里見氏の系譜

源氏里見系図 三芳村指定 延命寺蔵
源氏里見系図 三芳村指定 延命寺蔵
重要文化財 石造不動明王立像 像高154cm 群馬県不動院蔵

重要文化財 石造不動明王立像
 像高154cm 群馬県不動院蔵

建長三年里見氏義奉納の銘文が胴部矧面にある

里見義実木造 杖珠院蔵

里見義実木造 杖珠院蔵

里見成義木造 杖珠院蔵

里見成義木造 杖珠院蔵

里見義通木造 杖珠院蔵

里見義通木造 杖珠院蔵

里見義豊木造 杖珠院蔵

里見義豊木造 杖珠院蔵

里見実堯木造 延命寺蔵

里見実堯木造 延命寺蔵

里見氏の興亡

 戦国時代、その戦乱のなかから興隆してきた里見氏は、10代170年にわたり房総を支配しました。上野国を本国とする里見氏は15世紀中ごろから安房国で勢力を増し、房総地方で領土を拡大して、戦国大名として成長を遂げます。一族内部の抗争を克服した義堯・義弘のころに最も勢力を伸張し、関東での進出いちじるしい小田原北条氏と対立、常陸佐竹氏・越後上杉氏らと連帯して関東の覇権を争います。豊臣秀吉による天下統一後は、上総国没収のなか安房一国の大守として近世大名への変化をみせますが、江戸幕府によって伯耆国へ移封されました。

鎌倉との交流

木造地蔵菩薩坐像 総高44.3cm 南北朝期の法衣垂下像  源慶院蔵

木造地蔵菩薩坐像 総高44.3cm
 南北朝期の法衣垂下像  源慶院蔵

水岡やぐら 市指定

水岡やぐら 市指定

田中義夫氏所有地内内部に17基の陽刻五輪塔がみられる

水晶製舎利塔 総高4.3cm 自性院蔵

水晶製舎利塔 総高4.3cm
 自性院蔵

重要文化財 梵鐘(弘安9年在銘) 小網寺蔵

重要文化財 梵鐘(弘安9年在銘)
 小網寺蔵

五鈷鈴・五鈷杵

五鈷鈴・五鈷杵
 県指定

花弁盒 小網寺蔵

花弁盒 小網寺蔵

金沢審海の銘がある

武家社会のはじまり

 鎌倉に武家政権が確立し、文化的な成長をとげると、東京湾をはさんだ対岸の安房にさまざまな影響を与えました。安房国四郡には東条、神余、丸、安西といった豪族が成長を遂げ、彼らを中心に中小武士層の間にも、鎌倉文化の強い影響をうけて多くの文物が流入しました。

 鎌倉を中心に三浦半島に集中的にみられる中世武士階級の墓制“やぐら”や、仏像彫刻の様式にも鎌倉風の特色がみられます。また小網寺の梵鐘や、金沢称名寺の住僧審海銘のある密教法具なども鎌倉方面からの流入物で、その交流の深さを知ることができます。

国府と国分寺 -奈良時代-

 奈良時代に国分寺が置かれました。さらに、その北、約1.5km地点には安房国府が置かれています。以後この周辺が安房国の政治・経済・文化の中心地として発達します。

安房国分寺軒丸瓦 房総風土記の丘(現房総のむら)保管

安房国分寺軒丸瓦 房総風土記の丘(現房総のむら)保管
奈良時代に聖武天皇の発願により各地ごとに僧寺と尼寺が建立され、これを国分寺といいます。安房国分寺僧寺は現在の国分寺の位置に建立されました。

木簡 奈良県平城宮跡出土 写真提供奈良文化財研究所

木簡 奈良県平城宮跡出土 写真提供奈良文化財研究所
安房国から奈良の都へ届けた租税の荷札。片岡里というのは現在の水岡に含まれる地域と考えられます。奈良時代の初め(718年)まで安房国は上総国に含まれていたので、上総国阿波郡(安房郡)と記入されています。

神話と遺跡 -古墳時代~奈良時代-

 安房には、式内社が6座あり、その内5座までが忌部氏に係る神を祭神としています。忌部氏が房総開拓に果たした役割は「古語拾遺」に述べられておりよく知られています。一方、安房には10数個所の祭祀遺跡が存在していて、古代の安房は一種独特の祭祀環境を形成していたことが考えられます。

祭祀遺物 沼 つとるば遺跡

祭祀遺物 沼 つとるば遺跡
古代に祭りを行った場所が祭祀遺跡です。石製の模造品が極端に少なく土製の鏡や勾玉などの模造品が多いのが安房の特徴です。

祭祀遺物 猿田遺跡

祭祀遺物 猿田遺跡

重要文化財 「古語拾遺」 尊経閣文庫蔵

安房の式内社と祭祀遺跡
安房の式内社と祭祀遺跡

墓にのこされた文化 -古墳時代-

 4Cから7C後半にかけて日本各地に大きな墓がつくられました。これら古代の豪族の墓には、武器・鏡・装身具・土器などが遺体とともに埋葬されています。この時代を古墳時代といいます。

大井横穴墓

安房では高塚古墳よりも、崖に穴を掘って墳墓とする、横穴墓という墓制が多くみられます。 大井横穴墓 君塚文雄氏実測

環頭把頭 坂井翁作古墳

一頭の竜の横顔を銅で鋳出し、そのうえに鍍金した直刀の把頭です。金色さんぜんたる刀をつけた豪族の姿が想像されます。 環頭把頭 坂井翁作古墳 対馬郁夫氏保管

米づくりをはじめた村 -弥生時代-

 関東地方では、約2000年前稲作が始まりました。人びとは田畑をつくって一定の地域に長く住むようになり、初夏に籾をまき、秋に石包丁で稲の穂を刈る生活は現在にまで続く農村の姿の始まりといえます。

合口壺棺 国分寺遺跡
合口壺棺 国分寺遺跡 館蔵
一度埋葬した遺体を再度掘りおこし骨だけを甕に入れて再び埋葬します。
石包丁 笠名
石包丁 笠名 加藤利氏採集 稲穂だけをつみとる道具
弥生土器 赤山遺跡
弥生土器 赤山遺跡 対馬郁夫氏保管