館山市立博物館が、当企画展に先立ち行った絵馬調査により、安房地方の99ヵ所以上の社寺に、445点以上の絵馬が残されていることが確認できた(「安房地方所在絵馬一覧」参照)。虫神信仰がある和田町宝性院では、おびただしい数のとり図の小絵馬が残されており、一覧にはその一部を示したのみなので、実数は1,000枚以上に達すると思われる。絵馬の残されている社寺の分布をみると、市町村によって数の多少はあるが、安房地方一円に絵馬奉納の風習があったことがわかる。
調査の過程で大変残念であったことは、盗まれて紛失してしまった絵馬や、あるいは社殿・堂などの改築時に燃やされてしまった絵馬が、数多くあるということであった。絵馬は、それぞれの時代に生きた人々の赤裸な心情や、文献記録には残らない民衆の姿を窺い知ることができる、貴重なふるさとの歴史資料である。現代に生きる私たちが、大切に保存していかなけばいけないことを、あらためて認識した。
このような状況のなかで、紀年銘から江戸時代の絵馬と特定できるものを、57点確認できた。さらに大きな収穫は、調査前までは安房地方最古の絵馬であった、享保十年(1725)の銘がある館山市那古寺の「古今兄弟兵曽我草摺引図」(図版52)を溯る、17世紀代の絵馬を4点発見したことである。最も古い絵馬は、鴨川市薬王院に奉納されている「武者図」(図版55)で、慶長15年(1610)の銘がある。紀年銘はないが、「武者図」(図版54)と一対になるものと思われ、この「武者図」二面は、里見氏の家臣上野氏に属した富田多兵衛が奉納したものである。さらにこの薬王院には、正保五年(1648)銘の「弁慶と牛若丸図」(図版57)がある。また、鴨川市大山寺の「繋馬図」(図版2)には、承応二年(1653)の銘がある。
18世紀代の紀年銘のある絵馬は、前述した館山市那古寺の「古今兄弟兵曽我草摺引図」、天津小湊町清澄寺の「韓信の股くぐり図」〔安永三年(1774)〕、富浦町常光寺の「常光寺薬師堂図」〔天明二年(1782)〕、館山市国府寺の「孝子伴直家主図」〔寛政二年(1790)〕(図版61)、寛政十年(1798)の銘がある鋸南町鶴ヶ崎神社の「義経弓流図」(図版58)の5点のみである。文化文政期(1804~1830)以降には、紀年銘のある絵馬は急増する。この傾向は明治時代まで続き、とくに明治時代には薬師や不動への信仰が盛んになった様子が窺えるが、大正時代にはいると絵馬の奉納は激滅する。
絵馬の奉納者は庶民がほとんどで、武士階級からの奉納はきわめて少ない。また絵師のなかには、安房地区で活躍した人々の名がみえる。鋸山の五百羅漢石像造立に携わった大野英令や、寛政期から天保期の作品を残し、作画の基礎テキストである「画法式」を作成した勝山調、幕末に館山藩の画学教授をつとめた川名楽山、幕末から明治初期を作画期とする市井の画家渡辺雲洋などがそうである。
鴨川市薬王院薬師堂の絵馬奉納風景