(2)社会教化

 一方、精神面での変革の必要性も感じていたのであろう、道徳教育を中心とした社会教化活動にも積極的にかかわり、支援していた。

 明治政府の急激な欧化政策が西洋心酔や功利主義の弊害を生み、明治10年代に道徳思想家の西村茂樹が日本弘道会を組織して国民道徳の振興と道義国家の建設を主張すると、これに影響を受けて国粋主義が台頭する。そのひとり陸軍中将の鳥尾小弥太は明治21年(1888)に日本国教大道社を結成するが、その頃安房館山町に住していた同郷の金近虎之丞にすすめて、安房地方にも安房大道会を組織した。この会は神道家川合清丸の唱道する神儒仏の三教一致を掲げたもので、その目的は「地方風教の改善」であり、「徳義人道を奨励し、一般の風俗を醇厚ならしめん」という民衆の道徳教化にあった。鳥尾を会長におき、大巌院住職石井静江を中心に安房神社神官川名楽山など18名で発足した。

 明治36年(1903)通房はこの会の会長を要請され、地域の社会教化にもかかわっていくことになる。その活動は講和を中心とした修養に重きをおき、大正6年(1917)には400名を越える団体になっていた。大正8・9年(1919・1920)の記録では、通房の屋敷を会場に毎月5日に5,60名を集めて開催されている。延命寺住職佐々木珍龍など宗教家や安房中学校長寺内頴・安房高等女学校長豊沢藤一郎などが講師として招かれている。

 しかしそうした活動とは別に、大道会の幹事であり篤農家として知られた秋山弘道は、大道会の活動の一環として、幻灯機を携えて養蚕の奨励をしてまわったとの話が伝わっており、通房の会長就任によって会の活動方針は、風教改善と産業奨励のふたつの方向性をもつようになった。そこには伝統産業の保護育成によって国力の増強を図ろうとする、国粋主義による近代化の構想と通じる面をみることができる。

 安房大道会の活動を行う一方、大正9年6月に大道会と同様の社会教化団体である、日本弘道会の安房支会が発足すると、その顧問にも就任している。道徳教育を中心とした修養活動を行なう団体だが、大道会が僧侶や神官、篤農家、職人などが多く幹事に名を連ねて活動するのに対して、弘道会の発起人には安房郡長をはじめ政治家・実業家・教育者などの当時の名士が名を連ねている。しかし「人心を正し、風俗を善く」するための道徳運動を展開する面では大道会と同じ主旨をもつものであった。

121.日枝神社社号額(明治30年)

121.日枝神社社号額(明治30年)
館山市下真倉・日枝神社蔵
 <秋山弘道の地元青柳の神社に通房が揮毫したもの>