縄文ムラの風景
  富浦町深名瀬畠遺跡

 富浦町は地形的に、周囲を囲む丘陵地帯と岡本川によって形成された河岸段丘に大きく二分される。丘陵の南斜面は枇杷畑として、河岸段丘面は畑・水田・宅地などに利用されている。昭和60年に調査された深名瀬畠遺跡は、この河岸段丘の最上段に位置している。

 遺跡は、縄文時代中期から後期にかけて41軒の住居跡からなり、それらは約800平方メートルの広さに集中してみられ、その密度の高さから稀にみる大集落であったといえる。

 住居の平面形は円形・楕円形・方形ぎみの円形のものがあり、4本ないし5本の主柱があったものと考えられる。住居内の中心には、火をたき食料の煮炊きをしたり、暖をとったりした炉があり、地面を浅く掘りくぼめただけのもの、石で囲んだもの、土器で囲んだものの三形態が確認された。また、埋甕(うめがめ)がほとんどの住居に埋置されていたが、ここが出入口となっていたと考えられる。

 出土した縄文土器は、前期後半から後期中葉にかけてのものだが、主体となる中期前半の勝坂式から、後半の加曾利E3式への土器のうつりかわりが、千葉県内で一般的にみられる様子よりも、対岸の神奈川県の状況に極めて似ているのは、注目すべきことである。海上航路を使えば、三浦半島との行き来も比較的容易に行えたのであろう。そのほか、土器片錘が327点出土していることから、漁撈活動がさかんに行われていたことがうかがえる。

 また、黒曜石製の石鏃が315点出土していることもこの遺跡の大きな特徴で、それとともに石器製作時の削りかすが多くみられることから、石鏃の製作を行っていたと考えられ、その量から、この集落の外にも供給していた可能性がある。

深名瀬畠遺跡全景

深名瀬畠遺跡全景

ほりだされた住居の跡(富浦町深名瀬畠遺跡)

ほりだされた住居の跡(富浦町深名瀬畠遺跡)

ほりだされた炉の跡(富浦町深名瀬畠遺跡)

ほりだされた炉の跡(富浦町深名瀬畠遺跡)

縄文土器深鉢(富浦町深名瀬畠遺跡)

縄文土器深鉢(富浦町深名瀬畠遺跡)

(以上、富浦町教育委員会蔵)