こうして明治30年代に、中流階級を中心とした避暑客と学生たちが海水浴に訪れるようになると、名所案内を中心に房州の旅行案内書の出版も多くなり、また宿泊施設も増えていきました。鏡ケ浦の街場にあった宿泊施設は、明治34年の資料によれば、旅人宿が船形に1軒、那古に3軒、北条に9軒、館山に5軒で、下宿が北条に1軒、館山に2軒でした。
しかし、鴨川の書店礒谷武一郎が依頼して鷲見剛亮に書かせた『房州みやげ』では、明治45年には、もう増える旅行者に対応が追いつかないのか、「房州に此れだけの旅館中で、身分ある人の宿泊に堪ゆるものと云ったら、御気の毒ながら晨(よあけ)の星だ、二三軒もあろうかしらん。素より取扱ひや設備の悪ひ位の事は辛抱も我慢もデキルとして、十中の八九まで待合か魔窟か、マルで正体の判らぬ化物屋敷然たるには、驚き入るの外はない。是れは当局の取締が緩慢である為めか、将た営業者の横着から出たのか、但しは御客の方の腐敗から生じたのか、其等の詮索は別として、兎に角甚だ憂うべき現象である。」と言いたい放題の状況になっていたようです。
51.『日本博覧図千葉県』「山月楼山田屋旅館図」(明治29年)
当館蔵
52.山田屋旅館宿帳(昭和11年)
個人蔵
53.山田屋旅館料理広告(明治)
個人蔵
53.山田屋旅館鬼瓦
個人蔵
いづれも館山を代表する旅館でした。