(3)地域の人々との交流

 通房は公家育ちであり、かつ天皇にも近侍したことから、当然のことながら充分な教育と文化的素養とを身につけていたであろうし、中央の文化人との交流もあっただろう。和歌においては歌人佐佐木信綱の批正を受けていたというが、そのほかの交友については不明である。

 安房においてはさまざまな人々と交流した。それは郡内各界の名士はもちろんだが、出入りの職人や一般農会員などとも気さくに付き合っていた。そうした人々との交流の話には通房の人柄を伝えるものも多く、北条から離れた家には気やすく泊まりがけで出かけたり、野菜を作りすぎると自分で知人に配ってまわったという話もある。通房をよく知る人は尊敬をこめて「トノサマ」とよんだというが、町の人々は気楽に「マデサン」と呼んでいたところにもその人柄をみることができる。また知識や技術ばかりでなく、通房との交友から人格的にその感化を受けた人も多い。以下通房の遺墨などから交流のあった人々とそのエピソードを伝えよう。

吉田謹爾

吉田謹爾墓 <北条・不動院>
吉田謹爾墓<北条・不動院>

 通房来房当時の安房郡長(当時は安房平朝夷長狭郡長。明治14年~28年在職)。明治28年設立の安房郡農会(当時は安房国農会)の会長になり、通房とは移居当初からの付き合い。新塩場の本邸ももとは謹爾が住居していた場所である。大正2年に通房が後任町長として要請したのは謹爾であり、大きな信頼を寄せいていたことがわかる。臨終にも立ち会い、墓碑銘の揮毫は通房から申し出た。謹爾の絶筆は通房への感謝を歌った和歌である。大正3年没、65歳。

山野井与三右衛門

山野井与三右衛門墓

 大山村平塚(鴨川市)の老農で、郡農会副会長。畜産や養蚕の振興につとめた。かつて屋敷に近所では珍しいトマトがあった。明治38年没、67歳。

吉田周蔵

 稲都村中(三芳村)の老農で、郡農会専務幹事。農会の設立や稲作の改良に尽力した郡農会最大の功労者である。明治33年頃にその功績を記念して名家の詩歌が贈られたが、通房も周蔵を讃える和歌を入れた盃をつくって贈った。周蔵は、晩年の手記で通房のもとへ出入りして品行を改め、人格人道の感化をうけたことを感謝している。大正12年没、84歳。

田中儀平

 主基村北小町(鴨川市)の老農で、稲作の改善に尽力した。貧農より身を起こした精農家で、通房の贈った離念の歌も、厳しい言葉のなかにも精励してきた人に対する大きな評価がみえる。儀平の顕彰碑の篆額は通房。大正5年没、72歳。

加藤七平

116.加藤七平表彰碑篆額(大正10年)
116.加藤七平表彰碑篆額(大正10年)

 南三原村白渚(和田町)の老農。46歳で隠居すると、飢饉にそなえた甘藷団子や松皮餅などの製造奨励や農書の著述、また安房地方の善行者の顕彰に余生を送った。明治35年に著した『安房孝子伝』の題字や同年建立の孝子顕彰碑の篆額は通房が書いている。七平の表彰碑の篆額も通房の書。明治39年没、68歳。

秋山九右エ門

113.秋山弘道寿碑篆額(大正4年)
113.秋山弘道寿碑篆額(大正4年)

 館山町青柳(館山市)の老農で、郡農会幹事。弘道は号。養蚕の奨励普及につとめ、また安房大道会の幹事として道徳教育にも尽くした。会の中心人物であり、86歳の寿碑は大道会で建立、篆額は通房が書いた。大正14年没、98歳。

山口五平

103.山口五平寿碑(明治39年)
103.山口五平寿碑(明治39年)

 館野村稲(館山市)の人で、村の筆取をしていた。おそらく中年になってからであろう、算術・筆法・歌道・挿花・謡・俳諧をそれぞれ師について学んでいる。号は松竹園梅寿。郡農会員。稲から二子にかけては万里小路家の土地があったといい、五平がその収穫米を取りまとめて送ったという話が残っている。そのうち、一筆は明治27年に取得されている。五平の寿碑は通房の揮毫。明治40年没、90歳。

田中正一郎

 豊房村神余(館山市)の素封家。郡会議員などをつとめた。神余の酒造家青木文次郎とともに、神余にあった万里小路家の田の管理を頼まれていたといい、小作取りのときには通房が家にきたそうだ。また年始には通房のもとへ挨拶にいったという。通房が隼人瓜の種をもってきて、集まった人に配ったという話もある。祖父六郎が郡農会設立時の農会員。正一郎は昭和12年没、63歳。

寺田安蔵

 神戸村藤原(館山市)の郡農会員。通房はよく「安蔵いるか」と訪ねてきては、「これを植えてみろ」といって新しい野菜の種をおいていったという。神戸地区の落花生は有名だが、これは通房が持ち込んだものだといい、他にもトマトや隼人瓜の種をおいていった。大正13年没、74歳。息子の亀太郎が通房に促進栽培を指導され、神戸地区に導入した。

松田市五郎

 丸村丸本郷(丸山町)の素封家。郡農会員。正月に作った野菜や梅干しをもって万里小路家へ年頭の挨拶にいき、通房が作った珍しいものや猪の肉、西洋菓子などをもらってきたという。明治30年代には冬に鉄砲を打ちにきて泊まったことがある。昭和6年没、67歳。市五郎の子哲四郎は通房の屋敷から安房中2回生として通ったといい、哲四郎の娘には通房が自分の娘と同じ名前を付けてくれたという。

鈴木周輔

 九重村薗(館山市)の郡農会員。通房との交流はないらしく、親類の家令高山恒三郎との関係で依頼したらしい。昭和7年没、79歳。

前田国橘

 東京の陸軍獣医官で俳句の宗匠。号は伯志。明治30年代に館山町の北下台に住すようになる。通房は伯志の俳誌『房の栞』の題字を揮毫し、また『残の雪』に伯志の喜寿を祝って一句よせているが、通房の俳句はめずらしい。大正9年没、92歳。

斎藤東湾

 安房中の漢文教師。東湾の遺作に通房との交友を詠んだ漢詩が8点ある。明治34年の赴任時に鯉を贈られたこと、通房と碁を打ったときのもの、通房屋敷の寒牡丹を詠んだもの、嫡孫の誕生祝いなど。また通房を梅洲あるいは鏡浦と称しているものがある。東湾が著した郷土誌『安房志』の題字と顕彰碑の篆額は通房が揮毫した。明治45年没、55歳。

10.『安房志』題字(明治41年)
10.『安房志』題字(明治41年)

加藤龍一郎

 那古町那古(館山市)のひと。20歳の頃に通房の花の弟子になり、流芳斎の号をもらったという。扁額は通房が刻んだものだというが、紫川が通房の号であるかは不明。加藤家には遠州流の花器がある。昭和46年没、85歳。

黒川弥太郎

 九重村大井(館山市)のひと。明治36年から大正8年までの北条小学校長。通房と懇意にしており、お互いの屋敷で丹精する菊を鑑賞しあい、通房が晩餐に誘ったりすることが書簡にみえる。昭和18年没、84歳。

正木清一郎

 船形町船形(館山市)のひと。近代水産業の功労者で、船形町長もつとめた。日本弘道会安房支会の設立に携わっている。昭和9年没、80歳。父貞蔵は通房の茶の湯の相手であり、また通房屋敷の菊を鑑賞して俳句を詠んでいる。通房を安房大道会の会長に推薦したのは貞蔵だった。大正2年没、75歳。

鈴木鶴松

 館山町上須賀(館山市)のひと。館山桟橋会社の社長で、自宅に通房を招いて謡などをやったという。俳句もたしなむ。鏡ヶ浦に汽船を出して高官の密談に便宜をはかったという話がある。昭和27年没、82歳。

鹿島政五郎

 北条町仲町(館山市)のひと。北条郵便局長で、町会議員もつとめた。通房との交流は不明。親類の家令高山恒三郎の仲介で書をもらったというが、通房賀寿の記念菓子鉢をもらっており、直接の付き合いもあっただろう。昭和33年没、83歳。

後藤憲二

 北条町六軒町(館山市)の医者。耳鼻咽喉科の後藤医院を大正13年に開業。通房との交流は不明。昭和27年没、63歳。

上野隆郷

 北条町長須賀(館山市)の眼科医。上野医院を開業。文芸に通じ別天舎・三英などと号す。通房との交流は不明。大正8年没、82歳。

秋山邦美

 九重村大井(館山市)のひと。大正3年頃には北条町南町の呉服商若松屋の番頭をしていて、通房の屋敷へ遊びに出入りしていたという。のち九重村長になった。昭和21年没、67歳。

川名貞蔵

 船形町川名(館山市)の素封家。兄惣十郎(宗寿)の跡を継ぎ、兄の墓表建碑にあたって通房に揮毫を依頼した。海老を下げて頼みにいったといい、字の気に入らない部分の直しを頼んだところ、「俺は書家じゃない」といわれて、またお詫びの海老をもっていったというエピソードがる。昭和13年没、90歳。

野村實

 東条村広場(鴨川市)の建具職。昭和4年より村会議員。通房との交流は不明だが、大正13年より文芸を通して地方青年の善導を試みている。昭和57年没、92歳。

松葉丈四郎

 大正3年に静養のため北条町鶴ケ谷(館山市)に転居してきた退役軍人。当時北条にいた退役軍人の将校で「茶話会」という会合をもち、通房をよんで話を聞いたという。そうした付き合いから通房が作りすぎた瓜などを人力車に乗って届けてきてくれることもあり、通房の葬儀の時は軍人会が取り仕切ったという。昭和46年没、91歳。

石井兼次

 北条町六軒町(館山市)の草分けの一軒、屋号ゲンシチドン。植木職として海岸の屋敷へ出入りした。万里小路家専用の脚立がある。兼次は冗談坊で通房を笑わせて気に入られていたが、言葉が過ぎて一度出入り禁止になったことがある。しかし通房のほうが淋しくなって出入りを許したとのこと。二人でよく釣にいったという。屋敷内には通房がくれたシュロの木がある。昭和6年没、73歳。

石井栄太郎

 北条町六軒町の大工棟梁。海岸の屋敷を建てたという。通房に可愛がられ、息子の名前を通房に付けてもらった。また万里小路家で初めて葡萄酒を飲ませてもらって引っ繰り返ったという逸話もある。カニ萬の半纏を誇りにしていた。昭和18年没、66歳。

三瓶今朝吉

 北条町六軒町の理髪店主。大正7年に開業し、通房の散髪をしに海岸の屋敷へ頻繁に出入りした。ニューヨークの橋を描いた銅板画は通房の洋行みやげで、今朝吉が記念にもらったもの。写真31の書は昭和3年の開店十周年を記念して通房が書いたもの。昭和37年没、71歳。

31.『筆歌墨舞』(昭和3年)
31.『筆歌墨舞』(昭和3年)

広野常市

 北条町南町(館山市)のひと。通房の書生をして、通房の子通利と同学年で安房中に通った。明治44年卒業。その後千葉師範を出て、神余小や豊房小の校長になった。昭和38年没、72歳。

渡辺雄太郎

 南三原村海発(和田町)のひと。通房の書生をしていて、カメラを担いで通房の後をついてまわったという。君津市の三石山へも一緒に歩いていった。その後北条町六軒町の浅井写真館で修業し、大正年間に渡辺写真館を開業した。通房葬儀の出棺写真(No.55)は渡辺写真館で撮影。昭和59年没、82歳。

島田安治

 館山町のひとか。家令高山恒三郎の仲介で書いてもらったのであろう。

高山恒三郎

 北条町六軒町(館山市)の草分けの一軒、屋号デーミドン。北条の万里小路家の家令だったという。徴兵により明治33年・34年の北清事変に従軍、さらに日露戦争にも従軍して、通房から凱旋記念として和歌と盃をもらっている。知り合いから通房の揮毫を頼まれたり、大正2年の町長就任のときなども町当局から取り成しの依頼を受けている。昭和50年没、95歳。また先代恒三郎(可笑)は郡農会員で、通房とも早くから親しかったらしく、可笑が丹精する菊が珍しい咲き方をしたことから、明治26年に通房のはからいでそれを明治天皇の天覧に供したことがある。菊の大輪の中からさらに数本の花が咲いた貫生花で、侍従長徳大寺実則から通房にあてた書簡が残されている。昭和2年没、83歳。