や日本弘道会安房支会などの社会団体の会長や顧問といった職への就任要請のほか、大正12年には安房郡震災復興会の顧問に就任し、復興のために1000円を寄付している。私立北条文庫への図書の寄贈をはじめとする寄付金の要請、知人の著作への題字や記念碑への揮毫などなど。

 こうした煩わしい生活の中で、もっとも楽しんだのは農業にかかわることであり、そして地域の人々との交流を深めることであったかもしれない。

80.房州鏡ヶ浦全景絵図〔部分〕 (大正4年)
80.房州鏡ヶ浦全景絵図〔部分〕 (大正4年)
北条海岸の屋敷跡 <現静松苑>
北条海岸の屋敷跡 <現静松苑>
38.震災記念観音堂御詠歌額

38.震災記念観音堂御詠歌額
現在北条海岸の中村公園横にある震災記念観音堂は、大正12年の関東大震災で犠牲になった人々を供養するために、延命寺住職佐々木珍龍が今の菜の花ホールの場所に建てたもの。その後現在地へ移転した。
震災の犠牲者の中には北条海岸へ静養にきていた通房の外孫もいた。