中興の秀円以降室町時代までの歴代住職についてはほとんど分かりません。過去帳に2世の秀山が「安西氏」とあるのが、地域豪族との関連をうかがわせます。戦国時代になると21世義秀以降に里見家とゆかりのある人物数名が住職になり、鶴谷八幡宮の別当として八幡宮を管理しました。また那古寺配下の寺として大福寺・長勝寺・常光寺など15ヶ寺を従え、そこから住職になる者が多く出ました。一方江戸時代になると、32世頼応のときから府中宝珠院の末寺として位置づけられ、さまざまなトラブルが引き起こされました。以下に江戸時代にまとめられた各種歴代記録をもとに住職の一覧を作成しました。
歴世 | 那古寺転住年 入寂年月日 |
事歴 | |
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中興 | 秀圓 | 正治2年(1200) 7月15日 |
「当寺真言初祖也」「密教初祖」、「何処人というを知らず」。 正治3年あるいは正治4年ともあり、7 月16日ともあり |
2世 | 秀山 | 健保6年(1218) 9月10日 |
密教二世、「安西氏云々」とあり |
3世 | 覺乗 | 寛喜3年(1231) 3月8日 |
密教三世 |
4世 | 亮範 | 建長5年(1253) 月18日 |
密教四世 |
5世 | 亮智 | 文永1年(1264) 2月2日 |
密教五世 |
6世 | 勢辨 | 弘安1年(1278) 7月10日 |
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7世 | 勢誉 | 正応3年(1290) 9月20日 |
8月ともあり |
8世 | 超誉 | 正安2年(1300) 月18日 |
2月ともあり |
9世 | 玄眞 | 応長1年(1311) 月25日 |
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10世 | 玄智 | 正中2年(1325) 10月15日 |
「已上、縁起箱に在り、年月不明の宥学招帖にあり 」 8月ともあり |
11世 | 威海 | 元徳2年(1330) 月2日 |
「已下、宥学宥在招霊箱に見えたり、亦記録にもあり」 |
12世 | 弁祐 | 康永2年(1343) 3月15日 |
7月ともあり |
13世 | 寛勢 | 文和2年(1353) 5月22日 |
12月ともあり |
14世 | 寛隆 | 応安2年(1369) 2月25日 |
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15世 | 辨隆 | 康暦2年(1380) 9月22日 |
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16世 | 弁澄 | 応永3年(1396) 4月2日 |
応永2年ともあり |
17世 | 頼圓 | 正長1年(1428) 月4日 |
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18世 | 頼智 | 応永16年(1409) 12月17日 |
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19世 | 頼隆 | 文安3年(1446) 4月11日 |
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20世 | 亮純 | 享徳2年(1453) 8月22日 |
4月ともあり |
21世 | 義秀 | 永正1年(1504) 9月16日 |
「里見義実三男、那古寺別当大納言。後見亮忍」 |
22世 | 辨良 | 長享2年(1488) 10月14日 |
11月ともあり |
23世 | 熊石丸 | 永正8年(1511) 6月24日 |
11月24日ともあり、里見実堯の男。「後見弁瑜」 |
24世 | 義弁 | 享禄2年(1529) 2月29日 |
享禄2年6月の八幡宮棟札に名あり |
25世 | 教弁 | 天文20年(1551) 11月21日 |
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26世 | 宥範 | 天正10年(1582) 4月7日 |
「里見家ノ人也」、惣持院より転住。 10月7日ともあり、4月16日ともあり |
27世 | 頼憲 | 天正17年(1589) 8月18日 |
6月ともあり |
28世 | 頼深 | 文禄2年(1593) 8月8日 |
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29世 | 源智 | 慶長7年(1604) 月20日 |
字は清心。のち宝珠院へ転住。49歳寂。「鑑守宥栄」とあり |
30世 | 宥怡 | 元和8年(1622) 12月23日 |
「里見家」とあり。常光寺より転住。 |
31世 | 頼宜 | 寛永8年(1631) 10月15日 |
「鑑住」とあり 寛永10年ともあり |
32世 | 頼應 | 寛文1年(1661) 12月13日 |
衆分常光寺より当山へ移る。宝珠院十八世堅覚法印より法流を嗣ぎ末寺となる。御当家御朱印始て頂戴の願書あり。「此代宝珠院法流相続」、「求法師也」 |
33世 | 頼實 | 元禄9年(1696) 7月25日 |
字は智?(ちさん)。那古村産。頼応の弟子。衆分常光寺より移る。石川領と山論絵図証文あり。77歳寂。 |
34世 | 頼眞 | 元禄8年(1695) 7月3日 |
当村産。頼実法弟。衆分恵日坊より移る。 |
35世 | 宥学 | 享保18年(1733) 9月6日 |
字は春海。平郡保田郷の人。智積院宥鑁僧正の弟子。頼真弟子なきにつき、師弟の契約致し、京都より呼び下し当寺に付属仕り候。 |
36世 | 宥意 | 享保6年(1721) 11月29日 |
字は祖海。甲州の人。宥学弟子。衆分常光寺より転住。八幡本社再興。 |
37世 | 頼鑁 | 享保7年(1722) 寛保2年(1742) 1月4日 |
字は音海。姓は高尾氏。平郡船形村産。衆分大福寺頼祐弟子。宝珠院敞海申し付けにより、享保7年6月大福寺より当院へ転住。本山11年、時に世寿50歳。本堂建立。八幡拝殿造立。八幡社家と争論あり、裁判帖あり。 |
38世 | 頼意 | 享保21年(1736) 明和4年(1767) 6月2日 |
字は春潮、俗姓山口氏。平郡江名原村産。衆分川名村長勝寺頼祥弟子。享保21年1月、宝珠院真亮申し付けにより、長勝寺より当山へ転住。本山17年、時に世寿40歳。八幡社家と争論、裁判帖あり。寛延2年、本山化主龍天僧正の命を蒙り、宝珠院に転じて、宝暦2年伝法大会修行、宝暦13年智積院において精義修行。71歳寂。 |
39世 | 憲長 | 寛延3年(1750) 明和4年(1767) 4月10日 |
字は太順、姓は川名氏。平郡府中村産。宝珠院運盛弟子。大福寺建立。寛延3年7月、先師宝珠院頼意申し付けにより、衆分大福寺より当院へ転住。本山16年、時に世寿51歳。本堂を山上より今の地に移す。多宝塔・六角堂・大日堂を新造、八幡宮本社并に拝殿屋根替え、若宮新建。64歳寂。 |
40世 | 頼栄 | 明和2年(1765) 寛政4年(1792) 3月晦日 |
字は海本、姓は秋元氏。平郡川名村産。宝珠院頼意弟子。衆分長勝寺より、明和2年3月転住。本山30年、時に世寿50歳。本堂宮殿建立。天明1年、鑁愈僧正の命により宝珠院へ転住、7月24日入院。71歳寂。 |
41世 | 頼什 | 天明1年(1781) 天明4年(1784) 11月26日 |
字は了潭、姓は外山氏。平郡船形村産。本山18年、世寿51歳。先師頼栄より天明1年7月28日住職申し付けられ、衆分長勝寺より8月4日に入院。54歳寂。 |
42世 | 宥覺 | 天明5年(1785) 寛政3年(1791) 4月11日 |
字は堯識。天明5年2月、衆分常光寺より当山へ移転。世寿63歳。衆分の中老なれど、本山6年の留学なれば、宝珠院頼栄の入札取り計らいにより入院。入札の初めなり。70歳寂。 |
43世 | 頼憲 | 寛政3年(1791) 寛政12年(1800) 4月10日 |
字は徳門。当山一世宝珠院頼栄弟子。落札により常光寺より転住、時に世寿43歳。本山20年。寛政6年、多病につき恵日坊へ退隠。 |
44世 | 憲應 | 寛政6年(1794) 享和3年(1803) 7月晦日 |
字は泰超、姓は小林氏。平郡府中村の人。長勝寺より転住。時に世寿59歳。本山10年。67歳寂。 |
45世 | 満盛 | 文化1年(1804) | 字は文至、長狭郡成川村産。本山8年。世寿46歳にして、文化1年長勝寺より当寺に住す。公裁により退隠。 |
45世 (重複) |
行明 | 文化10年(1813) 天保10年(1839) 5月24日 |
字は戒猷、松平越中守内入江衛守倅。奥州守山師継院で得度。本山18年、世寿40歳にして、文化10年江戸愛宕金剛院より転住。後本山に帰住して、第一座に進み、さらに洛東六波羅蜜寺に住す。行海と改む。56歳寂。<満盛を除くの注> |
46世 | 宥應 | 天保2年(1831) 天保6年(1835) 12月28日 |
字は春浄、安房郡上須賀村産。本山9年、世寿47歳にして、天保2年に大福寺より転住。51歳寂。 |
47世 | 澄意 | 天保7年(1636) 明治1年(1868) 9月2日 |
字は天亮、安房郡水玉村真田勘兵衛倅。本山18年、世寿51歳にして、天保7年3月、常光寺より転住。当代より常光寺・長勝寺・大福寺から無入札にて順次昇進の約定す。 |
48世 | 宥鮮 | 文久2年(1862) 慶応1年(1865) 5月25日 |
字が観光、姓は石井氏。平郡平久里下村産。宥應弟子。本山6年、世寿59歳にして、当寺に住す。62歳寂。 |
49世 | 宥賢 | 元治1年(1864) 慶応2年(1866) 9月22日 |
字は恭順、姓は忍足氏。安房郡北条村産。宥應弟子。本山6年、世寿56歳にして、元治1年当寺に住す。58歳寂。 |
50世 | 秀匡 | 慶応2年(1866) 明治28年(1895) 1月11日 |
字は岐東、姓は高橋氏。安房郡腰越村産。福性院三明弟子。本山6年、世寿54歳にして、慶応2年当寺に住す。84歳寂。 |
51世 | 頼長 | 明治2年(1869) 明治17年(1884) 4月11日 |
字は見明、姓は伊藤氏。安房郡中村産。71歳寂。 |
52世 | 運位 | 明治12年(1879) 明治34年(1901) 5月2日 |
字は胎典。姓は松下氏。朝夷郡大貫村産。明治29年12月長須賀宝積院へ転住。67歳寂。 |
53世 | 盛雅 | 明治29年(1896) 明治43年(1910) 10月7日 |
姓は安達氏。朝夷郡白間津村産。明治29年兼務。明治40年10月辞任。65歳寂。 |
54世 | 宥明 | 明治41年(1908) 大正14年(1925) 9月24日 |
姓は安田氏。安房郡腰越村産。常光寺より兼務。71歳寂 |
55世 | 榮寛 | 大正4年(1915) 大正12年(1923) 9月17日 |
姓は小原氏。安房郡南条村産。西之坊より移る。大正8年2月には現住。大正10年退隠とされるが、それ以前に宥明が入寺して、真野寺へ転住。75歳寂。 |
56世 | 宥明 | 大正14年(1925) 9月24日 |
姓は安田氏。安房郡腰越村産。常光寺より兼務。大正9年11月には現住。同年12月辞任。71歳寂。 |
57世 | 亮船 | 大正10年(1921) 昭和9年(1934) 7月10日 |
姓は安西氏。関東大震災からの復興をなす。59歳寂。 |
58世 | 榮専 | 昭和37年(1962) 9月10日 |
姓は佐野氏。83歳寂。 |
59世 | 亮恵 | 昭和29年(1954) 昭和45年(1970) 4月6日 |
姓は安西氏。北海道旭川産。仁王門再建。67歳寂。 |
60世 | 明玄 | 昭和48年(1973) 昭和54年(1979) 3月13日 |
姓は杉田氏。館山町上須賀産。鐘楼堂建立。69歳寂。 |
61世 | 宥賢 | 昭和54年(1979) 平成5年(1993) 4月6日 |
姓は佐野氏。多宝塔修復。76歳寂。 |
62世 | 良泰 | 平成1年(1989) | 石川良泰。昭和62年9月、宝珠院52世住職。平成1年11月より宝珠院にて兼務す。観音堂を解体修理。 |