数多くの軍事基地や施設が設置された館山のまちは、戦争末期になると連日空襲警報が発令され、空襲を警戒する生活を送りました。また、まちには多くの軍人や軍の関係者が訪れ、軍との商売が盛んに行われました。さらに、施設周辺の民家が軍人の休養施設や下宿として提供され、軍人と地域の人々が交流を深めています。
戦時中、戦地に向かう軍人を送り出した人々は、「銃後の護り」を呼ばれる戦争を支える生活を送り、国民全体が戦争に協力し、戦争の影響は生活の隅々に及びました。軍に優先して物資を送るため、地域では生活に必要な物資が不足しました。節約が奨励され、陶器製の金属の代用品の登場や生活必需品の購入制限が行われ、防災訓練、防空監視、灯火管制、防空壕の建設、松根油の増産が実施されました。
こういった活動は、召集や徴用によって不足した男性の代わりに女性が中心となって行いました。子どもたちも愛国心や軍事教育を中心とした教育を受け、芋掘りや防空壕づくりに協力しています。
