大正8年に那古船形駅と安房北条駅が開設されると、全国版の鉄道旅行の案内書での扱いも増え、また東京から1、2泊の旅行地としての気楽さも宣伝されて、旅行者はますます増加していきました。安房北条駅前には北条町による町設旅客案内所が設けられ、夏のあいだは役場から係員が派遣されて、旅館貸間案内などのサービスを行う一方、貸家や貸間の斡旋、土地建物の売買斡旋を行う業者も増えていきました。また北条館や館山倶楽部・那古倶楽部・船形倶楽部などの活動写真を営業する興行館もでき、北条を中心に都会的雰囲気もつくられていきました。そして大正時代の房州の観光的雰囲気は、大正12(1923)年8月に北条町長須賀で開催された東京湾納涼博覧会でピークをむかえたといいます。
そうした中で、旅行者の増加にともなって弊害も生まれてきていたようです。大正13年出版の『震災踏査避暑地旅行案内』では北条町を辛辣に評して、「海水浴地として好適地であるが、土地の風儀の悪いのと、物価の高いのは、一大欠点である。成金風がこの地を堕落させ、平民党には、不適当の所となった。…立派な旅館があるが、これ又成金崇拝にこりかたまっているので、金をアラク使はない人には、居心地がわるい。」と伝えています。
こうした風評は房州の人々も感じていたようで、大正11年に楽土社を設立して観光宣伝につとめていた中村弥二郎は、月刊誌『楽土の房州』の大正12年夏季特別号で、「房州の天地を諸君に紹介し、併せて来遊者の一顧を請ひ、更に房州人にも反省を促す」という論説を発表しました。成金風を吹かせ傍若無人にふるまう都人士、散らされる金銭の多寡によって態度の変わる房州人。両者に反省を求めたものでした。それは急速に広まる旅行ブームのなかで、旅行慣れしない旅行者と、旅客を迎え慣れない行楽地の人々の葛藤でもありました。
この頃は、大正9年に誕生した日本旅行倶楽部が、旅行道徳の向上や茶代廃止など、健全な旅行の普及を唱えて活動していた時期でした。このような旅行上の問題は、当時の全国的な傾向としてあったのでしょう。こうした流れをうけて、当時の悪弊のひとつだった旅館の茶代(チップ)を館山でいち早く廃止したのが、大正11年に営業をはじめた館山町の海岸ホテルでした。これは館山で最初のホテルですが、あまり高級感を出さず人気のあったホテルでした。
73.北条線時刻表(大正15年)
当館蔵
80.夏涼冬暖之楽土房州案内(昭和3年)
当館蔵
安房振興会発行の『房州めぐり』を改題補訂して楽土社が出版している。