漆器

 日常生活に使う器物が美しく、そして、不朽のものであって欲しいという願望は、古来から我々の祖先が抱いてきたものである。縄文時代以降絶えることなく、人びとが漆と近い間柄にあったことは間違いのない事実で、最近の発掘成果により各地の中世の遺跡からも多くの漆器が出土している。

 ところで、千葉県内の中世漆器の出土例は少ないが、下ノ坊遺跡から漆器皿が1点出土している。内面が朱漆塗り、外面が黒漆塗りのいわゆる内朱外黒とよばれているもので、漆絵などの文様は描かれてなく、普及品として使われたものである。そのほか、断片の接合に漆を使用した中世陶器片が2点出土しており、これは遺跡の近隣地域で漆生産が行われていた可能性を示すものである。

漆器皿(鋸南町下ノ坊遺跡)

漆器皿(鋸南町下ノ坊遺跡)
財団法人千葉県教育振興財団提供

常滑捏鉢(鋸南町下ノ坊遺跡)

常滑捏鉢(鋸南町下ノ坊遺跡)
財団法人千葉県教育振興財団提供

 中世豪族の居館跡
  鋸南町下ノ坊遺跡B地点

 昭和63年に調査された下ノ坊遺跡は、保田川の河口から約1kmの沖積地に位置し、弥生時代から中世にかけての遺構群が確認された。

 遺跡の北側には、塀が7基、掘立柱建物6棟、井戸3基などの遺構群があり、中央南部の堀からも、多数の中世の遺物が確認された。出土遺物は、舶載陶磁器、国産陶器、木製容器、漆器などである。鎌倉時代後半(13世紀後半)~室町時代(15世紀前半)まで、継続的に生活が営まれていたと確認できることから、中世豪族の「居館」跡と考えられ、また、この館が100m(方一町)の塀で囲まれていたという想定もされている。

 この館の住人は、この地域の有力豪族であった安西氏か、笹生氏が考えられるが、特定はできない。そして、この館が廃絶した15世紀前半以降、戦国大名里見氏が台頭してくるのである。

下ノ坊遺跡航空写真

下ノ坊遺跡航空写真
財団法人千葉県教育振興財団提供

ほりだされた塀と建物の跡(鋸南町下ノ坊遺跡)
ほりだされた塀と建物の跡(鋸南町下ノ坊遺跡)
掛金具(鋸南町下ノ坊遺跡)

掛金具(鋸南町下ノ坊遺跡)

刀子(鋸南町下ノ坊遺跡)

刀子(鋸南町下ノ坊遺跡)

土師質土器(鋸南町下ノ坊遺跡)

土師質土器(鋸南町下ノ坊遺跡)

硯(鋸南町下ノ坊遺跡)

硯(鋸南町下ノ坊遺跡)

瀬戸おろし皿(鋸南町下ノ坊遺跡)

瀬戸おろし皿(鋸南町下ノ坊遺跡)
以上:財団法人千葉県教育振興財団提供

  カマド

 古墳時代から奈良・平安時代にかけて竪穴式住居に必ず設けられたもので、ここで米が炊かれた。

 カマドは砂質の粘土でつくられたのが一般的で、甕(かめ)をカマドにかけ、その上に甑(こしき)を重ねたものが、炊飯具として使われた。

健田遺跡復元住居内カマド

健田遺跡復元住居内カマド

ほりだされたカマド跡(千倉町健田遺跡)

ほりだされたカマド跡(千倉町健田遺跡)

土師器甕(千倉町健田遺跡) 奈良時代

土師器甕(千倉町健田遺跡) 奈良時代
朝夷地区教育委員会蔵

土師器坏(館山市安房国分寺跡) 奈良時代

土師器坏(館山市安房国分寺跡) 奈良時代
当館蔵

  木簡

 諸国の特産物が「調」として都へ運ばれたが、その時荷物に付けられたのが付札木簡である。木簡の表記から、従来知られていなかった地名や、すでに知られている地名の異なる表記がわかる場合がある。写真の木簡から「安房」の古い表記は「阿波」であったことがわかる。このことからもわかるように、木簡の出土と律令制下の地方村落の発掘進展は、不明な点が多い奈良時代の社会に迫るものなのである。

平城京跡出土木簡
平城京跡出土木簡
写真提供奈良文化財研究所

  健田郷とは

 古代律令国家は、地方を国・郡・里という行政組織にわけた。律令制を支えた民衆の大半は農村に居住し、班田を支給される農民であった。国家は農民を原則として50戸ごとに「里」としてまとめ、律令制の末端への浸透をはかったが、「里」はのちに「郷」と改称される。

 平城京跡から、「養老6年(722)10月に、安房国健田郷から鰒(あわび)を献納する」という内容の木簡が発見された。他に、天平17年(745)の同内容の木簡も出土しており、ここから「健田郷」さがしがはじまったのである。

 都に特産物を送ったムラ
  千倉町健田遺跡

 千倉町瀬戸地区は、瀬戸川の河岸段丘上の海抜25mほどのところにあり、太平洋岸までは直線距離にして約1.7kmほどである。付近一帯は、平城京跡出土の木簡に記された「健田郷」に比定されており、「健田郷」がどこにあるかを解明するために、昭和49年以降発掘調査が行われている。健田遺跡というのは、薬師前・堀ノ内・駒形・稲子沢の各遺跡の総称で、付近一帯には、弥生時代後期から奈良・平安時代にいたる集落が、かなりの高密度で分布していることが明らかになった。奈良時代の住居跡から、畿内地方より運ばれてきたと考えられる土器などが出土しているが、今のところ「健田郷」であるというはっきりとした遺構や遺物はみつかっていない。

健田遺跡遠景
健田遺跡遠景

  鋸南町田子台遺跡

 鋸南町は、平地が極めて狭く、鋸山や津辺野山など千葉県では高峰といえる山が海岸に迫っているという地形環境にある。

 津辺野山の西方にテーブル状の低い丘陵がひろがり、この上にあがると、広々とした畑の中に草ぶきの屋根がみえる。これは、昭和27年(1952)に、早稲田大学によって発掘された竪穴住居跡の上に建てられた復元住居である。

 発掘調査により弥生時代後期の住居跡2軒が発見された。この2つの住居跡の平面形は楕円形で、1号住居跡は直径4.2m×短径3.6mと普通の大きさだが、2号住居跡は9.6m×7.5mと非常に大きいものである。大きい2号住居跡は焼失したもので、床の上に焼け落ちた柱などが炭となって残っていたため、その出土状態や柱穴の位置から屋根の構造を推定し、遺跡近くの林から材料を集めて住居が復元された。

 床面からは、後期の久ヶ原式を主体とした多くの土器のほか、当時としては大変貴重なガラス玉が117個も出土した。ガラス玉は、紐で結び通して垂飾品として使われたものと考えられる。垂飾品などの装身具は、死者が生前、身に付けたものを副葬したものの出土例は多いが、住居跡からの確認は、大変珍しいものである。貴重なガラス玉さえも持ち出す間がないほど、あわただしく逃げ出したことがよくわかる。(残念ながらこのガラス玉の所在は確認できなかった。)

 この時期に貴重なガラス玉をもっていたこと、そして住居が大きいことは、ここに住んでいた人の勢力の大きさを物語り、人々の間に階層分化が生じはじめたことを示している。

ほりだされた住居の跡(鋸南町田子台遺跡)

ほりだされた住居の跡(鋸南町田子台遺跡)

田子台遺跡第2号住居跡実測図
田子台遺跡第2号住居跡実測図(『安房勝山田子台遺跡』より転載)
弥生土器壺(鋸南町田子台遺跡)

弥生土器壺(鋸南町田子台遺跡) 弥生時代
鋸南町歴史民俗資料館蔵

弥生土器壺(千倉町健田遺跡)

弥生土器壺(千倉町健田遺跡) 弥生時代
朝夷地区教育委員会蔵

 階層分化のきざし

 弥生時代になり米づくりが本格的にはじまると、生産の安定によって余剰生産物が生じるようになり、一集落のなかにそれを掌握する中心的な人たちがあらわれはじめる。さらに、力のある集落が弱い集落を支配するといった、支配・被支配の関係が生まれてくる。

 安房では、加茂川・丸山川・平久里川などの河岸段丘上に遺跡が多くみられるほか、館山市神戸地区の海成段丘上、あるいは鋸南町田子台遺跡のように比高差80mもある丘陵上に遺跡がみられる場合もある。安房の複雑な地形に応じて、人々が生活していたことがよくわかる。

  大珠(たいじゅ)

 その素材である翡翠(ひすい)の美しさから、古くから注目されている飾り玉である。

 東北から中部地方までの東日本に多く分布しており、大部分は、縄文時代中期以降の遺跡からで、地域の中心となった大規模集落からの出土例が多い。

大珠実測図(富浦町深名瀬畠遺跡)

大珠実測図(富浦町深名瀬畠遺跡) 縄文時代
(『深名瀬畠遺跡調査報告書』より転載)

 縄文ムラの風景
  富浦町深名瀬畠遺跡

 富浦町は地形的に、周囲を囲む丘陵地帯と岡本川によって形成された河岸段丘に大きく二分される。丘陵の南斜面は枇杷畑として、河岸段丘面は畑・水田・宅地などに利用されている。昭和60年に調査された深名瀬畠遺跡は、この河岸段丘の最上段に位置している。

 遺跡は、縄文時代中期から後期にかけて41軒の住居跡からなり、それらは約800平方メートルの広さに集中してみられ、その密度の高さから稀にみる大集落であったといえる。

 住居の平面形は円形・楕円形・方形ぎみの円形のものがあり、4本ないし5本の主柱があったものと考えられる。住居内の中心には、火をたき食料の煮炊きをしたり、暖をとったりした炉があり、地面を浅く掘りくぼめただけのもの、石で囲んだもの、土器で囲んだものの三形態が確認された。また、埋甕(うめがめ)がほとんどの住居に埋置されていたが、ここが出入口となっていたと考えられる。

 出土した縄文土器は、前期後半から後期中葉にかけてのものだが、主体となる中期前半の勝坂式から、後半の加曾利E3式への土器のうつりかわりが、千葉県内で一般的にみられる様子よりも、対岸の神奈川県の状況に極めて似ているのは、注目すべきことである。海上航路を使えば、三浦半島との行き来も比較的容易に行えたのであろう。そのほか、土器片錘が327点出土していることから、漁撈活動がさかんに行われていたことがうかがえる。

 また、黒曜石製の石鏃が315点出土していることもこの遺跡の大きな特徴で、それとともに石器製作時の削りかすが多くみられることから、石鏃の製作を行っていたと考えられ、その量から、この集落の外にも供給していた可能性がある。

深名瀬畠遺跡全景

深名瀬畠遺跡全景

ほりだされた住居の跡(富浦町深名瀬畠遺跡)

ほりだされた住居の跡(富浦町深名瀬畠遺跡)

ほりだされた炉の跡(富浦町深名瀬畠遺跡)

ほりだされた炉の跡(富浦町深名瀬畠遺跡)

縄文土器深鉢(富浦町深名瀬畠遺跡)

縄文土器深鉢(富浦町深名瀬畠遺跡)

(以上、富浦町教育委員会蔵)