江戸時代の安房の真言宗寺院約280か寺は、府中村(南房総市)の宝珠院を一国の触頭とする事務上の管理下に置かれていました。これと別に安房には宝珠院を含めて7か寺の田舎本寺があり、すべての寺院が法流上の末寺や門徒として各田舎本寺の支配下にありました。那古寺は宝珠院の門徒だったようですが、承応元年(1652)に住職頼応が、宝珠院第18世堅覚の法流を受けたことから、門徒から末寺に昇格しています。しかし那古寺は里見時代からの権力とのかかわりもあり、宝珠院の支配を受けない衆分と呼ばれる15か寺(浄光寺(常光寺)・長勝寺・大福寺・金光寺・海光寺・新秀寺(真勝寺)・千灯院・正覚寺、那古寺内にある脇坊<西之坊・恵日坊・源養坊・普門坊・入之坊・岩室坊・良禅坊>)を独自の統制下におく寺院組織を作り上げていました。那古寺の住職には、衆分のうち上三ヶ寺と呼ばれる「常光寺・長勝寺・大福寺」から昇進するかたちもできていました。
ところが宝珠院はこの衆分を宝珠院門徒として直接の統制下に位置づけていたことから、天明3年(1783)になって衆分住職の任命をめぐる両寺の主張が対立し、その後那古寺衆分の位置づけをめぐる争論が30年にわたって続けられています。この争論は文化10年(1813)年に宝珠院の主張が通ったかたちで決着しましたが、その後も那古寺と衆分の関係は続きました。
38.那古村明細帳<寺領> 寛政5年(1793)
那古寺蔵
55.住職入札に関する願書 天明2年(1782)
那古寺蔵
天明2年(1782)、全国の新義真言宗の統括寺院である江戸四箇寺から、宝珠院末寺の住職を関係寺院による入札で決めるようにとの指示があった。左の文書は那古寺については除外するようにと宝珠院へ願い出たものである。
またこの文書は、那古寺住職の入札を行なう際の取り決めが、那古寺と衆分によって神仏に誓う形で約束された際のものである。