鎌倉時代の初期に秀円上人によって中興されると、それから戦国時代にかけては、千葉氏や里見氏・足利氏などの権力者や地域有力者の帰依をうけて栄えていくことになりました。その様子は残された数少ない資料からでも窺うことができます。彼らは仏像を寄進し、修理し、那古寺に祈祷を依頼するなどして、那古寺に加護を願いまた庇護をしていたのです。
この像は本尊と同じ千手観音菩薩像だが、銅造である。作風から鎌倉時代中期の制作とされている。像高は105㎝。髪は一本一本毛筋を立てて写実的に仕上げ、目や頬の張りからはきびしい表情ながら生命力を感じさせる。顔と体のバランスが整い、鋳上がりもよく、鋳造技術も高いという評価から国の重要文化財に指定されている。1000本の手で衆生を救う千手観音であるが、この像は42本の手で千手を表している。体部とは別に手を鋳上げ、肩で左右に3列づつ取り付けている。右脇手前列のつなぎ目に、願主とみられる「平胤時」の名が花押とともに刻まれているのが注目される。
この人物は、鎌倉時代の『吾妻鏡』に登場する千葉一族の千葉八郎胤時のこととされている。源頼朝に従い千葉一族発展の基礎を築いた千葉常胤の孫であり、『吾妻鏡』には将軍家の随兵として現れる。1237年から1247年の間に胤時に関する記事がある点は、作風の時期と一致している。東国武士の信仰によって造られたことがはっきりわかるが、千葉氏と那古寺との関係については未詳である。
像高140cmという市内では大きな仏像で、本格的な半丈六仏である。おだやかな起伏がつづく身体を平行で浅い襞の衣が包んでいる様子は、一見して藤原時代の雰囲気があるものの、表情の明るさが なく、逆に目に強さがみられるところに、鎌倉時代の特色があらわれているという。つまり藤原時代の様式を残しながらも、鎌倉時代の初頭になってからの制作であろうと判断されている像である。
鎌倉時代初頭といえば、那古寺が秀円によって再興された時期である。造像にあたって有力な檀那が存在したものと思われる。また像の胎内背面には、鎌倉時代末の元亨4年(1324)に修理されたことが墨書されている。その段階で真言寺院である那古寺に安置されていた像であることと、その修理が高橋景綱と平重行という檀那によって行なわれたことが確認できるが、両者についても未詳である。 また元禄大地震からおよそ60年を経て修理された際に胎内に収められた板札には、永正8年(1511)に薦野道了が再興檀那として塔と二王堂を修復したことが記されている。弘治3年(1557)に薦野神五 郎多々良平時盛という人物が那古寺の鐘を修復した記録があるが、鎌倉御家人であった多々良氏の子孫と考えられる。多々良庄(南房総市富浦町)を拠点にした一族が那古寺の有力檀那だったのだろう。