「養老元年(717)春、元正天皇の病気平癒の祈祷をしていた行基は、ある日の夢で安房国那含(なごん)の浦にある霊木で千手の像を刻めと告げられた。那含の浦で海中から光を放つ霊木を引き上げた行基は歓喜する。この霊木は、観音を守護する仁王尊が南の果てにある補陀落山の柳をここへ持ってきたとき、龍神に奪われ竜宮に納められていたものであった。この地の山も補陀洛山といい観音が現れる影向(ようごう)の地である。さらにその昔は釈迦以前の仏である拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)も現れたという。それでここを拘那含の里というのだそうだ。行基は千手の像を刻みこの里に寺を建てた。承和14年(847)年に中国から帰ってきた慈覚大師は、帰朝のとき海上で那含の観音に救われた。そこで那含の里を尋ね千手観音の像を山上の岩窟に移し納めて岩壁に懸かる堂を建てた。治承4年(1180)に伊豆で敗れた源頼朝が安房へ逃れたときには、那含の観音と鶴ヶ谷の八幡神が現れて頼朝に加勢のあることを告げた。加護を得た頼朝は鎌倉に入って武家の棟梁になることができた。そこで衰えていた那古寺を氏寺にして七堂を建立し、土御門天皇の勅によって秀円上人が住職として那古寺を再興すると、真言密教の霊場としての歴史が始まったのである。」
この那古寺縁起は、26世宥範が住職であった永禄年中に1世秀円の古記が焼失したため、惣持院頼覚が師宥範から聞き書きした記録をもとに、24世義弁の記録とあわせて31世頼宜がまとめたものである。寛永年間に記録されたと考えられる。それを32世頼応がこの形に整理し、33世頼実が冒頭に端書きを加えたものを、文化2年(1805)に宥慧という僧が書写したという経緯であることが奥書などからわかるが、母体となる内容は戦国時代末につくられていたことが理解できる。
縁起にある那含の里が那古の里であり、この地名の由来については拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)を語源とする説が載せられている。拘那含牟尼仏はたんに拘那含ともいい、過去七仏のひとつである。釈迦が仏になるより以前にこの世に現れていた仏が六仏あり、釈迦を含めて過去七仏というが、そのような仏が人々を救うために現れた場所だとの由緒を示しているのである。
また千手観音が那古の里から山上の岩窟に祀られるようになったことが記されているが、そのくだりでは海を前にして風景がすばらしいことをとうとうと述べている。那古寺が海辺の山岳寺院であり、観音の補陀落世界であることが主張されているといえるだろう。
寺の口碑によれば、その昔観音堂は山頂に近い古屋敷という小平地にあったとされている。那古山の北側には江戸時代前期に川名村之内小那古村と呼ばれた土地があり、今も古那古下(こなごした)の小字がある。那古村の旧地か那古寺の旧寺地であったことが想定されるが、その西側の尾根筋から那古山を越えて仁王門の前へ出る道が、寛文の古絵図(36.那古寺那古村境論裁許絵図)には描かれている。古屋敷も通過する道筋と思われる。内房の主要道である木の根道から川名浜を回り込んで那古観音へ向うことは、この当時は海に阻まれていて出来ない。山越えをしてくるコースは当時の参道のひとつと考えることができるだろう。
伝承によると観音堂が古屋敷から現在地に下りてきたのは元禄の大地震で倒壊したことによるといわれていたが、元禄地震前の寛文の古絵図ですでに現在地に観音堂と思われる建物が描かれており、移転の伝承はこれ以前の地震にともなうものと考えなければならない。現在は消滅しているが、かつて日枝神社右手の崖面に崩落しかけた陽刻の五輪塔が確認されていた。ここに中世のやぐらが営まれていたことが考えられ、中世のある時期、この平場にすでに宗教的な環境がつくられていたことがわかる。
文明18年(1486)に聖護院門跡の道興が東国を巡歴したとき、那古寺に参詣して「なごの浦の霧のたえまにながむればここも入日を洗ふ白浪」と那古の浦を詠んでいる(『廻国雑記』)。はたして古屋敷から見たのか現在地なのか。どちらも南の海を見渡す地である。
補陀落はよそにはあらじ那古の寺岸打つ波を見るにつけても
那古観音の御詠歌は、那古寺の山号が補陀洛山であるように、この寺を観音菩薩の住む浄土である補陀落山に見立てている。補陀落山はインド南海岸にあるといわれている山で、観音信仰の広がりとともにチベットや中国・朝鮮・日本でも観音の霊地とされるところに補陀落の名が付けられていった。日本では日光山・那智山・足摺岬が有名で、那古寺もそのひとつということである。那智や足摺では中世から近世初頭に、観音菩薩のいる補陀落山を目指して船出し入水往生するという補陀落渡海が行なわれていた。海の向うの観音霊場を拝むということで、海や湖に面した山岳寺院に補陀落を冠する所があり、その多くは千手観音を祀る点が共通するといわれている。那古観音も同じ 条件を持っている。
下の絵図は元禄大地震で地形が変化する以前の那古観音下の海の様子が描かれている。元禄16年(1703)の地震では4mの隆起がおこり、海岸線は現況に近い所まで遠退いたが、それ以前は観音堂下に浪が打ち寄せるほどに近かったことが分かる。御詠歌にある「波」は比喩ではなく現実に足元まで打ち寄せていたのである。現在の浜町の弁財天周辺が波打ち際と考えられる。
18.補陀洛山那古寺縁起 文化2年(1805)写
那古寺蔵
同縁起奥書
106.関東大震災前の那古寺
個人蔵
陽刻五輪塔(消滅、昭和60年撮影)
6.御詠歌額 文政2年(1819)
那古寺蔵